古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

聖徳太子の不比等の側面

2006年08月29日 22時39分36秒 | Weblog
聖徳太子の父の用明天皇の元年・586年は天智元年・662年と76年(19×4)差です。また、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。この名前から、我々は天智の実の妹(天武の実の姉)の間人皇女を思い浮かべます。また、不比等の書紀の編纂・720年と聖徳太子が国史を編纂したとされる620年は、100年差であり、偶然ではありえません。その上二人とも天皇にはなれません。 . . . 本文を読む

仮説・継体~天武間の繰り返し

2006年08月26日 00時21分33秒 | Weblog
継体~天武~持統又は元明における繰り返しを、無理矢理つくりました。 . . . 本文を読む

継体→元明→継体という形での歴史の循環

2006年08月22日 18時03分40秒 | Weblog
現在の書紀は持統天皇まで記述されていることになっていますが、それ以降のことも書かれていて、継体→元明→継体という循環が一応の基本形のようです。 . . . 本文を読む

宣化から欽明と舒明から天智天皇への皇位継承の似た点

2006年08月18日 23時49分05秒 | Weblog
舒明から天智天皇への皇位継承は、コピーされて100年前の宣化から欽明への皇位継承の時代に貼り付けられました。 . . . 本文を読む

神武即位年と天智即位年の関係と辛酉革命

2006年08月15日 20時03分09秒 | Weblog
「記・紀」の編纂時には辛酉革命という考え方はなかったのではないでしょうか。 . . . 本文を読む

前回の修正と神武崩年

2006年08月11日 22時48分42秒 | Weblog
当年称元法を利用すると、欽明ー敏達と天智ー天武の関係は、紀年的には合同になります。また、神武崩年と敏達崩年の関係は西暦元年を軸として対称になります。 そして、神武・敏達・天武には共通する部分があります。 . . . 本文を読む

不比等のマジック、天智・天武天皇関係の紀年を一年修正する試み

2006年08月08日 12時58分12秒 | Weblog
紀年を一年ずらすと、天智天皇中心の日本書紀が天武・持統天皇中心に変化するように見えます。不比等のマジックではないでしょうか。 . . . 本文を読む
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百済の首都・扶余の位置

2006年08月03日 23時23分21秒 | Weblog
7/17のブログでは、錦江(クムガン)河口の位置で調べました。 鹿島―諏訪―福井―錦江(クムガン)は一直線上になる地点があるであろう、と推定できました。 しかし、諏訪では諏訪湖の南岸をかすめそうな直線のようですが、とりたててどこを通るということはなさそうでした。 後に百済の首都だった扶余が錦江(クムガン)流域にあることを知り、その地点で、再度やり直してみることにしました。 《扶余郡 出典: フリ . . . 本文を読む

任那の滅亡は562年か、663年なのか、について

2006年08月01日 18時52分10秒 | Weblog
 欽明天皇の崩御年と天智天皇の崩御年がどのくらい離れているか、ご存知でしょうか。 欽明32年崩(571)―天智10年崩(671)  欽明崩御年と天智崩御年はちょうど100年離れています。 これは既に5月8日のブログに示していました。 しかし、これが何を意味しているのかは、はっきりしませんでした。 各天皇方の即位年・崩御年(崩年)は規則正しく表されていることは見えましたが、その意味は掴みきれません . . . 本文を読む