あまり進みません。で、お茶濁しってところです。
出雲大社から京都御所、福岡県糟屋郡粕屋町までの距離はほぼ同じでした。
しかし、平安宮の内裏は今の京都御所と少し違った場所にあったのではなかったかなぁ。
平安宮内裏内郭回廊跡
北緯35度01分11.8秒、東経135度44分36.7秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350111.8&l=1354436 . . . 本文を読む
前回は葛子の献上した屯倉は深草の屯倉とされているところではないかと考えました。
葛子(くずこ)は薬子(くすこ)とかけてありますし、葛子の「葛」は「葛野(かどの)」の「葛」ではないか、そのうえ、以前から幾つもみていますように、九州と近畿の地名は入れ替えられます。
しかし、出雲大社から福岡の粕屋町と出雲大社から深草の屯倉とされるところや京都・葛野町は同じ距離にはなりませんでした。(近いといえば近いので . . . 本文を読む
『筑紫君葛子恐坐父誅。献糟屋屯倉。求贖死罪。』
<筑紫君・葛子は父の罪が自分に及ぶのを恐れ、糟屋の屯倉を献上し死罪を免れた>
以前も考えましたが、この『糟屋の屯倉』という表現は、変なはずです。
『屯倉』はそもそも朝廷の直轄領のはずですから。
《大化前代における朝廷の直轄領および直轄の農業経営地》
http://kotobank.jp/word/%E5%B1%AF%E5%80%89
屯倉 【ミヤケ . . . 本文を読む
756年「続日本紀」には橘奈良麻呂の処分が書かれていない。
810年「日本後紀」には薬子は服毒自殺とあり、
「藤原朝臣藥子自殺」「遂仰藥而死」
しかし、528年「日本書紀」には葛子は死罪を免れた、とあります。
527・528年の磐井の乱には706・707年の文武天皇・藤原不比等・物部連麻呂の抗争がかかれていました。
707-527=180・・・三干支
そしてこれは527+133=660・・・百済 . . . 本文を読む
『薬子』という名前は知っているには知っていましたが、男だと思っていました。
『薬子の乱』という名称も見たことはありましたが、『乱』から女性だったとは思えませんでした。
小野妹子は男ですし、今まで問題にしていた葛子も男と考えられてきたはずです。
そういう状態から『薬子』にたどり着いたわけですので、まだ練れていません。
有名な『悪女』らしいですが、まるで知識不足の状態から始めましたし、投稿すべきではな . . . 本文を読む
磐井の乱における磐井の子の葛子(くずこ)とされる人物は、年代の離れた橘奈良麻呂が投影されていると考えました。
一つには葛子(くずこ)は「葛城王の子」すなわち「橘諸兄の子」としました。
もう一つは年代の関連で、
橘奈良麻呂の乱を756年としましたが、757年です。
757-528=229で228とは1年ずれてしまいますが・・。
そして、筑紫君・葛子(くずこ)に橘奈良麻呂が投影されていると感じた最大 . . . 本文を読む
継体21年、527年、6月、近江毛野臣が6万の軍勢を率いて任那に行こうとするも、磐井が新羅から賄賂をもらい毛野臣の邪魔をする。
大伴大連は物部麁鹿火を将軍に推挙する。天皇は可とする。
527年8月、継体天皇は物部麁鹿火に斧鉞を与える。
継体22年、528年、11月、物部麁鹿火は磐井を御井郡で討つ。
12月、筑紫君葛子恐坐父誅。献糟屋屯倉。求贖死罪。
朝日新聞社本のテキストでは、526年、527年 . . . 本文を読む
飛鳥寺(法興寺)-斑鳩・法隆寺-舞鶴・法隆寺はほぼ一直線でした。
これらの直線と九州の御井がどういう関係を持つか、気になります。
御井がどこなのか問題ですが、とりあえずは、舞鶴・法隆寺での角度はほぼ直角になるようです。
これには意味がなければなりません。
そのために、文武天皇が物部連麻呂に殺害されたのは法輪寺(三井寺)辺りと考えたのですし、斑鳩・法隆寺は、まずは文武天皇の慰霊のために造られたと考え . . . 本文を読む
斑鳩と舞鶴の法隆寺は関係ないのでしょうか
飛鳥寺(法興寺)と斑鳩・法隆寺に密接な関係があるはずです。
また718年飛鳥寺(法興寺)は飛鳥に残ったものの、奈良に元興寺が造られています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%88%88%E5%AF%BA
《元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日 . . . 本文を読む