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一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『アートは資本主義の行方を予言する』

2015-12-07 | 乱読日記
タイトルは大仰だが面白い。

日本で最初に現代アートを取扱い始めた東京画廊の二代目当主が、日本の戦後の現代アートの歩みと現在の世界の潮流を語る本。

特に、現代美術は世界のカネの流れとつながっている、というところが本のタイトルでもありポイント。
ただ、単にカネを持っているところに美術品が集まるという話ではなく、経済力を持った国が自国の文化的地位を向上させるための政策の一環として現代美術に取り組んでいるが、一方で日本はいまだにハコモノから抜け出せていないという部分を著者は力説している。

アメリカは経済的な覇権を握った後に、文化面でも欧州に対抗するために自国文化としての現代アートの発信に取り組み現代アートの覇権を握った。
今日では(日本を素通りして)中国が世界第二の美術市場になっているだけでなく、美術館を建設し、アートフェアを開催し、中国人アーティストを発掘してそれを高値で買うことで市場に注目させるという一貫した政策を行っている。
実際、2011年のアーティストの年間落札額トップ10のうち6人が中国人となっている。
(それに対して日本は、バブル期にハコモノを建てて印象派の絵画を買い集めるだけ・・・)


それ以外にも、グローバルで売れるにはその国の美術史や文化とつながる歴史性と物語性が必要、とか、自分の主観だけで作られた「閉じた」作品でなくメッセージ性をいかに伝えるかという客観性も持った「開いた」作品であるかがプロとアマの違い、など、画廊経営者ならではの切り口も多い。


最後の方で資本主義の限界が見える中で、アートや文化の持つ力が未来を切り開く原動力になるという著者の主張の部分から、(おそらく編集者がビジネスマンをターゲットにすべく)題名を考えたのでしょうが、手に取る動機はさておき、現代アートand/orお金に関心のある人には面白い本だと思う。


(参考)
本書は画廊・ギャラリーでの二次流通の市場の話が中心になっているが、美術館の経営、特に米国で資産家・蒐集家の所蔵品を寄贈させるしくみなどについては、『美術館は眠らない』がおすすめ。
絶版ですが中古では入手可能なようです。
(その部分についてはこちらのエントリでもちょっと触れています。)





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『ぼっち村』

2015-12-04 | 乱読日記
売れない漫画家が田舎暮らしをするという「週間SPA!」のエッセイ漫画。

売れない漫画家の自虐ネタや週刊SPA!の内輪ネタはともかく、まったくの素人が田舎暮らしを始めたらどうなるかを、一切飾らずに書いてあるという点でとても面白い。

よくある「田舎暮らしのすすめ」とか「里山移住記」は、結局は上手くいっている人の話だし、そこまでの苦労話も「今となってはいい思い出」程度の語られ方をすることが多い。
これに対して本書はそもそも作者がやりたくて始めたわけでもなく、今もうまくいっているわけでもないので、畑仕事の難しさだけでなく、物件探しの苦労、大家とのトラブル、近所づきあい、冬場の過ごし方など、いきなり何の経験もなく係累もいないところで田舎暮らしを始めようとする人が直面することがガチで書いてある。

田舎住まいをしようという人(僕も年に何回かは思う)にはとても参考になると思う。




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『田宮模型の仕事』

2015-12-02 | 乱読日記

田宮模型を世界を代表するプラモデルメーカーに育て上げた田宮俊作氏(現会長)の一代記。
木製模型を扱っていた先代の後を継ぎ、プラモデルに進出、精密な模型作りで名をはせ、海外でも高い評価を受ける。そしてその後のミニ四駆の大ヒットなどが語られている。

文中でもしばしば言及される、少ない小遣いを握りしめながら模型屋の店頭にいる子どもであった身としては、涙なしには読めない。

当時1/35ミリタリーミニチュアシリーズがブームであったが、何を作れるか、買えるかは、プラモ作りの技術とともに小遣いの資金量によって歴然とした格差があり、小学生の中学年の頃は指をくわえて見ているしかなかった。
ちょうど当時88ミリ砲という非常に精緻な傑作が出たところで、値段も1000円近くして、部品の組み立て方の難しさも合わせて、高値の花であった。さらに残酷なことに、88ミリ砲をけん引する8トンハーフトラック(後輪がキャタピラになっていて不整地の輸送に適している)もセットで売り出されていた。

