古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

《飛鳥板蓋宮》で事件がおきたのは588年では?

2011年02月24日 21時13分03秒 | Weblog
《飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)》は仁徳天皇陵、允恭天皇陵、島の山古墳、磐之媛命陵の前方後円墳と密接に結びついているように見えます。 そして、これらの古墳は『倭の五王』を思い起こします。 ということは《飛鳥板蓋宮》は出雲から戻ってきた高句麗系の天武天皇系列以前の王朝の宮ではないかと考えます。 島の山古墳から伝飛鳥板蓋宮跡、磐之媛命陵、允恭天皇陵の距離はほぼ同一です。伝飛鳥板蓋宮跡よりも . . . 本文を読む

無題

2011年02月21日 20時12分47秒 | Weblog
前方後円墳の形 前方後円墳の方墳の部分の方向がバラバラで、どのように決定されているかわからないそうです。 そこで、これは被葬者の亡くなった月日を表わしているのではないかと考えたのですが、無理でした。 投稿しない方がいいのですが、次回までの時間が空いてしまうので無理に投稿します。 お暇だったらお読み下さい。 伊勢久留麻神社-仁徳天皇陵-允恭天皇陵-島の山古墳の線は(2011年の今年でいえば9月13 . . . 本文を読む

仁徳天皇陵(允恭天皇陵・島の山古墳)-磐之媛命陵-伝飛鳥板蓋宮跡

2011年02月18日 10時55分10秒 | Weblog
磐之媛命陵が変更された理由 2011年02月03日 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/77cdbe2e188e5ea810f40a1f95d6a40e ここでは仁徳天皇陵・磐之媛命陵・箸墓をみました。 気がついてみれば、前方後円墳といわれるものを結びつけたのは初めてでした。 今回は箸墓の替わりに伝飛鳥板蓋宮跡にしています。 前回も写真はのせていますが、仁徳 . . . 本文を読む

伊勢久留麻神社-仁徳天皇陵-允恭天皇陵-島の山古墳は一直線

2011年02月15日 12時05分46秒 | Weblog
仁徳天皇陵-允恭天皇陵-島の山古墳が一直線になることはすぐわかりました。 しかし、さらに、淡路島の伊勢久留麻神社か伊弉諾神宮のどちらかとも一直線になるのではないかと思えました。 伊勢久留麻神社-島の山古墳を結ぶと、やはり、直線は仁徳天皇陵、允恭天皇陵を、ど真ん中ではありませんが、通っています。 下の横線が伊勢久留麻神社-島の山古墳を結んだ線です。ポイントのところの角度を示している線は上の写真の . . . 本文を読む

『トルストイの家出』について

2011年02月12日 21時36分32秒 | Weblog
まるっきり日本史とは関係ない文章です。 申しわけありません。 いい加減な推理ですが、書いておきたいから書きました。 あしからず。 『トルストイの家出』というテレビ番組をみて、気になったことがあり調べました。 トルストイは最晩年に妻・ソーニャとの不和、人生観の不一致から家出をし、そのまま亡くなったようです。 家出をするきっかけとなった日は、1910年10月28日だそうで http://ameblo . . . 本文を読む
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後醍醐天皇陵の位置 Ⅲ

2011年02月09日 12時13分49秒 | Weblog
後醍醐天皇陵の位置は熱田神宮、諏訪大社も考慮に入れられているようです。 △京都御所-熱田神宮-熊野速玉大社 △京都御所-熱田神宮-後醍醐天皇陵 △京都御所-熱田神宮-箸墓 これらは直角三角形になります。 また後醍醐天皇陵-熱田神宮-諏訪大社(上社本宮または前宮)は一直線上になります。 http://suwataisha.or.jp/ohanasi/index.htm 《古くからある信仰には風と水を . . . 本文を読む

後醍醐天皇陵の位置Ⅱ

2011年02月06日 22時53分40秒 | Weblog
後醍醐天皇陵は北面していて、京都を見据えている、というのが一般的な解釈のようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 《陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山にある如意輪寺内の円墳の塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰 . . . 本文を読む

後醍醐天皇陵の位置

2011年02月05日 23時54分49秒 | Weblog
またもや、ちょいと寄り道です。 (本線がさだかでありませんので、寄り道だと偉そうにはいえませんが) 同僚のS氏が後醍醐天皇に関するテレビを2,3日前に見たことを話してくれました。『後醍醐天皇の墓は北の京都を望んでいる』そうだ、ということで、こりゃぁもう位置関係に何かあることは、すぐ想像できます。 その番組(2/2午後10時・歴史ヒストリア・折れない、負けない、くじけない~風雲!後醍醐天皇)は私も録 . . . 本文を読む

磐之媛命陵が変更された理由

2011年02月03日 12時29分06秒 | Weblog
東大寺大仏殿の真南は《宮殿跡?・纒向》だけでなく、箸墓(倭迹々日百襲姫命墓)もそうでした。 大仏は箸墓も視野に入れていたことでしょう。 それはともかく、島の山古墳-高松塚古墳(また藤原宮跡)-長谷寺(桜井)の三角形を検討していましたが、それ以前に片付けておきたい三角形に目がいきました。 なぜそこに目が行ったのか、説明は厄介ですが、仁徳天皇陵-箸墓の距離と同じになるところはどこかとみてい . . . 本文を読む

東大寺大仏殿の参道はどこに続くのか

2011年02月01日 11時04分23秒 | Weblog
もちろん、参道は東大寺大仏殿に続きます。 私の言いたいのは、では帰りはどこに向っているのか、ということです。 表現がおかしいかもしれません。 言い換えれば、大仏様は何処をみているのでしょうか、ともなります。 もしかすると、観ているのは《宮殿跡?・纒向》かもしれません。 もったいぶりましたが、単純に、《宮殿跡?・纒向》と東大寺大仏殿は南北にあるというだけなんです。 ですから、当然、《宮殿跡?・纒向》 . . . 本文を読む