古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

狗奴国の男王・卑弥弓呼と蘇我氏

2020年12月04日 21時27分01秒 | Weblog
 ほんのちょっと少し思いついたことがあるので、くどいけれども、恥ずかしながら、再度やります。
 二人の卑弥呼を同一人物にする、という「魏志倭人伝」の間違いは、卑弥呼復活、甦りを宣言したものとなります。墓が造られて後で、埋葬されたはずの本人《卑弥呼・臺与(とよ)》が登場することになりましたから。
「蘇我」は「蘇(よみがえ)る我」ですから、卑弥呼・臺与(とよ)を表現しています。
「蘇我」は卑弥呼・臺与(とよ)の子孫であり、天皇家につながるはずです。敵なわけがありません。
しかし、乙巳の変に顕著になっていますが敵となっています。
また、「中臣鎌足」の「ナカトミ」から「カ」を抜くと、「ナトミ」となり、
《難升米→難斗米→ナントミ→ナのトミ→奴国のトミビコ》
「魏志倭人伝」では「難升米」は臣下とされていて、日本で「臣」「中臣・ナカトミ」が創られることになります。「難升米」は臣下ではありませんから「魏志倭人伝」はここも間違いです。
(中国人には「アスカ」の「カ」が聞き取れなかったために「阿蘇」と記しました。〈「隋書倭国伝」〉それならば中国の史書に記された「ナトミ」は「ナカトミ」から「カ」を抜いたものであってもいいはずです。しかし、同じ「カ」表記であっても、「アスカ」と「ナカトミ」の実際の「カ」の発音は違っていますから「ナカトミ」と発音した場合、この「カ」は聞き取れると思います。)
(「鎌足」という名前は避雷針が不足していない、ことを表しており、逆に豊璋は落雷がもとで亡くなったことを表しています)

ということで、中大兄皇子(ナカノオオエノミコ)からやはり「カ」を除くと、「ナノミコ」で「奴国のミコ」と読めるのではないでしょうか。
中臣(ナカトミ)から「カ」を抜くなら中大兄皇子からも「カ」を抜いていいはずでした。(新たに思いついたのはここだけです)

何度もやっていますが、魏志倭人伝に登場する
「そりの合わない狗奴国の男王・卑弥弓呼」と「臣下・難升米」は同一人物でさらに卑弥呼の弟「男弟」も同一人物です。
「卑弥弓呼」は卑弥呼の弟で、奴国の王であり、表記は「卑弥呼弟」(ひみこと)であるべきではないか。(尊・命などのミコトの語源はここからではないでしょうか)
「魏志倭人伝」は卑弥呼を奴国(倭国)の女王と勘違いしたために、奴国に男王が存在するはずがないと思い込み、「奴国の男王」ではなく「敵国・狗奴国の男王」と読み替えてしまったと考えています。

(神のお告げを告げる卑弥呼とそれを政治に反映させる卑弥呼の弟という形が政治には必要で、どちらか一方では、当時では政治にならなかったのではないか。卑弥呼が「女王」というわけではありません。その時の中国人にはそういう形は理解できませんでした。)
ですから、乙巳の変に象徴されるように、「中大兄皇子」「中臣鎌足」「蘇我氏」の「王・臣下・敵」は同一で、魏志倭人伝の間違いどおりに記述されました。(少なくとも「中大兄皇子・中臣鎌足」は同一人物で、「蘇我氏」も卑弥呼・臺与(とよ)の子孫で、同一陣営のはずで同一人物の場合もあります。(ただ、時間が経過すれば、同じ卑弥呼の子孫でも数が増え、敵になる場合があるのは当たり前です。)

 蘇我氏を敵とするならば、魏志倭人伝においても、卑弥呼の陣営で関連する人物が敵にされていなければなりません。それはもちろん卑弥弓呼になります。
魏志倭人伝が間違ったので敵である「蘇我氏」を創ったわけです。
倭国と奴国の混乱
初めの卑弥呼は奴国におり、卑弥呼・臺与(とよ)は奴国からヤマトに移っていました。それを同一人物と間違ってしまいましたから、魏志倭人伝は倭国と奴国で混乱しているはずです。(「倭」は日本全体の名称で「奴国」は北九州の一部でしたが、卑弥呼・臺与(とよ)の移動後、ヤマトでスサノヲを中心とする統一国家が形成され「倭国」を標榜した?)
ヤマトに復活した、卑弥呼・臺与(とよ)の子孫にとって、「魏志倭人伝」その他中国の史書の間違いは、〈卑弥呼復活を担保するため〉に全て重要となりました。


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