A法隆寺金堂、B平城宮跡、C聖武天皇陵、D太安萬侶の墓、E小治田安萬侶の墓、(長谷寺)、F伝飛鳥板蓋宮跡、G聖徳太子御廟所、H難波宮跡、I阿武山古墳、J天智天皇陵、K紫香楽宮(しがらきのみや)跡
前回までに△ABE、△ACE、△EFH、△EGJが直角三角形であることをみました。
本日は、△EJK、△EHI、△EHK、をみます。
⒊ E・小治田安萬侶の墓、J・天智天 . . . 本文を読む
写真は
A法隆寺金堂→B平城宮跡→C聖武天皇陵→D太安萬侶の墓→E小治田安萬侶の墓→(長谷寺)-F伝飛鳥板蓋宮跡→G聖徳太子御廟所→H難波宮跡→I阿武山古墳→J天智天皇陵→K紫香楽宮(しがらきのみや)跡を結ぶ線です。
さらに、小治田安萬侶の墓と直角になるものをみます。
以前にも似た図を考えたのですが、D太安萬侶の墓やE小治田安萬侶の墓やK紫香楽宮(しがらきのみや)跡を加えると(ついで . . . 本文を読む
調べてみたところ、小治田安萬侶の墓は、いろいろな施設と関連付けられる特殊な位置にあることがわかりました。
ですから、この人物が「長屋王の変」の前日に亡くなっていることは、たぶん重大な意味をもっているはずです。
そこで、小治田安萬侶の墓の位置の説明をする前に、得意の空想を申し述べます。
墓の位置を説明した後ですと、この空想はくだらないと思えるかもしれませんので、書く機会を逸しかねません。
. . . 本文を読む
「小治田」が平城宮の近辺にあるはずだ、と検索したところ、小治田安萬侶という人物が浮上しました。
その墓は奇妙な位置にあり、平城宮とはかなり離れていましたが、まるで、墓の位置を調べろ、といわんばかりの位置にありました。
729年(天平元年・ウィキペディアでは神亀6年。)2月10日密告により長屋王邸は包囲されたことになっています。
その前日《小治田安萬侶(おはりだのやすまろ、729年3月17 . . . 本文を読む
前回、磐余池辺雙槻宮の用明天皇を不比等とした場合に、
小治田大宮治天下大王天皇=元正天皇(氷高皇女)
太子=東宮聖王=聖武天皇(首皇子)になるとしました。
720年(養老4)の不比等の病床に、氷高皇女と首皇子が訪れたのは事実であろうと考えます。
(続日本紀によると、不比等は養老4年(720)8月1日病気になり、8月3日に薨じた、とあります。これがホントだとすると、倒れたときから危篤で遺言 . . . 本文を読む
用明天皇=藤原不比等
小治田大宮治天下大王天皇=元正天皇(氷高皇女)
太子=東宮聖王=聖武天皇(首皇子)
この『薬師如来像光背銘文』は表面的には飛鳥時代のこととして書かれていますが、文体とか書体その他から奈良時代のものと考えられるそうです。
(聖徳太子と法隆寺の謎・倉西裕子・平凡社・・p62~p83)
倉西氏は用明天皇を120年後の文武天皇と考えておられます。
(学者の方は論の進め方が丁寧なの . . . 本文を読む
海龍王寺の位置だけが不比等邸だったのではなく、隣の法華寺も不比等邸でした。
海龍王寺の印象が強く、勘違いして記憶していました。すみません。
《2006・2/25 聖武天皇の父は藤原不比等であるⅢ 》
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/89f2bf4051c1c2374215e495271662f4
むしろ、法華寺が主だったようです。
たぶんこう . . . 本文を読む
一般的な発想とは思えませんので、眉唾でお読みください。
用明天皇の磐余池辺宮の「池」に引っかかってしまいました。
そこで、海龍王寺(元・不比等邸)と水上池の位置関係を見て、用明天皇の磐余池辺宮は、不比等邸のことを指しているのではないか、と思いつきました。
ちょっと離れているようですし、用明天皇に不比等が投影されているかどうかも問題です。
ましてや、ここは磐余(いわれ)の地でもありません . . . 本文を読む
平城京は動いたはずです(2008・2/17)の追加です。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f2a0a7bad5606a003d2fa5da603f2a0f
平城天皇陵
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344147&l=1354750
平城京・平城宮跡の北側の「水上池」がどんなものなのか、知りた . . . 本文を読む