古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

卑弥呼(トヨ)の移動、再再考

2009年09月02日 13時06分47秒 | Weblog
 平塚川添遺跡-隠岐島・玉若酢命神社-箸墓が直角三角形になることは以前やりました。

『稲羽の素兎』が隠岐島に居た本当の理由
2007年12月04日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/2e4e60b420bd332248f1274aa40b6f52

『稲羽の素兎』が隠岐島に居た本当の理由Ⅱ
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/1016d6f4a46856598fb9bfbb53e2bed4

そのときは隠岐島・玉若酢命神社を
 北緯36度12分34秒,東経133度18分45秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361234&l=1331845
にしていましたが
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361226&l=1331843
に変えています。クリックしたところずれていることがわかりました。

 そのときは、ほぼ5:4:3の直角三角形になるために、スサノオに殺された最後から二番目の卑弥呼(トヨの前)は平塚川添遺跡あたりに居住していたのだろうと考えました。
 しかし、近頃、高良山あたりが気になったわけです。
 そこで、高良大社-隠岐島・玉若酢命神社-箸墓を測ったところ、やはり、直角三角形になるのです。

隠岐島・玉若酢命神社→高良大社
 ①218.621度 ②37.0551度 ③408.7783km
 Ⅰ218°44′50.24″  Ⅱ37°10′52.07″ Ⅲ408,753.483(m)
隠岐島・玉若酢命神社→箸墓
 ①128.229度 ②309.694度 ③294.7521km
 Ⅰ128°06′15.88″  Ⅱ309°34′07.89″ Ⅲ295,057.804(m)
高良大社→箸墓
 ①72.7528度 ②255.698度 ③505.4766km
 Ⅰ72°49′19.51″  Ⅱ255°46′03.06″ Ⅲ506,680.811(m)

隠岐島・玉若酢命神社での角度
 218.621-128.229=90.392度
 218°44′50.24″-128°06′15.88″=90°38′34.36″
 
 後省略。5:4:3の直角三角形に近いですが、平塚川添遺跡のほうが近かったようです。しかし、採る地点によってはどうなるのかなんともいえません。

 不思議だと思われるかもしれませんが、当たり前でした。
 なぜなら、もったいぶりましたが、隠岐島・玉若酢命神社-平塚川添遺跡-高良大社は一直線上にあるからです。
 矢印の点とは離れていますが、直線は遺跡の中を通っています。

隠岐島・玉若酢命神社→平塚川添遺跡
 ①218.607度 ②37.0877度 ③395.8195km
隠岐島・玉若酢命神社→高良大社
 ①218.621度 ②37.0551度 ③408.7783km
 Ⅰ218°44′50.24″ Ⅱ37°10′52.07″ Ⅲ408,753.483(m)
平塚川添遺跡→高良大社
 ①217.533度 ②37.4871度 ③12.95921km

 395.8195+12.95921=408.77871km・・0.00041km・・40cm違い、下5桁目は無視していい。

隠岐島・玉若酢命神社-高良大社の直線の平塚川添遺跡の部分


 しかし、写真を見ればわかるように直線はポイントと違うところを通っていますが、明らかに平塚川添遺跡の中を通っています。
 私がポイントしたところは‘ウォッちず’の位置と違っていました。
‘ウォッちず’の平塚川添遺跡の位置は
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=332339&l=1303903
計算もこの位置でやっています。

 なぜ、グーグルアースのポイントをそこにしたのか思い出せませんが、どこかと直角になるところがそこだったのかもしれません。
 どちらにしろ、ひと目で遺跡とわかりますし、遺跡内であることに変わりありません。
 ところが‘ウォッちず’をみると、その部分は白地で平塚工業団地の内部にみえそうです。
 しかし、その白地の部分は明らかに平塚川添遺跡になります。
そこで、
北緯33度23分43秒、東経130度39分2秒にしてみます。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=332343&l=1303902

平塚川添遺跡Ⅱ→高良大社
 ①217.113度 ②37.0668度 ③13.04178km
 Ⅰ217°14′34.03″ Ⅱ37°11′46.37″ Ⅲ13,037.994(m)
平塚川添遺跡Ⅱ→隠岐島・玉若酢命神社
 ①37.1013度 ②218.620度 ③395.7365km
 Ⅰ37°13′37.95″  Ⅱ218°44′48.45″ Ⅲ395,715.489(m)

13.04178+395.7365=408.77828km
13,037.994+395,715.489=408,753.483(m)・・・ピッタリ一致するのは当たり前なのですが、なんとも快感です。

 これは偶然なのでしょうか。
 偶然ではないとするならば、平塚川添遺跡と高良山には何らかの関係があるのでしょう。
 以下全くの空想です。
 前回は戦時と平時の違いではないかと考えたのですが、。
 新たな空想としては、スサノオは高良山で12、3歳のトヨを見たのではないかと・・。
 光源氏が若紫を初めて垣間見たときの描写からの類推です。

 そのときの若紫は10歳ぐらいとされていますから、トヨも10歳ぐらいだとすると、トヨが女王(卑弥呼)になるのが13歳だったとされていますから、それは2、3年後のことになります。

源氏物語の「若紫」ではこうなっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E5%90%84%E5%B8%96%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98#.E8.8B.A5.E7.B4.AB
ウィキペディア(Wikipedia)
《若紫
(源氏18歳3月から冬)翌年の春、源氏は病気加療のため北山に赴き、そこで祖母の尼君とともに住まう美貌の幼女を見かける。藤壺の姪にあたる彼女に源氏は執心し、引き取って手元で育てたいというが尼君は応じない。夏、藤壺が病気のため宿下りする。源氏は二度目の密会を行い、直後に彼女の妊娠が発覚する。冬、源氏は北山の幼女をなかば誘拐のようにして手元に引取る。若紫と呼ばれる彼女こそ、後の紫の上である。若紫参照。》

 光源氏は「わらは病み」にかかり、北山の「かしこき行い」をする人(聖)のもと(庵室)を訪れます。
 聖の加持を受けたあと、立って見渡すと庵室は高いところにあり、僧坊などが見下ろされます。
 若き女性、童なども見えます。
 光源氏は『(聖の庵室の)しりへの山にたち出(い)でて、京の方を見給』います。
『はるかに霞みわたりて、四方の木ずゑ、そこはかとなう、煙りわたれるほど、繪に、いと、よくも似たるかな。・・』とのたまいます。(源氏物語・岩波文庫一、若紫p165)

 ここは北山です。
 どこなのかははっきりしないようですが、北なのですから、京は南に見えたはずです。
 もちろん、この京は平安京なのですが、実は高良山からの風景ではないかと想像しました。
 高良山から南ではなく、逆の北を見れば、筑後平野が見渡せます。久留米はもちろん見えますが、博多は無理でも大宰府は見えそうな気がします。(無理かしら)

 実際にいったことはありませんが、グーグルアースに貼り付けられたYouTubeの高良大社展望台からの風景を思い出しました。(筑後川、背振山地、宝満山がわかるそうです。)
(というよりも、初めから源氏物語「若紫」にこういう映像の描写は無いかと探したのが本当のところです。)

 こういう風景は日本中にあるでしょうから、取り立てていえるわけではないでしょうが、都を南、又は北に見渡せるのはそう数はないでしょう。


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