ということで僕自身は、小さなジープや兵士のミニチュアなどの小物ばかりを作っていた。
もっともドイツ軍のはキューベルワーゲンという普通のジープとシュビムワーゲンという水陸両用のがあるなど、バリエーションには事欠かなかった。
(ちなみに、シュビムワーゲンについては、今年ハーグ郊外のLouwman Museumで感激の再会(?)を果たすことができた)




本書にも兵士のミニチュアについてはこんなくだりがある。

たとえば、MMシリーズの人形には、頭の部分とヘルメットを分けているものがあります。パーツで見ると頭の上半分がないので異様な感じがしますが、ヘルメットをかぶるラインで分離することにより、ヘルメットのつばのシャープさが表現できるのです。逆に、ヘルメットをかぶった状態で一体成型すると、つばがぶ厚くなってしまいます。

こういうように模型に対してすみからすみまでまで情熱を注いだ田宮模型の一代記、プラモデルに熱狂した人に面白くないはずがない。


そうでない人が読んでも、たぶん面白いと思います。


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『寺院消滅』

2015-11-30 | 乱読日記

地方を中心に寺院の経営が成り立たなくなり、廃寺されていく現状を、自らも実家の寺の副住職でもある著者が取材した本。

地方での人口減少をきっかけに、経営難、後継者不足、地域コミュニティの中での役割の低下などの負のスパイラルに巻き込まれている寺院の現状を紹介するとともに、新しい寺院経営の在り方を模索している実例も紹介している。

そして、経営難の背景を掘り下げていくと、人口減少だけでなく、さまざまな要因が明らかになってくる。

たとえば戦前の寺の経営は地代に支えられていたこと。1700年代頃から地域コミュニティの核であった寺院が住民に貸金を行い、代物弁済をうけて貸地を増やしていったが、戦後の農地解放で所有権を失い地代収入が一気に少なくなったこと(逆に言えば都心部の寺院は貸地が宅地だったので今でも借地の底地をたくさん持っているわけだ)。
(注:葬儀についても直葬やお布施の見える化などが進み、寺院の関与の仕方が変わってきていること(現在の寺院経営の「葬式仏教化」への批判の代表例としては『0(ゼロ)葬--あっさり死ぬ』参照)。
さらには、東日本大震災の被災からの復旧においては、政教分離の原則により、国や自治体からの補助金をうけられないという事情もある。


本書は寺院経営に関するのドキュメンタリーとしては幅広い問題を扱っているが、最後は「経営」と「宗教・信仰」という二つの性格の違う問題になってしまうことが難しさを象徴している。
本書では檀家制度の廃止や事情があって引き取り手のいない遺骨の「送骨サービス」などの新しい取り組みを始めている寺の事例が紹介され、また各地の先進的な僧侶とのインタビューのも挿入されている。
それらの中では、宗教・信仰に立ち返ることの重要さが強調されていた。

反面、本書の帯には「あなたの菩提寺がなくなる?」とあるが、「寺がなくなるから困る」ではなく、時代の経済環境や死生観に合った宗教・寺院のありかたを寺院だけでなく檀家や檀家候補者の我々も模索していく必要があると思う。


一方で、現実には、改葬(墓を移す)の際には行政に提出する改葬申請書に住職の署名が必要で事実上住職の同意が必要になる(これは本書で初めて知った)など寺院・宗教法人にはさまざまな既得権がある。それ以前に、そもそも墓地を作るの許可は宗教法人か地方公共団体にしか与えられない。

しかし、イエ主体から個人主体への変化に伴う宗教観・死生観の変化や人口の(都市部への)移動に伴う墓地・祭祀のありかたの変化があり、それを無視して既得権をてこに変化に抗おうとするのであれば、寺院の在り方は今後、より厳しくなるのではないか。

