古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

無理に題をつけると(光源氏が若紫を連れ出した本当の理由)

2016年10月20日 12時07分30秒 | Weblog
前回の私の書き方では「高良大社の祭神は女性」ということになってしまいそうです。
で、今更ながら、高良大社の祭神について検索しました。
ところが、高良大社の祭神の高良玉垂命は朝廷から《正一位を授かったにも関わらず、未だにその正体は不明》とされているそうです。

また、前回、祭祀の時に、卑弥呼は平塚川添遺跡の場所から高良山に出向いたのではないか、と考えましたが、平塚川添遺跡から高良大社まで直線で約13㎞もありますから、ちょっと難しいかもしれません。

私の想像は、以前書きましたが、スサノヲは臺与(とよ)を初めて見たのが高良山だった、というものでした。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/21836f8b469de58e4fda012cd444d2db
卑弥呼(トヨ)の移動、再再考 2009年09月02日

源氏物語では、北山とされる場所で、初めて、光源氏が10歳ぐらいの若紫を垣間見たとなっています。
これは、スサノヲが臺与(とよ)を高良山で初めて見た、ことがもとの話だったのではないかと考えているわけです。
源氏物語では「北山」ですが、高良山は大宰府の「南山」で、例によって逆になっているわけです。
源氏物語の「北山」は通説では、鞍馬山だそうです。京都の北ということになりますが、都は北上していますから、ともかく都の北です。
しかし、実際は大宰府と高良山の関係ではないか。
半ば強引に光源氏は若紫を引き取りますが、このことは、スサノヲと臺与(とよ)のエピソードに基づいているのではないでしょうか。
いったい、スサノヲは臺与(とよ)をどういう時期に見かけたのでしょうか。
それは、247年、スサノヲが奴国を制圧した後です。
スサノヲは奴国王(難升米・難斗米)、卑弥呼を殺害し、奴国を制圧しますが、まだ民心は離れたままでした。
それは「魏志倭人伝」から解ります。
卑弥呼の死後、男王が立つも乱れ続けていました。
そこで臺与(とよ)が王となると国が治まった、となっていました。

「魏志倭人伝」は勘違いしていますから、理解できていませんが、臺与(とよ)が卑弥呼になって国が治まったのです。
「魏志倭人伝」に描かれている卑弥呼の死後の混乱状態はここで静まります。

さて、光源氏は童女の若紫を連れ去りましたが、物語とはいえ理解しにくいのではないでしょうか。
恋愛感情? 童女趣味?
しかし、これが高良山でのスサノヲとトヨの出会いならば、納得できることがあります。トヨは輝いて見えたかもしれません。
ですが、それを恋愛感情に結びつけるのは正確とは思えません。
まだ早計です。
制圧した国はまだまとまっていませんで乱れています。
その時、先代の卑弥呼の姪、王《難斗米・難升米》の娘が現れました。
臺与(とよ)です。
すると、当然この娘を卑弥呼にすればうまくいくのかもしれない、と考えるでしょう。
奴国の民は納得するのではないか。
卑弥呼は生まれ変わった。
源氏物語ではわかりませんが、光源氏(スサノヲ)が幼い若紫(トヨ)を連れ出したのはこのことがあったからです。
(なお、忘れられると困りますので、注釈すると、光源氏には不比等が投影されている場合もあります)













時間無いので中断。
なんか、人手が足りないようで疲れますが、といって、人手が増えると収入も減りますので、困ったもんです。
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