聖徳太子の父の用明天皇の元年・586年は天智元年・662年と76年(19×4)差です。また、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。この名前から、我々は天智の実の妹(天武の実の姉)の間人皇女を思い浮かべます。また、不比等の書紀の編纂・720年と聖徳太子が国史を編纂したとされる620年は、100年差であり、偶然ではありえません。その上二人とも天皇にはなれません。
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当年称元法を利用すると、欽明ー敏達と天智ー天武の関係は、紀年的には合同になります。また、神武崩年と敏達崩年の関係は西暦元年を軸として対称になります。
そして、神武・敏達・天武には共通する部分があります。 . . . 本文を読む
7/17のブログでは、錦江(クムガン)河口の位置で調べました。
鹿島―諏訪―福井―錦江(クムガン)は一直線上になる地点があるであろう、と推定できました。
しかし、諏訪では諏訪湖の南岸をかすめそうな直線のようですが、とりたててどこを通るということはなさそうでした。
後に百済の首都だった扶余が錦江(クムガン)流域にあることを知り、その地点で、再度やり直してみることにしました。
《扶余郡
出典: フリ . . . 本文を読む
欽明天皇の崩御年と天智天皇の崩御年がどのくらい離れているか、ご存知でしょうか。
欽明32年崩(571)―天智10年崩(671)
欽明崩御年と天智崩御年はちょうど100年離れています。
これは既に5月8日のブログに示していました。
しかし、これが何を意味しているのかは、はっきりしませんでした。
各天皇方の即位年・崩御年(崩年)は規則正しく表されていることは見えましたが、その意味は掴みきれません . . . 本文を読む