①高市山の位置
②高市天皇という言葉があった。
③天智天皇は存在しなかった。
クレームはあるでしょうが、前回忘れていたものに
④長屋王邸跡から出土した木簡の長屋親王の表記・・高市皇子が天皇であったことを意味する
⑤垂仁天皇と高市皇子の似ている点(2007・3/2・・今から考えると少し変なところもあります。高市皇子と不比等が戦う理由もないような気がします)
などを足します。
総合的に考えて高市皇子は天皇に即位していたであろうと考えます。
さて、ではいつ即位したのかと考えると、用明元年586年、この100年後が天武天皇崩御年686年になります。そして、その年の内に高市皇子は天皇に即位したことが考えられます。
年表では、この686年は「鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)称制」「大津皇子謀反・死刑」となっています。
文献上では鸕野讚良皇女(持統)が政務を見ていたようになっていて、持統4年・690年になって持統即位となります。
なぜ鸕野讚良皇女(持統)はすぐに即位しなかったのでしょうか。一般的には草壁皇子を即位させようとしていて待っていたが、草壁皇子が病弱で689年に亡くなってしまったから、とされています。天武天皇の「もがり」が長すぎたことも要因になっているようです。
しかし、私は、鸕野讚良皇女は即位していないと見ています。高市皇子でも草壁皇子どちらでもいいですが、男王であったと考えます。
690年は中国唯一の女帝・則天武后(武則天というのが一般的になってきたそうです)が即位した年です。
持統即位690年というのは、則天武后即位690年を念頭に置いて、後から設定されたものとみなします。707年元明即位年の後から考えられたものだとみます。推古・皇極・(斉明)・持統などの女帝は後の女帝元明天皇が必要だったことから創造されたもののはずです。
(持統即位は690年1/1で、則天武后即位は1/24で持統の方が幾分早いことになっています)
用明元年586年は推定の高市皇子即位年686年と結び付けられるはずです。
しかし、当たり前ですが、これは推定です。
文献上の用明元年586年は、以前に書いていますが、天智元年・662年と76年(19×4)差で結び付けられているのです。高市天皇を消すためにです。
2006・8/29
《聖徳太子の不比等の側面
聖徳太子の父の用明天皇の元年・586年は天智元年・662年と76年(19×4)差です。また、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。この名前から、我々は天智の実の妹(天武の実の姉)の間人皇女を思い浮かべます。また、不比等の書紀の編纂・720年と聖徳太子が国史を編纂したとされる620年は、100年差であり、偶然ではありえません。その上二人とも天皇にはなれません。》
このときは用明天皇を天智天皇とみなし、聖徳太子を藤原不比等に擬していました。(しかし、現在では天智天皇は存在していなかったと考えています。不比等の父は百済王豊璋のはずです。豊璋は天武天皇の姉の間人皇女と婚姻したはずですから、豊璋と天武天皇は義理の兄弟となります。そうすると、系図上、天智天皇は天武天皇の兄であり、天智天皇は実の妹となっている間人皇女といかにも夫婦のような感じを受けるのはクリアできることになります。)
さて、それでは用明天皇を高市皇子とした場合、聖徳太子は長屋王になります。
長屋王も、天皇にはなっていないことになっていますから、聖徳太子の候補でいいわけです。
すると聖徳太子の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は長屋王の母の御名部皇女(みなべのひめみこ)になります。
そこで
穴穂部=あなほべ=あ・なほ・べ=A・NAHO・BE
御名部=みなべ=MIN・ABE
両方ともアベが隠れているのです。
元明天皇(阿閉皇女・あへのひめみこ)もアベでした。
元明天皇陵=「奈保山東陵」といいます。「ナホ」がここにあります。
こんがらがっていますが、とりあえず続けてみます。
②高市天皇という言葉があった。
③天智天皇は存在しなかった。
クレームはあるでしょうが、前回忘れていたものに
④長屋王邸跡から出土した木簡の長屋親王の表記・・高市皇子が天皇であったことを意味する
⑤垂仁天皇と高市皇子の似ている点(2007・3/2・・今から考えると少し変なところもあります。高市皇子と不比等が戦う理由もないような気がします)
などを足します。
総合的に考えて高市皇子は天皇に即位していたであろうと考えます。
さて、ではいつ即位したのかと考えると、用明元年586年、この100年後が天武天皇崩御年686年になります。そして、その年の内に高市皇子は天皇に即位したことが考えられます。