これからの寺院には、経営面以上に、宗教により軸足を置いた変化が求められているように思った。






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『ナショナル・ストーリー・プロジェクトⅡ』

2015-11-29 | 乱読日記

積読だけでなく、これは、と思う本はもったいないので読まないでしばらくとっておく、というのが私の悪い癖。

実は「Ⅰ」を読んで非常に面白かったので、「Ⅱ」はしばらく読まないでとってあった。

「Ⅰ」「Ⅱ」とあれば「Ⅱ」は続編と思うのが普通だろうが、実は「Ⅱ」は「Ⅰ」とセットになっていた。
「Ⅰ」に訳者あとがきや解説がないので気が付かなかった方も悪いのだが、それなら「上」「下」とか「前編」「後編」とするのが誤解を招かないのではないか。

などと文句を言いつつも、中身は非常に面白いので堪能できた。

後半のテーマの一つに「戦争」がある。
戦争と言っても、南北戦争の話(祖父から聞いた)もある。
第一次大戦はその後欧州から米国に移ってきた祖父などから来た話が主。
一番多いのが第二次大戦で、ベトナム戦争の話は少ない。

原書の刊行が2001年だったのでイラン進攻の前であるし、湾岸戦争は生々しすぎるのは分かるが、ベトナム戦争も25年では物語として昇華(消化)するのは難しいのかもしれない。


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『ナショナル・ストーリー・プロジェクト <1>』

2015-11-27 | 乱読日記

事実は小説より生成り。


ポール・オースターがラジオ番組のためにリスナーがつづった実話の中から精選した作品集。

このアンソロジーには179の物語が入っている。過去1年に送られてきた四千点のうち、私から見て最良の物語がここに収められている。と同時にこれは、いわばナショナル・ストーリー・プロジェクト全体のミニチュア版というか、全体の傾向を伝えるような選択にもなっている。この本に収められることになった、夢、動物、なくした物等々に関する物語一つひとつに対し、代わりに選ばれてもよかった同テーマの物語がそれぞれ何ダースかずつあったのだ。

これらの物語をあえて定義するなら「至急報(ディスパッチ)」と呼びたい。つまり、個人個人の体験の前線から送られてきた報告。アメリカ人一人ひとりのプライベートな世界に関する物語でありながら、そこには逃れがたい歴史の爪あとが残っているのを読み手はくり返し目にすることになる。個人の運命が、社会全体によってかたちづくられていくその入り組んださまを再三再四思い知らされるのだ。

一編一編がとても面白い。
また、「普通の人々」などいない、それぞれの人生がオリジナルな喜怒哀楽に満ちているということを改めて考えさせられる。


翻訳は柴田元幸ほか。
いろんな人の語り口を生き生きと訳してくれている。

 

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『稼ぐまちが地方を変える 』

2015-11-26 | 乱読日記

高校生の時に早稲田商店会の活性化に携わったことをきっかけに、街おこしビジネスに取り組んでいる著者が、町おこし、地域活性化について「誰も言わなかった10の鉄則」を書いた本。

冒頭の早稲田商店会の活動がどのようにして成功し、何をきっかけに暗転していったかのエピソードが一番印象的。

「10の鉄則」については、ビジネスの立ち上げ全般に共通する部分もある(その意味では変なビジネス本よりは理屈っぽくないし実践的でいい)が、やはり一番大事なのは補助金依存の危険性のところだと思う。  

 税金は、そもそも最初から事業性がない社会制度のためにあります。補助金を入れた瞬間に、その事業は本来の機能を失い、誰も対価を支払うような取り組みではなくなり、補助金なしには継続できない状況にまで追い込まれてしまいます。  
 補助金は事業メニューというものがあり、「こういうことをやれば補助金をあげます」と使い道がもとから規定されています。そうすると、補助金をもらうことが目的化して、みんなが役所の推奨する取り組みばかりするようになります。
 しかも、補助金のメニューは、他の地域でうまくいった事例をそのまま他の地域に導入する前提になっており、「同じようなことを、補助金を使って真似してください」と言っているようなもの。つまり、他の地域の枠組みのコピーを推奨しているにすぎないわけです。

