古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

敦賀・出雲・日向・プサン(釜山)の位置関係①

2006年06月29日 22時26分41秒 | Weblog
敦賀・出雲・釜山は一直線上にある . . . 本文を読む

皇極(斉明)天皇はなぜ宝皇女なのか

2006年06月26日 23時58分01秒 | Weblog
皇極(斉明)天皇は宝皇女(たからのひめみこ)とよばれていたようです。 「舒明天皇はその2年(630)、春正月、宝皇女を立てて皇后とする」とあります。 そして、二男一女(葛城皇子・間人皇女・大海皇子)を生む、となっています。 葛城皇子は天智天皇、大海皇子は天武天皇とわかるように注がついています。 皇極天皇紀には 皇極天皇は敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘で母は吉備 . . . 本文を読む
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仲哀~仁徳間と舒明~天武天皇間の逆の部分と類似性

2006年06月23日 19時33分06秒 | Weblog
仲哀~仁徳間は舒明~天武天皇間の繰り返しとなっている。 . . . 本文を読む

応神天皇と天智天皇の重なる部分

2006年06月20日 19時01分05秒 | Weblog
 ア・応神天皇と天智天皇の公式的な崩御年の差が19の倍数に設定されている  イ・筋肉質の体型  ウ・薬猟へのこだわり これらは、すべて応神天皇が天智天皇であることを示しているように見えます . . . 本文を読む

なぜ蘇我入鹿の権勢は父・蝦夷よりも大きかったのか。

2006年06月16日 22時15分26秒 | Weblog
中大兄皇子は舒明天皇の摂政となっていたはずです。 それが、入鹿の勢いが父・蝦夷よりも強かったという表現となったと考えます。 . . . 本文を読む

舒明崩御後、天智即位したと仮定した場合

2006年06月13日 15時59分02秒 | Weblog
天智天皇治世の評判が悪かった、としたならば、後の天智の御子たちは天智治世の期間を短くする場合がありえます。 . . . 本文を読む

馬子・入鹿・薬猟

2006年06月10日 00時13分07秒 | Weblog
 馬子と入鹿の名前は薬猟からきているのかもしれません。  合わせて「馬鹿」になるように名前をつけたと初めは考えました。それを否定するのではないのですが、もう一つ考えようがありました。  この「馬」と「鹿」は天智天皇が崩御する原因となったものと考えられます。  薬となる鹿の角をとるために5月5日の薬猟は行われました。天智天皇は、その時、馬上にいたはずです。  ここに「雷」と「鳥」を付け加えれば、「薬 . . . 本文を読む
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天智天皇の年齢

2006年06月06日 14時38分53秒 | Weblog
天智天皇の生年は626年ではなく、もっと前なのではないでしょうか。 もし、もっと前だとすると、歴史の描写は激変します。 . . . 本文を読む

『隋書倭国伝』の倭王・多利思比孤は蘇我馬子かも ②

2006年06月03日 00時15分10秒 | Weblog
乱暴な仮定ですが、持統即位の690年を軸として、19と32を一緒にするために、 西暦500年を継体元年とします。 推古元年を595年とします。 そして、持統即位690年です。 理念的に考えてみます。 以下は実質190年間ですが、192年間に変容します。 書紀の天皇の在位期間ではなく、くずしています。 ですから、天皇の御名前は仮にとなります。 190年間を32年間で均等に分割するとしたならば、こう . . . 本文を読む