古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

熱田神宮と⊿高市山→砥鹿神社-伊吹山・マルケバ(鞠蹴場)

2016年08月30日 12時15分59秒 | Weblog
熱田神宮は砥鹿神社-伊吹山山頂の線上にはありません。 少しずれています。 そこで、砥鹿神社→熱田神宮の延長線を伊吹山辺りにもっていきます。 そして、砥鹿神社-熱田神宮と同一距離になる地点を探りました。 そうしますと、図形的に、⊿高市山-砥鹿神社-伊吹山三合目辺りは、二等辺三角形になり、高市山-熱田神宮の直線は砥鹿神社-伊吹山三合目辺りの直線と直角にぶつかることになります。 試行錯誤の結果、その地点 . . . 本文を読む

⊿砥鹿神社-熱田神宮-高市山 ⊿砥鹿神社-伊吹山-道成寺

2016年08月26日 12時35分52秒 | Weblog
三河国一宮・砥鹿神社, 尾張国三宮・熱田神宮,(一宮は真清田神社) そしてほとんど歴史から消された高市天皇(皇子)の名前がつく高市山を 結んでみます。 ⊿熱田神宮-砥鹿神社-高市山 熱田神宮→砥鹿神社  Ⅰ123°24′10.07″ Ⅱ303°41′48.01″  Ⅲ56,146.723(m) 熱田神宮→高市山  Ⅰ213°35′43.22″ Ⅱ32°52′52.80″ Ⅲ212,573.2 . . . 本文を読む

「尾張目子媛」と「日日並べて」

2016年08月25日 01時49分51秒 | Weblog
何を言いたいかといいますと、尾張目子媛には持統(鸕野讃良・うののさらら)が投影・反映されているのではないか、ということなんです。 そうなれば、持統(鸕野讃良・うののさらら)の出身は「尾張」だといえそうです。(それでもまだ三河は捨てがたい所があります) 系図では尾張目子媛は宣化天皇の母ということになっています。 父は継体天皇です。 https://kotobank.jp/word/%E7%9B% . . . 本文を読む

「とかなくてしす」「止加那久天之須」と「ほをつのこめ」「本乎津能己女」

2016年08月21日 14時01分42秒 | Weblog
いろは歌の暗号について、「あれ」と思ったことがあり、ちょっと予定を変えて検討します。 いろはにほへ と ちりぬるをわ か よたれそつね な らむうゐのお く やまけふこえ て あさきゆめみ し ゑひもせ す 7番目の字をつなぐと「とかなくてしす」となり、「咎なくて死す」であり、「無実の罪で死ぬ」という暗号ということでした。 無実の罪で死んだのは「柿本人麻呂」のことだという説を昔読んだことがあり . . . 本文を読む

⊿三河国一宮・砥鹿(とが)神社-伊吹山-志都美神社

2016年08月19日 13時40分39秒 | Weblog
三河に砥鹿(とが)神社があり、三河国一宮でした。 ビックリする名前です。 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/157483/meaning/m0u/ とが【×咎/▽科】 1 人から責められたり非難されたりするような行為。あやまち。しくじり。「失敗は彼の―ではない」 2 罰されるべき行為。罪。「盗みの―で捕らえられる」 3 非難されるような欠点。 いろは歌に「とがなく . . . 本文を読む

持統上皇三河行幸について

2016年08月17日 11時42分46秒 | Weblog
『大宝二年(702)12月13日持統太上天皇の病が重くなり、12月22日崩御。』 その直前ともいえる9月19日、三河に行幸するための準備として、五国に行宮を造ります。 『702年9月19日伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造ります。』 そして、10月3日三河国に行幸するために諸々の神々を鎮め祭ります。 10月10日三河国に行幸します。(出発したのではなく、三河についたことのようです) そし . . . 本文を読む

持統天皇の出身地の推定

2016年08月11日 22時16分29秒 | Weblog
大津皇子の母の大田皇女は息長氏の娘と考えました。 すると持統(鸕野讃良・うののさらら)はどの豪族の娘になるのでしょうか。 ちょっと思いつくことがあったので、もう一度整理してみます。 大田皇女と持統(鸕野讃良・うののさらら)の父母は天智天皇と蘇我遠智媛で、父母は同一の全くの姉妹とされています。 しかし、天智天皇は存在しません。 何度も言いますが、天智天皇の娘たちと天武天皇及び天武の皇子たちとの婚姻 . . . 本文を読む

伊吹山-道成寺の線上に科長神社

2016年08月04日 12時27分08秒 | Weblog
科長神社(しながじんじゃ)に神功皇后の誕生地の伝説があるそうです。 《『式内社調査報告』では「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」》ウィキペディア 以前やった息長陵-道成寺の線上に五社神古墳(ごさしこふん)があり、 五社神古墳は神功皇后陵とされ、神功皇后は 《『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おき . . . 本文を読む