古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

△瀧原宮-阿紀神社・阿騎野-高市山

2024年03月13日 20時10分34秒 | Weblog
以前は
△大津皇子墓-天智天皇陵-藤原宮跡、阿騎野は直角三角形 2018年09月05日
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/e2b318d73089f860c84bea56d39bb64e

天智天皇陵で検討していましたが、やってなさそうなので、高市山でも検討します。
大津皇子は瀧原宮で禊ぎをし、藤原宮で即位をするつもりで阿騎野まで戻ってきましたが、待ち伏せしていた高市皇子に討たれました。

大津皇子の姉の大伯皇女 (おおくのひめみこ・大来皇女とも)が心配した通りに
《二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)》
大津皇子は秋山(阿騎野・阿紀神社)を超えることができませんでした。
(もちろん、誰か他の人が創った歌となります)

これは天武天皇崩御の686年のことになるはずです。
しかし、690年高市皇子が宮を視察し持統天皇の藤原宮遷都は694年とされています。それ以前に藤原宮はできていたのではないか、と考えます。
瀧原宮は皇大神宮(伊勢神宮内宮)の前身と想像します。

高市皇子(高市天皇)は大津皇子のクーデターということにしましたが、後の藤原氏の王権は長屋天皇を消すために、高市天皇も消さなければなりませんでした。
クーデターを起こして勝利した方は、破った相手がクーデターを起こしたことにしました。











△瀧原宮-阿紀神社-高市山
阿紀神社→瀧原宮
 ①104°58′03.15″ ②285°15′04.73″ ③47,798.043(m)
阿紀神社→高市山
 ①193°53′23.60″ ②13°43′56.82″ ③108,948.427(m)
瀧原宮→高市山
 ①218°01′51.24″ ②37°35′36.13″ ③118,145.287(m)

阿紀神社での角度
 193°53′23.60″-104°58′03.15″=88°55′20.45″≒88.9223度
瀧原宮での角度
 285°15′04.73″-218°01′51.24″=67°13′13.49″≒67.2204度
高市山での角度
 37°35′36.13″-13°43′56.82″=23°51′39.31″≒23.8609度

例の頂角67.5度、底角22.5度の二等辺三角形を思い起こさせる直角三角形になります。
阿紀神社の南に瀧原宮-大津皇子・仁徳天皇陵の直線が通ります。

東の 野に炎の ・・阿騎野
2018年08月27日
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/155c06b4d2f988ca8de5362e0d3913b4


阿騎野・藤原宮跡から見て、大津皇子墓は満月の沈む方角
2018年08月30日
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3d7f6c37cd3f850509c7e75faba83f5d

草壁皇子=日本武尊=高市皇子
2009年05月18日
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/48512d8c81014a2d4929f8642cc3be2c


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