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古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

「三河」の地名は「三輪」から創られたのではないか 2

2018年09月28日 13時46分37秒 | Weblog
「三河」の地名は「三輪」から創られたのではないか、と前回推測しました。 推測が正しいとすると、それを裏付けるものがあるはずです。 位置関係でみると 皇大神宮(伊勢神宮・内宮)から三輪・大神神社の距離と 皇大神宮(伊勢神宮・内宮)から砥鹿神社・奥宮までの距離が似ていそうです。 △皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-砥鹿神社・奥宮-大神神社 皇大神宮(伊勢神宮・内宮)→砥鹿神社・奥宮  ①51°43′14. . . . 本文を読む

「三河」の地名は「三輪」由来ではないでしょうか

2018年09月23日 14時45分43秒 | Weblog
702年持統上皇三河行幸があったとされています。 以前、考えたことがありました。 https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3f19b23f95bb37da1faba3183f4e271b 持統上皇三河行幸について 2016年08月17日 なぜ「三河行幸」なのだろうかというのが、結局、どなたにもはっきりとわからないことのようです。 私も、三河が生まれ故郷だった . . . 本文を読む

△斉明天皇陵ー大田神社ー伊勢神宮・内宮 , △斉明天皇陵ー熊野本宮大社ー伊勢神宮・内宮

2018年09月19日 14時32分05秒 | Weblog
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉の真北に上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社の大田神社がありました。 では、東はというと、皇大神宮(伊勢神宮・内宮)でした。 そして、南は熊野本宮大社でした。 とりあえず、形を見ます。無理かもしれませんが、意味は後で考えましょう。 △斉明天皇陵〈大田皇后陵〉ー大田神社ー皇大神宮(伊勢神宮・内宮) 斉明天皇陵〈大田皇后陵〉→大田神社  ①359°15′2 . . . 本文を読む

とりあえず無題で

2018年09月17日 15時06分51秒 | Weblog
斉明天皇陵とされる小市岡上陵(をちのをかのうへのみさざき・越智崗上陵)は大田皇后陵と考えます。 また、京都に上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社に大田神社がありますが、斉明天皇陵の真北にあたっていました。 斉明天皇陵〈大田皇后陵〉→大田神社  ①359°15′27.45″ ②179°15′07.97″ ③66,808.635(m) (この南北の線上に流れている川が、途中からですが、曽我川と名づけられて . . . 本文を読む

大田々根子と大田皇后(大田皇女こと)

2018年09月13日 13時45分07秒 | Weblog
大田々根子は大物主神の子孫で三輪氏や賀茂氏の始祖とされています。 そして、大田皇后と大田々根子の「大田」は関連するのではないか、と考えました。 すなわち大田々根子は大物主神の子孫ですから、大田皇后もそうされていたのではないか。 https://kotobank.jp/word/大田田根子-1060552 大田田根子 『古事記』『日本書紀』の伝承にみえる人物で,三輪山(桜井市)の神である大物主神の . . . 本文を読む

斉明天皇陵は大田皇后陵であるべきです

2018年09月10日 14時38分13秒 | Weblog
しつこく主張しますが、もともとは天智天皇に比されている方は白村江の戦いの戦犯として創られた,と考えています。 すると、667年当時、天武天皇が責任者で、天皇位(天皇の名称がなかったならば、それに匹敵する地位)にあったとすると、そのとき亡くなった正妃・大田皇女(皇女ではないのですが)は大田皇后であったはずです。 とすると、斉明天皇陵とされる小市岡上陵(をちのをかのうへのみさざき)は大田皇后陵であった . . . 本文を読む

△大津皇子墓-天智天皇陵-藤原宮跡、阿騎野は直角三角形

2018年09月05日 18時09分28秒 | Weblog
阿騎野-藤原宮跡-大津皇子墓は一直線といっていいです。。 そして、 △阿騎野-大津皇子墓-天智天皇陵と △藤原宮跡-大津皇子墓-天智天皇陵は直角三角形になっています。 また、△瀧原宮-大津皇子墓-天智天皇陵も直角三角形になりそうです。 皇太子であった大津皇子は即位のための禊ぎとして,姉のいる伊勢に行った,と考えていますが,この図からすると、その伊勢とは現在の伊勢皇大神宮(伊勢神宮・内 . . . 本文を読む