天智天皇の死が祟りだと考えられたとして、どのようなものだったのでしょうか。
最後の卑弥呼・トヨの死亡原因は火災から引き起こされた一酸化炭素中毒である、というのは自信があります。ですが、これから空想する天智天皇の死亡原因はまだそれほど自信はありません。
法隆寺焼失は法隆寺建立のことだ、と考えた場合の一つの可能性というだけです。たら・れば、の世界ですので、論理的ではないでしょうから、その点、お含みお . . . 本文を読む
もし、法隆寺が建立されたのが670年だとすると、歴史の風景はがらっと変わります。
たぶん、法隆寺は670年に建立されたものではないという証拠は出てこないと思います。とはいっても、それだからといって、法隆寺が670年に建立されたということにはなりません。(唯一、高麗尺の使用が挙げられるかもしれません。しかし、それでも故意に使用したのだろうと解釈はできます)
ですから、とりあえず、法隆寺が670年 . . . 本文を読む
「魏志倭人伝」と同じように、「記・紀」には逆に書かれているところがあります。
天智九年(670)
「四月三十日夜半之後(あかつき)に法隆寺に炎(ひつ)けり。一屋も余ることなし」
これを、法隆寺が建立された話と読むのです。
馬鹿な、とお思いでしょうが、『天孫降臨』だろうが、『神武東征』だろうが、逆になっているのです。これが、逆だっておかしくはありません。(例によって強引です)
法隆寺が消失した、の逆 . . . 本文を読む
出雲大社と出雲・三国山との直線の延長線は阿波・橘湾のどこかにくるはずです。スサノヲが禊をしたという地のはずですから、できることなら、湾岸沿いにあればいいのです。
淡島神社では少し橘湾からずれそうです。
そこで、気を取り直して、亀崎というところにしてみました。
すると差は50cmまで縮まりました。
そこで、やや南の蕨石というところに目をつけました。
北の脇海水浴場の傍です。
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一番気になるのは紀伊・和泉・河内の三国山から芝村・箸墓に向かう直線と出雲・伯耆・備後の三国山から出雲大社に引いた直線の関係です。
古事記にイザナミの墓と描かれた「出雲と伯伎の境の比婆の山」が箸墓かどうかを検証したいからです。
以前は地図に分度器をのっけて、計りました。ですから、心もとありませんでした。
が今はもう少し正確にわかります。
しかし、その前に阿波・橘湾と出雲大社を結ぶ線上に、出雲・伯 . . . 本文を読む
聖徳太子のことは、すぐには結論が出せそうにありません。そこで、後回しにしたいのですが、一つ重大なことに気がつきました。付け加えます。
片岡山で飢人が亡くなり、聖徳太子の衣服がいったり来たりしたのは推古二十一年十二月のことでした。西暦613年のことです。
なぜこの話しが613年のことなのでしょうか。
私の考えでは、このエピソードは政権の交代を表わしているはずです。
政権の交代は590年~59 . . . 本文を読む
これまでの考察ですと、孝霊天皇の御子で姉弟とされる倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦は卑弥呼とスサノヲになります。
しかし、実際には卑弥呼とスサノヲは、形式的には卑弥呼と弟になったでしょうが、血筋的に赤の他人です。(夫婦であっても)
ですから、ここも系図的に《祖先と子孫》は逆になっています。
卑弥呼とスサノヲの子孫が孝霊天皇です。孝霊天皇も天孫のはずです。
邇邇芸命、継体天皇と同一人のはずです。何度もい . . . 本文を読む
これはこのように言い換えられます。スサノヲと兄五瀬命一行はなぜ、北九州・奴国に攻め込む前に、吉備と安芸に留まったのでしょうか、というふうに。
思いついたばかりのことを書きます。
昨日、明石からは海路だったのか、陸路・古山陽道だったのか、で戸惑いました。なぜなら、海路だとばかり考えていたからです。ところが陸路の可能性もあったわけです。
しかし、北九州に攻め込むには、どうしたって船が必要です。
. . . 本文を読む
『神武東征』の元の話は、明石・須磨のスサノヲが瀬戸内海を西に北九州に向かったものだとしました。
方位が東西逆になっているのは「魏志倭人伝」が逆になっていたからということが根底にあります。
そして、次のような想定をしました。(以前に書いたことを繰り返します)
当時関門海峡は奴国に封鎖されていて、瀬戸内地方の経済が立ち行かなくなっていました。その原因となる卑弥呼と卑弥呼の弟の国・奴国の支配を崩壊 . . . 本文を読む
孝霊天皇の娘に倭迹迹日百襲姫命がいます。
《古事記では夜麻登登母母曾毘賣(やまととももそびめ)の命》
箸墓の正式な名称は「倭迹迹日百襲姫命・大市墓」(やまとととびももそひめのみこと・おおちのはか)でした。
箸墓については3/9から3/12あたりまでに書いています。
基本的に考えは変わってはいないのですが、方位に関しては直さなければいけないかもしれません。
しかし、次の点は変えません。
・大市墓( . . . 本文を読む