行政、特に国や県の施策は、もともと行政自体にアイデアがないから、どこかの成功事例を「全国(全県)展開する」というものが多い。
それは一概に行政の責任だけではなく、「ウチにもあれが欲しい」という圧力をかける議員や首長の存在も大きいのだが、そうすると、日本どこをとっても金太郎飴のようなことになってしまう。

地方活性化については著者のいうとおりであるし、最近のインバウンド観光客の増加をうけた「観光立国」についても、かえって外国人観光客にとっての魅力を減じてしまう結果にならなければいいと思う。

 

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『国家と歴史 戦後日本の歴史問題』

2015-11-25 | 乱読日記

良書。

外務省外交資料館、防衛庁防衛研修所戦史部以降、教科書検定臨時委員、日米「密約」問題に関する有識者委員会委員など一貫して問題国の歴史事業に携わってきた著者が、戦後の歴史問題の発端から現在に至るまでの事実関係と背景を年代ごとにまとめている。  

本書の議論の中心は、「過去の戦争」について、なぜ国民の多くが共有できるパブリック・メモリーが形成できないのか、というより、多様な歴史認識や戦争観の共存・競合を前提とする敗戦国が、どのように戦争や植民地支配に起因する「歴史問題」に対処してきたか、という点である。それによって、より本質的な問題群が見えてくると感じたからである。  

とあるように、本書は現在ではあまり話題にならない問題も含め、その原因と現在への影響について語っている。

たとえば、在外私有財産問題-日本人が植民地や占領地域に残した財産の国家による補償問題-ドイツ(ヴェルサイユ条約)やイタリア(イタリア平和条約)でも政府による補償が明文化されたにもかかわらず、日本政府の財政事情や「他の戦災者との公平」からの配慮の要求が功を奏してか講和条約では定められなかった。

また、植民地住民の戸籍問題。
国際慣行では、ある地域が割譲される場合には住民には国籍の選択権が賦与されているにもかかわらず、講和条約発効時の法務府民事局長通達で韓国・朝鮮人、旧植民地出身者は敗戦までは「日本臣民」として扱われていたにもかかわらず(日本国内に在住している人も含めて)一律「外国人」とされ、国籍選択権を与えなかった(この通達については1961年の最高裁判決において合憲の判決がなされている。また講和条約発効までの間は1947年の外国人登録令により、在日台湾・朝鮮人は日本国籍を持ちながら外国人とみなされるという状態が続いて社会的問題になったこともあった。)。  
その後帰化要件が緩和されたとはいえ現在でも残る国籍差別問題を議論するにあたっては、この辺の知識は不可欠だと思う。


著者は歴史問題の根源は戦後日本が過去の克服をできなかったことにあると指摘する。  

このように、新憲法体制は戦前国家との「断絶性」を強調する国家像と、「連続性」を強調する国家像という、二つの国家像を内包しているということができる。戦後政治の中で、前者が基本的な国家像として定着していくものの、戦争や植民地支配という「過去の克服」という点では、それに相応しい解決策を提示することはできなかった。  

その一方、犠牲者意識に支えられた平和主義は、戦争に対する「リアリティ」を欠いていたがゆえに、戦争の評価と戦没者の追悼・慰霊とを切り離すという政府の一貫した立場と親和的であり、遺族援護法や恩給法を支える役割を果たしてきた。とくに、軍人・軍属の遺族の処遇を優先するという点で戦前と強い連続性を持つ恩給法は、戦争に対する評価を棚上げにした上で可能となった措置であった。

二つの国家像は、互いに矛盾するものとして認識されていたわけではなかった。天皇制維持の国際的認知を得るためにも、平和主義と民主主義の徹底は不可欠とされたからである。しかし両社は、国際冷戦と連動する国内冷戦(左右イデオロギー対立)に翻弄され、それぞれの立場は抜き差しならぬ対立に陥り、歪みのない形での「過去の克服」の道を閉ざしたのである。

