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一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

コンラッド『闇の奥』

2005-11-24 | 乱読日記
Kobantoさんの記事に背中を押されて、本棚の奥から取り出してコンラッド『闇の奥』を読みました。

1899年の作品で、コンゴ川を遡って密林の最奥の象牙商社の出張所に居ついてしまい伝説となったエージェントを連れ戻しに行くという大英帝国が元気だった頃の話です。
コッポラの「地獄の黙示録」の原案になったことでも有名です。
実際主人公が尋ねていくのが「クルツ」という名前だったり(映画では「カーツ大佐」)プロットやエピソードも原案をかなり下敷きにしているところがあります。

一方でE.W.サイードは『オリエンタリズム』の中で本書に言及して(一説は下巻扉の部分でも引用されています)

「西洋に発見されるオリエント」という「発見し、現場におり立ち、暴露しようとする認識論上の衝動に特有な倫理的中立性をおびることができ」る地理的な欲望という形で東洋への著述に潜在しているオリエンタリズムの一例としてあげています。

本書の場合はアフリカに対して「発見し、暴露」しようとすらせず、不可知な他者であり、略奪の対象、クルツの狂気をもたらした特殊な外部環境というもっと引いた立場で書いているところが「ここにヘンな世界があるよ」と高みから言っているということなんでしょう。

確かに現地や原住民に対する認識の壁(コミットのなさ)がクルツの狂気や他のイギリス人の人間性の荒廃の由来に踏みこまないことになり、結局「アフリカ」というのが単なるモチーフで「狂気に直面した主人公の心の揺れ」を描いただけ、という物足りなさはあります。

まあ、それも現代の視点(高み)からの見方で、そういう小説もあっていいのですが(もともと文庫で160ページくらいの中編小説ですし)・・・


考えてみるとこの点は「地獄の黙示録」にも共通しているように感じます。
この映画も「戦争の狂気」を描いているのでなく「狂気のモチーフ」として戦争を描いているわけですね。

ただ、終わり方は小説のほうがわかりやすかったです。







コメント (3)
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