Y吉野山、Fi中尊寺・平泉、GRⅡ推定チンギス・ハーン(=源義経)の墓
義経は頼朝の追討から逃れるために船で九州に向かいますが、暴風のために難破し、主従散り散りになります。しかし、義経と静御前などわずか五人(らしい)の一行は吉野山に潜伏し、なかなかその行方は知られませんでした。
ところが、蔵王堂にたどりついた女性が尋問され静御前であることが判明します。
その話から、数人の義経一行は不穏な動きを察知し、山伏姿でどこかに逃走したことがわかり、翌日捜索が行なわれましたが見つけることができなかったそうです。
≪ウィキペディア(Wikipedia)
吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、1186年(文治2年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子がとりなして助けられる。≫
静御前の話を持ち出したのは、『成吉思汗の秘密』(高木彬光)の最後の部分を読んで、もしかしたら、と思ったからです。
チンギス・ハーン(=源義経)を考えるには最初に読むべきでしたが、ネットで検索していて、おおよそのことは理解できていました。
しかし、やはり読んでみて違った感覚を持ったのが、この「成吉思汗」という言葉です。
成吉思汗はジンギスカン(チンギス・ハーン)のことですが、この名前はもう一つの読み方があるようです。
『日本流の漢語として読み下せば、成吉思汗―吉成りて汗を思う』(文庫p369)になり、さらに『汗』を分解して『サンズイに干』すなわち『水干』になり、白拍子の衣装で、静御前のことを指すことになります。
『吉』は吉野山を指し、「吉成りて水干を思う」=「吉野山の誓い成りて静かを思う」になるそうです。
そして、「成吉思汗」という名前を万葉仮名で読み下せば「なすよしもがな」という静御前の歌に呼応することになるそうです。(p379)
ここまできて胸騒ぎがしました。
もしかすると、吉野山も特殊な位置になっているかもしれない、と。
そして、この図をあわせて解釈すると、義経と静御前が吉野で誓った内容は、「ここで別れても、生きて再び平泉で落ち合おう」ということだったはずです。
この図からすると、静御前が義経の行く先を知らなかったはずはないことになります
頼朝は静御前の歌に激怒し静御前を殺そうとしますが、政子に止められます。
静の義経を思う気持ちは、自分にもあったことがあり理解できる、という政子の説得理由が挙げられています。頼朝は渋々それに納得したことになっています。
しかし、頼朝が納得したはずの理由は別にあると考えられます。
政子はこういったはずです。
「これだけ義経のことを思っているならば、必ず静は義経の元に行くはずです。自分もあなたの元に行きました。ですから、静を見張っていれば、義経は捕まえられます。」
さて、そうしますと≪「吉成りて水干を思う」=「吉野山の誓い成りて静かを思う」≫ですが、静は平泉にはたどりつけなかったようですから、吉野の誓いはならなかったはずです。
吉野山で別れた二人は二度と会えませんでした。
私はGRⅡの位置にチンギス・ハーン(=源義経)の墓が存在すると考えています。
この図から察するところ、義経は平泉で会うことができなかった静御前と二人の間の子の魂を、自分の墓に招こうとしたのではないかと思われます。
たぶん、義経は復活・蘇えりを信じていたでしょうから、(信じたかったことでしょうから)、復活の時は三人一緒でと希望したのでしょう。
我ながら、ホントかなぁ、と思いますが、この直角はそれ以外考えようがありません。
GRⅡ→吉野山・蔵王堂
①108.418度 ②309.164度 ③2958.173km
GRⅡ→中尊寺
①94.7534度 ②300.117度 ③3050.865km
吉野山・蔵王堂→中尊寺
①40.6849度 ②223.821度 ③695.0907km
吉野山・蔵王堂での角度
360-309.164+40.6849=91.5209度
中尊寺での角度
300.117-223.821=76.296度
GRⅡでの角度
108.418-94.7534=13.6646度
たすと全部で181.4815度
すこし、ずれていますが、蔵王堂は静御前の見つかった場所ですから、それよりもかなり離れた所に義経たちはいたのではないでしょうか。
山伏姿で逃げたという証言も、捜索をかく乱するための嘘ではないでしょうか。
吉野山・蔵王堂
北緯34度22分6秒,東経135度51分31秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342206&l=1355131
山上ヶ岳 大峯山上権現
北緯34度15分8秒,東経135度56分28秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341508&l=1355628
ここだと90.2774度ぐらいですが、蔵王堂と14kmほど離れています。