戦後西ドイツは(中略)いわば普遍的価値を実現する戦後国家として再出発したがゆえに、「記憶・責任・未来」財団のような、戦後補償問題への持続的対応が可能であった。

しかし、日本の新憲法体制は、戦争や軍備を想定した規定の徹底的な排除という点では平和主義の規範性をより際立たせることになったものの、平和主義に依拠した過去の戦争の清算に関する法令や公的プログラムを有せず、歴史問題の解決に役立つものではなかった。


平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこには沖縄からの批判にも耐え、村山談話を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の傍聴の遺産について、広く歴史的検証可能は知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもある。


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『外交ドキュメント歴史認識 』

2015-11-24 | 乱読日記
歴史教科書問題、靖国神社参拝問題、従軍慰安婦問題と河野談話、村山談話など、歴史認識をめぐる日中韓の外交問題に対して、時の政府がどのような対応をしてきたかをまとめたもの。

日本国内の世論や中国、韓国の主張はその時々で大きく変わる中で、政府が公式声明だけでなく外交活動も含めてどのように対応してきたかを丁寧にまとめている。

公式声明や首脳会談にあたっては、相手方の中国・韓国政府とも事前に綿密な協議を重ねながら、その時々の相手の事情にも配慮しつつ日本の主張の一貫性を維持するという外交活動の実態が描かれている。

印象的だったのが、自民党単独政権から細川内閣・村山内閣と政権交代があった中でも、その時々の政権が国としての主張の一貫性の維持の重要性を考えていたこと。

その反面、ここ数年、政権を担う立場の重みが当の本人に意識されなくなっているように感じられるところが心配である。




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『ビッグデータ・コネクト』

2015-11-20 | 乱読日記
面白かった。

進歩的市長が進める行政サービスの民間委託の象徴としてのプロジェクトのエンジニアが誘拐された。警察のサイバー犯罪捜査官に捜査官が過去に冤罪で逮捕したハッカーが絡みながら、誘拐の裏にある巨大プロジェクトの闇に挑む、というストーリー。

行政サービスの民間委託、システム開発業界の重層下請け構造、マイナンバー制度やその前にあった住基カードのシステム上の問題、個人情報保護法の限界など、最近のタイムリーな話題を精緻なミステリーに仕上げていて一気に読ませます。


作者はソフトウエア会社に勤務しながら第一作を電子書籍で自費出版したのがデビューのきっかけだったそうですが、業界事情に詳しいだけでなく、4冊め(電子出版の時代ではもはや「冊」ではないのかもしれませんが)の長編小説である本作では、文体に変な生硬さもなく、システム開発の現場の実情や個人情報保護の実態がリアリティをもって迫ってきます。

マイナンバーの配布が開始され(そういえばまだ通知も来ていないな)、CCCへの図書館委託も話題になる中、また「ITゼネコン」「IT土方」などという言葉もあるように建設業界に例えられる重層構造の話はここのところの基礎杭をめぐる話も想起されるなど、タイムリーな一冊です。




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『シェフを「つづける」ということ』

2015-11-19 | 乱読日記
1990年代後半から2000年代初めに日本から大量の若手料理人がイタリアに修行にわたった。
石を投げれば日本人に当たる、とか、シェフ以外はすべて日本人というレストランもあったなどと言われた時代だった。
その2002年にイタリアに渡った料理人を現地で取材して本にした著者が、10年後の彼らを取材した本。

イタリアで修業したとしいても、人数が多いので帰国後には激しい競争が待っている。もちろん日本でも毎年料理学校を卒業する若者がいるわけで、その中でシェフとなり、店を続けてることができているのはごく一部だろうという著者の予想に反し、多くの料理人がシェフを続けていた。
その中の15人の10年間の軌跡と現在をまとめている。

確かに最近はターミナル駅だけでなく小さな駅にもこじゃれたレストランを見かけるようになっている。
自宅の最寄駅は飲食店が比較的多いが、一方で入れ替わりも激しい。
1年持てば軌道に乗るのだろうが、1年を乗り切れない店も多い。
また、競合店の出現などで3年目くらいからさびれていくところも多い。

