古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

五社神(ごさし)古墳の特異な位置 《神功皇后陵》

2010年04月30日 00時26分44秒 | Weblog
前回、この五芒星の中心は大極殿よりもっと北にあるはずだ、と考えました。 すると  北緯34度42分23秒、東経135度47分7秒に五社神(ごさし)古墳がありました。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344223&l=1354707  現在は神功皇后陵に比定されているようです。  しかし、五社神という名前からして、五芒星と関わりありそうに思えます . . . 本文を読む

平城宮大極殿を中心とした五芒星

2010年04月27日 14時39分31秒 | Weblog
4/16に写真を掲載しましたが、詳細を検討します。 平城京遷都1300年祭ということで、4/24に巨大な第一次大極殿の復元された建物のお披露目のニュースがありました。 平城宮は広すぎるな、宮殿から朱雀門にたどりつくまでにも時間がかかるな、ということはさておいて・・ これは伊吹山山頂ではなく伊富岐神社にしています。 こっちは伊吹山 大極殿完成前・去年かな一昨年かな・・・ストリ- . . . 本文を読む

「ソドンヨ」Ⅲ

2010年04月23日 10時59分27秒 | Weblog
 もう似ていることはなさそうだ、と思ってましたら、「ソドンヨ」47話では「公安条例」なるものがでてきてしまいました。  これは「戒厳令」とまではいかなくとも、時期によっては「戒厳令」に相当するのではないでしょうか。  蘇我入鹿が権力を握ったとき(皇極元年・642・ただし、大臣になるのは翌年)、盗人でさえも落ちているものを拾わなかったとありました。  これを大津皇子の殺害後(朱鳥元年・686・翌年 . . . 本文を読む

伊勢と伊弉諾神宮の直線と高松塚古墳。収拾つかず。

2010年04月21日 21時39分01秒 | Weblog
上の線は伊弉諾神宮と伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)、中の線は月読宮と、下の線は伊勢神宮・内宮とを結んだ線 伊勢神宮・内宮と伊弉諾神宮を結んだ線が高松塚古墳の極めて近くを通ります。 160mぐらい離れていますが、高松塚古墳を通すつもりだったのが、外れてしまったものかとも考えられます。 誤差の範囲といえると思えます。 しかし、故意に外したものかもしれませんし、少し、伊勢神宮・内宮や伊弉諾神宮 . . . 本文を読む

藤原京時代に想定された五芒星ではないか

2010年04月19日 14時39分16秒 | Weblog
前回・平城宮を中心にした五芒星。伊弉諾神宮、伊勢神宮・内宮、外宮 今回・薬師寺を中心にした五芒星。伊勢久留麻神社、斎宮跡。 斎宮跡-伊勢久留麻神社の直線「太陽の道」を活用した五芒星をつくってみました。 伊吹山-元伊勢-伊勢久留麻神社-大斎原・熊野本宮大社-斎宮跡を結びます。 またそこに、薬師寺旧境内を入れます。 これは実際に考えられた五角形だと思います。 しかし、この時はまだ平城京は . . . 本文を読む

ついでの五芒星・・のつもりだったのですが

2010年04月16日 23時42分05秒 | Weblog
ついでの五芒星のつもりだったのですが、結構いい形になります。 最初は伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)を入れてみました。 外宮の真西が伊弉諾神宮でしたから、そうしたわけです。 ところが、伊勢神宮・内宮で計算しても、伊弉諾神宮は真西といっていいのです。 阿紀神社ですと伊勢からの距離が短いですからそうはいきませんが、伊弉諾神宮と伊勢だとそうなります。説明は後です。 薬師寺・多神社・・・伊弉諾神宮、伊勢神宮 . . . 本文を読む

もう一つの「太陽の道」

2010年04月15日 11時25分42秒 | Weblog
大津皇子はどこで殺されたのか、ということをみてきましたが、秋山の麓近くであることは確かだと思われます。 どこで高市皇子たちは見張って、待ち伏せをしたのかを考えようとしました。 どうでもいいことだとは思ったのですが、まぁ、何か残っているかもしれないな、と。 秋山(宇陀松山城跡)の麓を通る榛原街道、伊勢本街道がT字路でぶつかるところに大願寺がありました。 ところが、阿紀神社の位置をみていて、伊勢神 . . . 本文を読む

月弓尊・月夜見尊・月読尊と保食神

2010年04月11日 13時11分49秒 | Weblog
高市皇子は大津皇子を弓で殺したはずです。 《多芸志美美命(たぎしみみのみこと・手研耳命)、穴穂部皇子などからの類推》 「東野炎立所見而反見為月西渡」の歌の「炎」は「朝日」と同時に、「日並知皇子」(ひなめしのみこ)を表しています。 「人麻呂の暗号」はそう解釈しています。私もそれに賛成です。 しかし、「人麻呂の暗号」では草壁皇子が日並知皇子だとしています。 確かに、それは当たり前の解釈です。 万葉集に . . . 本文を読む

大津皇子の~Ⅲ 秋山の位置

2010年04月09日 15時29分15秒 | Weblog
 ところで、「人麻呂の暗号」で、「秋山」があることがわかりました。 「東の山際にうっすらとかかった靄が、稜線づたいに染まりながら尾をひいていく。まさに「炎」が朱を滴りおとしながら、周囲の山々に燃えうつっていくのである。 私たちはわずか数分前にはじまったそのようすを息を殺して身まもっていた。太陽は左端の秋山にかくれたまま、まだ現われないが、「炎」は風に乗って秋山を染め、右端に見える高見山に燃えうつろ . . . 本文を読む

大津皇子はどこで殺されたのでしょうか Ⅱ

2010年04月07日 01時40分34秒 | Weblog
《二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)》という大伯皇女の歌は、大津皇子が『秋山』を越えることができないで、高市皇子に殺されたことを表現していると考えました。 そして、その「秋山」は「阿騎野」のことではないか、としました。 「阿騎野」といえば 「東野炎立所見而反見為月西渡」 『東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ  1-48』 という柿本人麻呂の . . . 本文を読む