一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ケインズはこう言った』

2012-12-04 | 乱読日記

本書はいわゆるケインジアンの主張ではなく、「多様で複雑な 現実を念頭に置きながら、政策の効果が実際にどうなるかを論じる」 ケインズだったら今の日本経済をどうとらえただろう、という切り口の本。

帯に「これがケインズの経済学だ!」とありますが、ケインズ以外についても言及している奥行きの広い本になっています。  

逆にケインズ以外のところが面白く、今の新自由主義者の主張はハイエクの主張とは異なるという説明なども興味深く読めます。  

ハイエクは、政府よりも市場の方が経済的に効率的だからという理由で、「民間にできることは民間に委ねればよい」とは言わなかった。 また、規制や保護よりも「自由な市場にまかせるほうが高い成長を実現できるから競争は望ましい」とも言わなかった。
・・・いかなる人間知性であろうとも社会の運行を司る知識をすべて理解することはできない。だから、人間の裁量的な判断(政府) に依存しない自生的なルールに基づく、非人格的なメカニズム(市場)が必要だ。−−これがハイエクの主張である。  
・・・何が最適な生産技術であり、どのような価格が需要と供給を均衡(一致)させるかを誰も知らないから、それを見つけるために 情報を普及させることが競争の意義だ。−−これがハイエクの意見である。

 ハイエクの唱えた真の新自由主義と、偽りの「新自由主義」との間には大きな違いがある。「政府は非効率、民間は効率」というドグマ(独善) によって、市民の安全や安心を守ってきた規制や保護まで撤廃したり、あらゆる分野において自由化や民営化を進めたりすることに 経済学的な根拠も、また社会的な正当性も一切存在しない。

さて、本題。  

著者は現在の日本はケインズが言う非自発的失業でなく、逆に古典派の言う均衡賃金以下で 働くことを選択せざるを得ない「非自発的雇用」が存在する状態だと主張します。


その理由を解き明かすために、本書はケインズやハイエクだけなくマルクスにまで遡ります。  

 使用価値が異なる二つの商品の価値が等しくなる理由を、マルクス以前(ケインズの時代よりもさらに古い時代) の古典派は、一台の机と二個のイスに投入されている労働の量が等しいからだと説明した。 ところが、マルクスは逆に一台の机と二個のイスが市場で等しい価値を持つ商品として交換される結果として、 両者に投入された抽象的な労働の量は等しい関係になると喝破したのである。
 ここで一台の机を人間の労働力に、二個のイスを賃金に置き換えてマルクスの「商品」の理論を適用すれば、 賃金と交換される労働力の価値は、その労働力を再生産するために必要な貨幣の価値と等しいのではなく、 実際に支払われた賃金の価値が結果的に労働力の価値に等しいと結果的に評価されたことになる。  

 つまり、マルクスにしたがえば、非自発的雇用とは労働の苦痛よりも賃金の方が低い状態ではなく、 企業が労働力の価値を、雇用者が実感する苦痛よりも低く評価する状態なのである。  

そして、企業が労働力の価値を再生産可能な水準よりも低く評価する自由を得ている状態では、 「自発的雇用」はゼロ金利でも、財政支出でも解決できない、と言います。  

私たちはここで岐路に立つ。なお、成長の可能性に雇用の安定と暮らしの安心を求めるのか、 それとも成長に固執せず働く機会の確保と暮らしの安心を求めるのか。  

そして著者は、非自発的雇用の解決には経済成長を目指すよりも法定労働時間数の大幅な短縮などにより人為的に労働需給の逼迫を作り出す ことが有効だと主張します。

その分析には納得する部分もありますが、企業活動がグローバル化している現状では、一国だけで「人為的に労働需給の逼迫を作り出す」 ことが可能なのかどうか、賃金の安い国の労働者に職を奪われる(著者流に言えば、企業が賃金の安い国の労働者と同等の評価をする) という状態が問題の深刻なところなのではないかと思います。

 そのあたりは新書版としての本書の問題提起のつぎにくるものと期待したいですと思います。


 

コメント
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