そういう中で、本書は自分のスタイルを持ちながら店を続けているシェフを取り上げている。

業界的には成功者の部類に入るのだろうが、それでもスポンサーとの意見の相違など、様々なハードルを乗り越えて現在に至っていることがわかる。
特にオーナーシェフになると、料理だけでなく経営から労務管理まですべて自分でやらねばならず、その中で試行錯誤しながら今のスタイルにたどりついた経緯が(そしてそこから先に何を目指そうとしているかが)描かれている。

自分のようなサラリーマンはこういうプロフェッショナルを見ると「好きじゃなきゃやれない」「自分にも才能があればなぁ」などと無責任なことを言うが、「好きなだけではできない」ところを乗り越えてきた人々の話は迫力がある。



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『「居場所」のない男、「時間」がない女』

2015-11-18 | 乱読日記

前半の「居場所のない男」では、戦後日本のサラリーマンの労働観を形作ってきた就労第一主義は、高度成長期までは婚姻率と就業率の高さによってそのひずみが表面化してこなかったが、団塊の世代が退職し、婚姻率が低下し、景気低迷により無業者の比率が増えることで、家庭や地域社会での孤立(特に退職後や無業者)が問題になってきたことを指摘します。

これ自身は、他所でも言われてきたことではあるのですが、本書の価値は第二部の「時間がない女」のところにあります。
ここで「男性の就労第一主義」が女性の時間が家族の共有財産(「時間財」)と位置づけられ、社会活動参加に直結しない活動に(しかも「愛情」を持って「自発的」に)携わることが求められてきた、その結果、家事労働はいまだ女性に偏重するなかで、社会進出、同時に少子化対策としての出産、さらには親の介護までもが求められることの矛盾を論証していきます。

第三部で、ワーク・ライフ・バランスを取り戻すためのいくつかの視点の提示と提言がされています。 ただ、そこの部分がこれ、という決め手のあるものに感じられない(簡単解決できるなら本書はいらない)のが、この問題の根深さを表しています。

 現在必要とされているのは、男性も含めた労働と家庭生活のあり方の再編である。単位時間あたりの生産性を高めかつ評価し、就労インセンティブを保ちつつ生活満足度を上げるためには、総合的な見直しが必要である。
 政府が述べてきた「女性活躍」は、スーパーウーマンが飛来して問題を解決してくれることを待っていてはかなわない。そうではなく、今、就労の現場にいる普通の女性が、普通の男性と協業し、その能力を発揮するための環境整備こそが求められている。
 このためには、逆説的に「既存の男性の就労モデル」を疑い、問題を検証する必要がある。(中略)
 だから、女性の社会進出と男性の家庭・地域社会進出をぜひとも推進することから始めてほしい。女性を企業のメンバーに加えると同時に、男性を地域社会メンバーに加えることが必要である。このためには、旧来の「標準世帯のライフスタイル」を前提とした社会制度を見直し、全方位的な雇用環境の改善を行う必要がある。(後略)


 

 

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『日本人の9割は正しい自己紹介を知らない』

2015-11-17 | 乱読日記

元外交官の著者が、会談・商談でのプロトコルを解説した本。

なので、日本人全体の9割が知らなくても問題ないのだが(こういうタイトルは逆効果にならないのだろうか?)

で、肝心の内容だが、よくまとまってはいるが、(昨日紹介した本に比べると)残念ながら新しい発見・気づきには乏しかった。
挿入されているエピソードが今一つ芯を外している感があったせいかもしれない。

食事会の公式な席次のところは勉強になりました。


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『TEDトーク 世界最高のプレゼン術【実践編】 世界最高のプレゼン術 』

2015-11-16 | 乱読日記
本屋で立ち読みしておもしろそうだったので購入。
ノウハウ本は、一つか二つ役に立つところがあれば儲けものなのだが、その基準からはお買い得感はあり。

特に最初の部分、テクニックに走るのでなく(=TED風に格好よくプレゼンをするのでなく)、「一番伝えたいことは何か」を絞り込むことの大事さ強調している部分が説得力があった。

