前回の記事をやり直します。
まず、出雲大社を起点に変えてみます。
また、平城京を
①宮跡
②旧大極殿
(太極殿と大極殿どちらが正しいのか迷いましたが、今回は大極殿にしました)
③新大極殿の三地点で調べてみました。
奈良時代の大極殿は前期と後期で違ったそうです。
旧大極殿は朱雀大路の真北、宮・内裏の真西です。
新大極殿は宮・内裏の真南に置かれました。但し、国土地理院の地図では何処になるかは . . . 本文を読む
確かに、地図に直線を引けば、この三地点は一直線上に並ぶように見えます。
(私たち素人は、この程度で構わないとは思います。)
専門家がいずれ正確にやってくれるでしょうが、まだやってくれそうにありません。そこで、好奇心から、もう少し自らで、精度を上げてみたいと考えました。
なぜなら、地表は球面ですから、地図上の直線がそのまま本当に直線かどうかはわかりません。しかし、日本地図、しかも西日本に限るだけ . . . 本文を読む
平城京の位置はきっちりと決定されたものであることは、既に明白となっています。
では、その遷都の時期はどうだったのでしょうか。
これも、たまたま710年になったわけではないと思われます。だいぶ前に決められていたのではないかと思われるのです。
(八月十五日の終戦の日は偶然決まったものでないのと同じと考えています)
なぜならば、710年から120年を引くと590年になるからです。
だからどうした . . . 本文を読む
八月十五日は第二次世界大戦の終結の日であると同時に、西暦279年、卑弥呼トヨが磐之姫によって殺された日でもあります。
但し、新暦と旧暦の違いがあります。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/60bcffa25d7cf3b34a1509be6594f183
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/d/20050331
「火と . . . 本文を読む
「記・紀」は逆・繰り返しで書かれてはいますが、どのようにそれが為されているかは、すべてがわかっているとはいえません。また、逆・繰り返しだと想像している部分が、実はそうではなかったということもあるかもしれません。
しかし、ともかく、「記・紀」は「魏志倭人伝」の間違いどおりに書かれています。
「魏志倭人伝」は間違いだらけですから支離滅裂になっています。
ですから、「記・紀」も、当然に支離滅裂になっ . . . 本文を読む
新羅に「任那の事(こと)を問はしむ」というのが変だと感じるのは、「任那を返せ」ということをいいたいのに、遣いの者に「任那のことを問いたださせた」というのでは表現としては弱くてあいまいにすぎると感じられるからです。
仮に、実際に、そのようなものだったとしても、史書には‘堂々と要求した’と書くはずです。
(任那をどうするつもりなのか)ということがはっきり相手に伝わるなら、まだ理解できます。しかし、 . . . 本文を読む
くどくどと同じことを書いているようです。自分では少しずつ進歩しているつもりですが、暑さで朦朧としているため、蜃気楼を見ているだけかもしれません。わずらわしいでしょうが、ご容赦ください。
(A・卑弥呼の復活)と(B・磐之姫の子孫の前王朝の滅亡)は同じことを意味しています。
それは590年前後に起こりました。
それにもかかわらず、(A・卑弥呼の復活)を意味する継体天皇の即位を507年に前倒しにしま . . . 本文を読む
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/2609d1f385dcc5ca7a93ba8f68d3a3d3
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a8d2720a8dc7acd9e5f16c42a86adaa5
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/97c8b2538901f3eebe . . . 本文を読む
さて聖徳太子の誕生年は敏達三年・574年とされています。(書紀には出ていません。押坂彦人大兄皇子は敏達四年・正月の生まれ。)
崩年月日は、書紀では推古二十九年・621年2月5日です。
(推古三十年という説もあります。文庫の注釈によると、「天寿国繡張銘・法隆寺金堂釈迦像銘・聖徳太子伝私記法起寺塔婆露盤銘」ではそうなっているようです。)
しかし、これは私どもの想定する最初の聖徳太子の誕 . . . 本文を読む