古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

法隆寺の焼失と建立について

2013年05月28日 13時00分01秒 | Weblog
今までにやっていることと重複していますし、特に新たな見解があると思えませんが、投稿します。しいていえば確認でしょうか。 「日本書紀」に記述されている飛鳥寺(法興寺)の建立の過程は、実は、年代を変化させたうえで、法隆寺について記述されたものではないかと考えました。 発願の主も蘇我馬子ではなく藤原不比等であり、その発願の年も587年(用明2)ではなく、120年後の707年で、706年の文武天皇との間 . . . 本文を読む

法隆寺と飛鳥寺(法興寺)

2013年05月23日 10時56分23秒 | Weblog
飛鳥寺(法興寺)は、 用明2年(587)、蘇我馬子が建立を発願したもので、 崇峻元年(588)に作りはじめた。 崇峻3年(590)、山に入り寺作りのための材木を取った。 崇峻5年(592)飛鳥寺(法興寺)の仏堂と歩廊ができた(?) 推古元年(593)以仏舎利、置于法興寺刹柱礎中(仏舎利を柱の心礎の中に置く) 推古4年(596)飛鳥寺(法興寺)完成 ひるがえって法隆寺は http://ja.wik . . . 本文を読む

天智・応神・・・天武・仁徳・・成務天皇

2013年05月15日 12時52分03秒 | Weblog
混乱して迷走していますが、続けています。 前回、応神14年(西暦283年)の百済人の大勢の渡来は白村江の敗戦後のことをもオーバーラップしているとしました。 (しかし、たぶん、白村江の敗戦後の方が大勢の渡来だったことでしょう。) また、 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a6fb1e2bd7139015c0719671228a195d 天智10年崩(671) . . . 本文を読む

応神天皇14年(283年)の百済人の渡来

2013年05月11日 13時28分00秒 | Weblog
応神天皇の時に、大勢の百済人が渡来したという記事が「日本書紀」にあります。応神天皇14年(283年)のことです。 http://www.j-texts.com/jodai/shoki10.html 《応神天皇十四年(癸卯二八三)是歳》是歳。弓月君自百済来帰。因以奏之曰。臣領己国之人夫百二十県而帰化。然因新羅人之拒。皆留加羅国。爰遣葛城襲津彦。而召弓月之人夫於加羅。然経三年、而襲津彦不来焉。 この . . . 本文を読む

桓武・平城天皇からみた紀年の関連

2013年05月07日 11時53分42秒 | Weblog
現在残されている紀年は光仁・桓武・平城天皇のときに考え出されたものではないかと考えています。 もちろん、それ以降に変更されたものがあるかもしれません。私の考えでは、「日本書紀」は後からいくらでも上書きできることが許される構造になっているはずですから。 しかし、新王朝が確立した時が最終段階であることは確かではないかと思われます。 で、19年の倍数とか60年の干支の差がそれぞれの紀年に顕れてい . . . 本文を読む

途中経過

2013年05月04日 11時50分25秒 | Weblog
依然として、こんがらがっていてまとまりませんので、途中経過です。 投稿することもないかと思えますが、ブログですから、勘弁下さい。 整理がつきません。 A《継体-安閑-宣化- B《欽明-敏達-用明-崇峻-推古――――舒明-皇極-孝徳-斉明》 C《天智-天武-持統-文武-元明-元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳》 D《光仁-桓武-平城- BはCをコピーして張り付けたものとしています。 用明と持統の対比だ . . . 本文を読む