日本書紀は、壬申の乱の勝者である天武天皇の立場に立っている、とされている説が有力ですが、そうでもなさそうです。
(現在では、逆の説もでています。反天武の立場で書かれているというものです。ここの場面は明らかにそうですが、他の場面ではどうかわかりません。両方ありえるのではないでしょうか。)
なぜなら、日本書紀では邇芸速日命が那賀須泥毘古を殺したとき、神武天皇は邇芸速日命を誉めています。普通に読めばま . . . 本文を読む
しつこくいいます。なぜ物部連麻呂が大友皇子を殺したかとはっきりいえるのでしょうか。それは「記・紀」が繰り返しかかれなければならないという「魏志倭人伝」からの宿命を負っていたために、壬申の乱のところではなく『神武東征』で壬申の乱の本当の結末を述べているからです。
「魏志倭人伝」がすべての出発点です。(私の主張はこれに尽きます)
ただし、ここではもっとすすんで、というより思想的に退化して、政治的ライ . . . 本文を読む
ではなぜ天智天皇の病床の場面が創られたのでしょうか。
天智天皇からの譲位の言葉が必要だったからです。たとえ、真意が違ったとしても、言葉があるとないとではまるで違うはずだからです。
これがないと、その後の大海人皇子(天武天皇)の行動は謀反(クーデター)になってしまうからです。そしてそれは当然、天智天皇は大友皇子に譲位していなかったことになるからです。
(書紀は、ここの場面では天武天皇側に立って描か . . . 本文を読む
壬申の乱については『神武東征』で書かれているほうが真実に近い部分があります。
『神武東征』として書いてあるために、一見して壬申の乱とは、現在では気づけません。しかし当時はすぐ理解されたと思われます。ただ壬申の乱の正史としては残しにくかったことを、日本書紀の編者は『神武東征』で真実(だと思われること、真実としたかったこと)を残したのでしょう。
≪『神武東征』に書かれているのは「壬申の乱」だという論 . . . 本文を読む
卑弥呼の子孫は出雲に追放されていて、二百年以上後に出雲から大和に復活したというのが私の説です。天孫が日向に降臨しているのがその証拠です。
しかし、実際問題として、卑弥呼の子孫が大和で必要になったときに、その方が‘確実に卑弥呼の子孫である’という証拠を誰もが欲したであろうと思われます。
三十年で一世代と考える、ということを習った記憶があります。すると、二百年以上過ぎていれば七世代経過していることに . . . 本文を読む
金印が発見された志賀島の位置は重要の地点だったのではないか、ということを前に述べました。
すなわち、志賀島は日向から釜山更にソウルに至る直線上にあり、出雲大社から志賀島の金印の発見された場所に直線を引くと、それは垂線となり、直角に交わるのではないか、という想定をしました。
大体そうじゃないかという仮定から出発しているため、まったくの間違いかもしれませんから、無責任な面もありますが、自分の想像が面 . . . 本文を読む
中国に現在、反日運動がおきています。大変残念なことですが、誰も歴史を知らないということは、本当に恐ろしいことです。
私の解釈が正しいとしたら、天皇制の成立という日本の歴史に対して責任の一半は中国にもあるからです。責任は中国の正史、三国志のなかのいわゆる「魏志倭人伝」の記述にあります。そして日本の歴史がわからなくなったのもそのいわゆる「魏志倭人伝」のせいです。
もちろん、私の解釈が正しいとは限り . . . 本文を読む
昨日、友人に自分のブログの存在を明かしました。読んでくれるとの返事でした。そこで自分でも最初から読み直そうとして、トラックバックの存在に気付きました。
お名前を存じ上げている方のトラックバックなのでびっくりしました。
実は、恥ずかしい話、パソコンには詳しくなく、トラックバックのことも良く理解できないのです。説明文を読んでも、どうしたらトラックバックをつけられるのかわかりません。またコメントをする欄 . . . 本文を読む
欽明天皇の系図で(あくまで私流の解釈です)、一番怪しいのが石姫皇女という方と結婚されていることです。
仁徳天皇・大后磐之姫は書紀の表現で、古事記では石之日売と書かれています。
石姫皇女は磐之姫、石之日売と同一表現といっていいはずです。しかし、卑弥呼の子孫がこういう名前の方と結婚するはずはありません。もちろん、卑弥呼トヨを殺した張本人だからです。仮に、そういう方がいて結婚しなければならない状況と . . . 本文を読む
イザサワケという名前は、イザナギ、イズミ、イズモ、さらに伊豆半島のイズにも通じると思えます。たぶん海につながる名前です。(イズモはちょっと困るのですが、出雲より古い意味があるということで目をつぶります)
海洋(支配・安全・貿易・漁・とか)に関係する名前と思います。
で、私は、イザは前王朝を象徴するのではないか、と考えました。実際は、もしかすると、もっと以前の縄文時代からの名前でしょう。そして、前 . . . 本文を読む