仲哀天皇は九年(西暦200年)筑紫で崩御しています。
仲哀天皇
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8年(199年)熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年 . . . 本文を読む
神功皇后の新羅遠征とスサノヲの関係は次回にします。
先に、阿武山古墳の被葬者に関して一つ訂正します。
阿武山古墳の被葬者が天智天皇であることは間違いないと考えています。
しかし、天智天皇について訂正しなければならないことが見つかりました。
年齢です。
日本書紀では天智天皇は671年(天智10)に崩御されたことになっています。
舒明13年(641)舒明天皇は百済宮で崩御します。
≪『13年(641) . . . 本文を読む
さて、推論が飛躍しすぎではないかと思われる向きもあるかもしれません。
ですが、宝皇女を百済王女とすると合点がいくことがあります。
なぜ、斉明天皇は、不評を買ってまで、「狂(たぶれ)心の渠(みぞ)」などという大規模な工事をしなければならなかったのでしょうか。
これは斉明二年(656)のことです。
≪この年,飛鳥の岡本(明日香村雷丘あたり)にさらに宮地を定めた。おりから高麗・百済・新羅が揃って . . . 本文を読む
A・ソウル、B・仁川(インチョン)、C公州(コンジュ)(武寧王陵(ムリョンワンヌン)、D・扶余(プヨ)、E・光州(クァンジュ)、F・伽倻、G釜山
B-E-FはEで90度になり、E・Fの延長線上に出雲大社、伊吹山山頂、富士山山頂があります。
A・D・Eは一直線上でA・D・EとE・Gは直角で、E・Gの延長上は黒髪神社、元明、元正天皇陵あたりになります。
C・Eの線とEで直角になる線が向 . . . 本文を読む
ソウル・扶余(プヨ)・光州(クァンジュ)の直線と光州で直角になる日本の地は
黒髪神社、元明陵、元正陵あたりになります。(もちろん西や東にそうなる地はありますが、熊野大社からほぼ真北にある地では、此処にしぼられてくると思われます。)
そしてその地は、光州(クァンジュ)―釜山の延長上でもあります . . . 本文を読む
以前11/3に、光州(クァンジュ)と伽倻・出雲大社・伊吹山山頂・富士山山頂は一直線になることを見ました。
その線と光州(クァンジュ)・仁川(インチョン)の線は直角になることを見ました。(11/7)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f52abab362cdb29000cd67f43b49213d
http://blog.goo.ne.j . . . 本文を読む
熊野本宮大社の位置では、熊野本宮大社から淤能碁呂(おのごろ)島に向かう直線と斎宮跡に向かう直線のはさむ角度は97.6353度であり、大きすぎました。
調べてみると、熊野本宮大社の位置は昔と違っているようです。今より南です。
熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335004&l=1354629
です . . . 本文を読む
A・淤能碁呂(おのごろ)島にします
B・道成寺
C・伊勢(とりあえず斎宮跡のつもり)
D・蒲生野(とりあえず清水鼻の日枝神社の前のつもり)
E・熊野本宮大社
淤能碁呂(おのごろ)島の位置を確定しようとしましたが、どうも無理のようです。
ただし、経緯度の特定の一点と考えるのではなく、仮想とはいえ島なのですから、ある程度の領域を持つとして、島全体を聖域と考えることにします。
各種の線が島にたどりつい . . . 本文を読む