年表では、この686年は「鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)称制」「大津皇子謀反・死刑」となっています。
文献上では鸕野讚良皇女(持統)が政務を見ていたようになっていて、持統4年・690年になって持統即位となります。
なぜ鸕野讚良皇女(持統)はすぐに即位しなかったのでしょうか。一般的には草壁皇子を即位させようとしていて待っていたが、草壁皇子が病弱で689年に亡くなってしまったから、とされています。天武天皇の「もがり」が長すぎたことも要因になっているようです。
しかし、私は、鸕野讚良皇女は即位していないと見ています。高市皇子でも草壁皇子どちらでもいいですが、男王であったと考えます。
690年は中国唯一の女帝・則天武后(武則天というのが一般的になってきたそうです)が即位した年です。
持統即位690年というのは、則天武后即位690年を念頭に置いて、後から設定されたものとみなします。707年元明即位年の後から考えられたものだとみます。推古・皇極・(斉明)・持統などの女帝は後の女帝元明天皇が必要だったことから創造されたもののはずです。
(持統即位は690年1/1で、則天武后即位は1/24で持統の方が幾分早いことになっています)
用明元年586年は推定の高市皇子即位年686年と結び付けられるはずです。
しかし、当たり前ですが、これは推定です。
文献上の用明元年586年は、以前に書いていますが、天智元年・662年と76年(19×4)差で結び付けられているのです。高市天皇を消すためにです。
2006・8/29
《聖徳太子の不比等の側面
聖徳太子の父の用明天皇の元年・586年は天智元年・662年と76年(19×4)差です。また、聖徳太子の母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。この名前から、我々は天智の実の妹(天武の実の姉)の間人皇女を思い浮かべます。また、不比等の書紀の編纂・720年と聖徳太子が国史を編纂したとされる620年は、100年差であり、偶然ではありえません。その上二人とも天皇にはなれません。》
このときは用明天皇を天智天皇とみなし、聖徳太子を藤原不比等に擬していました。(しかし、現在では天智天皇は存在していなかったと考えています。不比等の父は百済王豊璋のはずです。豊璋は天武天皇の姉の間人皇女と婚姻したはずですから、豊璋と天武天皇は義理の兄弟となります。そうすると、系図上、天智天皇は天武天皇の兄であり、天智天皇は実の妹となっている間人皇女といかにも夫婦のような感じを受けるのはクリアできることになります。)
さて、それでは用明天皇を高市皇子とした場合、聖徳太子は長屋王になります。
長屋王も、天皇にはなっていないことになっていますから、聖徳太子の候補でいいわけです。
すると聖徳太子の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は長屋王の母の御名部皇女(みなべのひめみこ)になります。
そこで
穴穂部=あなほべ=あ・なほ・べ=A・NAHO・BE
御名部=みなべ=MIN・ABE
両方ともアベが隠れているのです。
元明天皇(阿閉皇女・あへのひめみこ)もアベでした。
元明天皇陵=「奈保山東陵」といいます。「ナホ」がここにあります。
こんがらがっていますが、とりあえず続けてみます。
で、即位を待たれていたというのは誰の孫なのでしょうか?
その方が持統の孫(文武)に反映されているのでしょうか。
光明子・聖武の孫?いましたっけ。(あるいは橘三千代・不比等?)
『天孫降臨』の話は、持統の話が反映されているという説はありました。
また、光明子の反映として、持統天皇が後から創られたという説も魅力的なんですが・・。
(私の説は、高市天皇を消すために持統天皇が必要だった、ですが、別の観点も欲しいところです。)
その他の場合は別に女性でなければならなかったということはないと思います。
孝謙天皇を創りださねばならないときに、それ以前に女性天皇の存在が必要となりました。
藤ノ木古墳の二人の被葬者は文武天皇と長屋王と考えます。
で、その二人が聖徳太子の基となっているはずです。
橘三千代・藤原不比等・物部連麻呂が文武天皇を、そして、おっしゃるように(聖武・)光明・藤原仲麻呂が長屋王を聖徳太子としたのでしょう。
ですが、女性陣(橘三千代・光明子の母娘)が、二人の鎮魂のために特に力を注いだと思っています。
天武も大津皇子も文武天皇も存在しないのですか。
日本書紀はその頃から上書きをされなくなった、というのは同感です。
持統もきっとそうなんでしょう。
私が、理解できていないのは、その戻ってきた人物が、あれだけの惨敗で、日本で続けて権力を維持できていたのだろうか、というところです。今のところ一応そうなんだろうということで想像を続けています。そうしないと高市と大津皇子の対立が・・・。