まあ、確かにTEDのサブタイトルも"Ideas worth spreading"だし、当たり前なんだけど、TEDがメジャーになった結果「TED風プレゼン」の方が流行しているという状況もあるので、原点に返るということは大事。

残りの部分はテクニック論だけど、「TEDトーク研究家」を自称する著者だけあって、体系だった解説がされている。
既に他所でも言われていること、自分には関係ない(またはレベルが高すぎてできない)ことなどもあるが、なるほど、と思うこともそこそこ多かった。

特に演台とメモの使い方は早速利用させていただきました。


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『クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実』

2015-08-22 | 乱読日記

戦争や内乱、部族紛争、飢餓、難民問題などにおいて人道援助団体の活躍がしばしば報道されているが、それぞれの団体は資金提供者にアピールする必要があるため、「アピールしやすい」「他の団体もやっている」「テレビで報道される」援助に殺到しがちであるが、実はそれが現地での戦争や紛争を助長することになっている一面がある、ということを、数々のしかも有名な事例から具体的に説き起こしている。

たとえば
フツ族によるツチ族の虐殺から始まったルワンダ内乱はツチ族の軍隊によって制圧されたが、その結果大量のフツ族難民が隣国コンゴにあるゴマの難民キャンプに押し寄せた。 しかし、その難民キャンプは、フツ族の過激派によって支配されていて、援助物資や現地人スタッフの(法外な)給料は過激派の資金源になり、国境を越えてルワンダのツチ族への攻撃に使われている。

また、
アフガニスタンでは、テロとの戦いのもとに、人道援助を装った空爆中の食糧投下や文民を装った特殊部隊の投入によるタリバンと縁を切ることをバーターにした食糧援助などにより、人道主義者と「テロとの戦い」の部隊との区別がつかなくなった。 その結果、アフガニスタンにおける人道援助は非常に危険なものになり、NGOスタッフはほとんど表に出ず、現地人を使って援助プロジェクトの写真だけをドナーに報告するようなものになっている。
その過程で援助資金はほとんどが無駄に使われ、事実上の略奪、「アフガン詐欺」とカブールでは言われている。


たぶんそういう部分もあるよな、とは思っていたが、ここではNGOのいて構造的なエージェンシー問題が--(効果にかかわらず)援助の実績(資金を使ったこと)をアピールしないと次の資金が集まらない--が起きていていることがわかる

そして一方で、援助を受ける側はそれを見越して、より精巧なマーケティングを仕掛け、それによって現地での悲劇が増幅される結果になる。

・・・彼らは欧米の援助世界に行動を促すメカニズムを、半世紀以上にわたって研究し試してきたのだ。犠牲者のグループは、どのように人道援助世界が動いているかについて、しだいにとてもよく理解するようになってきているようだ。戦争状態にある国々の人々でさえ、インターネットにアクセスしている。ほとんどの難民キャンプにはCNNが映るテレビがあり、そのため難民たちは「自分たちが」どのように犠牲者を演じているのかがわかっている。彼らは期待されているイメージに合うようにと学習しているのだ。


 人道主義者たちは赤十字原則-中立性、独立性、公平性-の高潔さを自身の前に盾のように備えており、原則はそれによる帰結よりも重要だということを自明のことだと考えている。避けれらない人道的な義務があるのだ、と彼らは主張する。たとえもし悪いやつらを利するとしても、彼らには人々の苦しみを和らげること以外に選択肢はない。

 問われるべきは、「それなら、ただたんにまったく何もしないでおくべきかどうか」ということではない。問われるべきは次のようなことだ。戦争当事者による搾取を考慮しても、援助によるプラスの効果を推し量るとするなら、どこに分岐点があるのか、そして人道援助が倫理的でなくなる地点はどこなのか?
 人道的危機はほとんど常に政治的危機か、あるいは政治的な解決だけが存在する危機である。ドナー、民兵組織や政府軍、それにとりわけ我々の国の軍隊やNATO軍が人道援助で政治的に画策するとき、NGOは政治に無関係ではいられない。

著者はフリーのジャーナリストだが、危険地帯に行くジャーナリストの面目躍如という著作にmなっている。


 

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