古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

島の山古墳-宮殿跡?・纒向-藤原宮跡、など

2011年01月30日 22時30分49秒 | Weblog
島の山古墳-宮殿跡?・纒向-藤原宮跡の三角形も辺の比が5:4:3になるはずですが、藤原宮跡がちょっとずれていたせいかピッタリとはいきません。 宮殿跡・纒向→島の山古墳  ①301.380度 ②121.338度 ③8.008136km  Ⅰ301°15′53.03″ Ⅱ121°13′20.41″ Ⅲ8,020.357(m) 宮殿跡・纒向→藤原宮跡  ①212.045度 ②32.0263度 ③5. . . . 本文を読む

島の山古墳-三輪山-伝飛鳥板蓋宮跡

2011年01月28日 13時25分23秒 | Weblog
重複しますが《島の山古墳-三輪山-伝飛鳥板蓋宮跡》の三角形です。 島の山古墳→三輪山・修正  ①121.305度 ②301.362度 ③10.68534km  Ⅰ121°11′23.00″ Ⅱ301°14′46.65″ Ⅲ10,701.657(m) 三輪山・修正→伝飛鳥板蓋宮跡  ①211.179度 ②31.1546度 ③7.864935km  Ⅰ211°17′44.76″  Ⅱ31°16′1 . . . 本文を読む

卑弥呼の宮殿跡・纒向?

2011年01月25日 13時55分22秒 | Weblog
 倭の五王』に挑戦しようとしましたが、わからないことが多いので一旦断念します。  「倭王・武」はヤマトタケルの原像で、後に高市皇子(天皇)が自らイメージを重ねたか、それとも、重ね合わされたかしたと考えました。  また、イメージは雄略天皇とも重なります。  もともとは雄略天皇は『倭の五王』の「倭王・武」に合わせて創られたもので、高市皇子(天皇)とその系統が、雄略天皇に「倭王・武」と高市皇子(天皇)を . . . 本文を読む

『宋書倭国伝』が間違えたと思われるところ

2011年01月21日 00時33分53秒 | Weblog
『魏志倭人伝』の間違いのとおりに記述するということが、「記・紀」編纂者に課せられた使命です。 それが、その他の中国の史書にも及びます。 『隋書倭国伝』は、間違っているとはいえない部分までも、間違いに仕向けられています。 『宋書倭国伝』は『魏志倭人伝』と『隋書倭国伝』の間の史書です。 ですから、『宋書倭国伝』にも間違いがあるか、間違いにさせられてしまっているところがあるはずです。 おそらく『宋書倭国 . . . 本文を読む

『句驪無道』

2011年01月17日 23時37分21秒 | Weblog
しつこく何度も書きますが、お許し下さい。 「記・紀」は『魏志倭人伝』の間違いどおりに書かれている、というのが私の持論です。 なぜなら、『魏志倭人伝』は卑弥呼復活を預言してしまい、後にそのとおりに卑弥呼(の子孫)が復活したために(言霊)、その間違い通り書く必要があったと考えたわけです。(8月15日の意味も「復活」にあるはずです) 247年卑弥呼が死んで墓が造られ、その後で臺与(トヨ)が女王になったこ . . . 本文を読む

道成寺-孝霊山-高千穂峰・恭仁宮跡・洞溝古墳群の二等辺三角形

2011年01月12日 22時17分21秒 | Weblog
△道成寺-孝霊山-高千穂峰、 △道成寺-孝霊山-恭仁宮跡、 △(集安)洞溝古墳群-高千穂峰-恭仁宮跡 これらの三つの三角形はほぼ同じ形になるようです。(平面だったなら相似) 頂角は30度に近く、底角は75度に近く、底辺の距離のほぼ2倍が斜辺になるようです。(ただし、絶対にピッタリそうなることはありませんでした。) 恭仁宮跡の代わりに、聖武天皇陵、東大寺大仏殿、春日大社、妙見宮、高麗寺跡などでもや . . . 本文を読む

妻木晩田遺跡・孝霊山と道成寺、(集安)洞溝古墳群、諏訪大社上社本宮

2011年01月10日 12時23分51秒 | Weblog
(集安)洞溝古墳群-妻木晩田遺跡・孝霊山-道成寺は一直線となり、 諏訪大社上社本宮と直角三角形になります。 (集安)洞溝古墳群は高句麗の墓群ですし、孝霊山も「高麗」です。 また、道成寺は文武天皇の勅願の寺とされていますが、聖武天皇の勅願だと考えています。 聖武天皇は百済・高句麗の両方の血統を継いでいるはずです。(おそらく・不比等と氷高皇女(元正天皇)の子、源氏物語からの推測) (それに、もともとは . . . 本文を読む

妻木晩田遺跡の位置 Ⅱ

2011年01月09日 12時48分51秒 | Weblog
妻木晩田遺跡の周りには「高麗」という地名があったようです。 現在は、‘ウォッちず’では「高麗郵便局」しかヒットしません。 (間違いました。ヒットしますが名前は表示されませんでした) □ 高麗郵便局 / "鳥取県西伯郡大山町" (こうれいゆうびんきょく) http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=352822&l=1332640 http://ja . . . 本文を読む

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)の位置

2011年01月06日 23時01分55秒 | Weblog
現在の「記・紀」の描写・設定では継体天皇は幾人もの方が比定されると考えています。 しかし、継体天皇《男大迹尊(おおどのみこと)・袁本杼命(おほどのみこと)》の概念が最初に創られたときは天武天皇系列の方が出雲《意宇(おう)》から大和に戻ってきたことを示していると考えています。 何度もいいますが、出雲大社-平城京・朱雀門-伊勢神宮・内宮の直線と福井の位置が示す直角三角形は、継体天皇が福井から登場したの . . . 本文を読む

エー、続きかな

2011年01月03日 21時55分13秒 | Weblog
この場合の継体天皇を光仁天皇(白壁王)としますと、手白香皇女の白が百済関連を示しているとすると、彼女は高野新笠となりえますし、欽明天皇は桓武天皇となります。 手白香皇女は皇女だが高野新笠は違うと思われるかもしれませんが、百済・武寧王の系列であると聞いたことがあります。 継体崩御534年としますと光仁崩御781年で・247年差・19×13。 欽明元年540-桓武即位年781・・241年差・ほぼ4干 . . . 本文を読む