これはあてになりませんので、変えることがあります。
義経は頼朝の追討から逃れるために船で九州に向かいますが、暴風のために難破し、主従散り散りになります。しかし、義経と静御前などわずか五人(らしい)の一行は吉野山に潜伏し、なかなかその行方は知られませんでした。
ところが、蔵王堂にたどりついた女性が尋問され静御前であることが判明します。
その話から、数人の義経一行は不穏な動きを察知し、山伏姿でどこかに逃走したことがわかり、翌日捜索が行なわれましたが見つけることができなかったそうです。
≪ウィキペディア(Wikipedia)
吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、1186年(文治2年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子がとりなして助けられる。≫
静御前の話を持ち出したのは、『成吉思汗の秘密』(高木彬光)の最後の部分を読んで、もしかしたら、と思ったからです。
チンギス・ハーン(=源義経)を考えるには最初に読むべきでしたが、ネットで検索していて、おおよそのことは理解できていました。
しかし、やはり読んでみて違った感覚を持ったのが、この「成吉思汗」という言葉です。
成吉思汗はジンギスカン(チンギス・ハーン)のことですが、この名前はもう一つの読み方があるようです。
『日本流の漢語として読み下せば、成吉思汗―吉成りて汗を思う』(文庫p369)になり、さらに『汗』を分解して『サンズイに干』すなわち『水干』になり、白拍子の衣装で、静御前のことを指すことになります。
『吉』は吉野山を指し、「吉成りて水干を思う」=「吉野山の誓い成りて静かを思う」になるそうです。
そして、「成吉思汗」という名前を万葉仮名で読み下せば「なすよしもがな」という静御前の歌に呼応することになるそうです。(p379)
ここまできて胸騒ぎがしました。
もしかすると、吉野山も特殊な位置になっているかもしれない、と。
そして、この図をあわせて解釈すると、義経と静御前が吉野で誓った内容は、「ここで別れても、生きて再び平泉で落ち合おう」ということだったはずです。
この図からすると、静御前が義経の行く先を知らなかったはずはないことになります
頼朝は静御前の歌に激怒し静御前を殺そうとしますが、政子に止められます。
静の義経を思う気持ちは、自分にもあったことがあり理解できる、という政子の説得理由が挙げられています。頼朝は渋々それに納得したことになっています。
しかし、頼朝が納得したはずの理由は別にあると考えられます。
政子はこういったはずです。
「これだけ義経のことを思っているならば、必ず静は義経の元に行くはずです。自分もあなたの元に行きました。ですから、静を見張っていれば、義経は捕まえられます。」
さて、そうしますと≪「吉成りて水干を思う」=「吉野山の誓い成りて静かを思う」≫ですが、静は平泉にはたどりつけなかったようですから、吉野の誓いはならなかったはずです。
吉野山で別れた二人は二度と会えませんでした。
私はGRⅡの位置にチンギス・ハーン(=源義経)の墓が存在すると考えています。
この図から察するところ、義経は平泉で会うことができなかった静御前と二人の間の子の魂を、自分の墓に招こうとしたのではないかと思われます。
たぶん、義経は復活・蘇えりを信じていたでしょうから、(信じたかったことでしょうから)、復活の時は三人一緒でと希望したのでしょう。
我ながら、ホントかなぁ、と思いますが、この直角はそれ以外考えようがありません。
GRⅡ→吉野山・蔵王堂
①108.418度 ②309.164度 ③2958.173km
GRⅡ→中尊寺
①94.7534度 ②300.117度 ③3050.865km
吉野山・蔵王堂→中尊寺
①40.6849度 ②223.821度 ③695.0907km
吉野山・蔵王堂での角度
360-309.164+40.6849=91.5209度
中尊寺での角度
300.117-223.821=76.296度
GRⅡでの角度
108.418-94.7534=13.6646度
たすと全部で181.4815度
すこし、ずれていますが、蔵王堂は静御前の見つかった場所ですから、それよりもかなり離れた所に義経たちはいたのではないでしょうか。
山伏姿で逃げたという証言も、捜索をかく乱するための嘘ではないでしょうか。
吉野山・蔵王堂
北緯34度22分6秒,東経135度51分31秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342206&l=1355131
山上ヶ岳 大峯山上権現
北緯34度15分8秒,東経135度56分28秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341508&l=1355628
ここだと90.2774度ぐらいですが、蔵王堂と14kmほど離れています。
これはあてになりませんので、変えることがあります。