古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

藤原宮・京の建設と全国の道路網の整備の財源はどこにあったのでしょうか。

2015年06月14日 22時25分22秒 | Weblog
寄り道というわけではなくなったのですが、今回はテレビ番組を見た感想のようなものです。
私は、藤原宮またそれに関連する京(とりあえず藤原京と表現します)の建設には、天武系(高句麗系)と天智系(藤原氏・百済系)の密接な協力関係が無ければ不可能だったという仮説を軸に考えています。
ところが、白村江の戦いで負けた後、「壬申の乱」で天武系が正統性のある天智系から権力を奪ったかのように、見せかけられ表現されている気がします。

白村江の戦いに向かったのは(架空の)天智天皇であり、大海人皇子(天武天皇)ではないという言い訳を、唐に対してするために、(架空の)壬申の乱が創られ、唐に逆らった天智は滅ぼされたということにしたのではないでしょうか。
後に藤原氏系は天智系であるかのように見せかけていますが、最初は違っていたのではないか、と思えるのですが・・・。
百済系は、白村江以降は自分たちが日本に存在している痕跡を消そうとしたはずです。

先だって6月10日午後10時からのNHKの歴史ヒストリア(録画しました)で「古代日本 愛のチカラ ~よみがえる持統天皇の都~」をやっていました。

私の考えとは、持統に対する考えで違いますが、私の知らなかった指摘がありました。
「巨大道路は全国に」
「全国から発見された道路は総延長6300㎞でその起点はすべて藤原京です」
『すべての道はローマに通ず』を思い起こしますが、どうしてそれが可能だったかというと、番組に登場された文化庁の調査員の方の解説では
「国が中央集権体制を整えた時期で天皇を中心として国民ひとりひとりを掌握して、国の命令によって、いかなる大規模な工事を達成することが可能だった。巨大なまっすぐな道路は国の権威を見せつける象徴としての意味もあった。」ということでした。
【『持統天皇の生きた飛鳥時代の地層から東山道支路跡(群馬 安中市)が発見され、道路の幅12m 直線30㎞以上も一直線だった』ことがわかるそうです。
『さらに、九州の吉野ヶ里遺跡の近くからも西海道肥前路跡が発見されて、小さな丘なら躊躇なく切り崩しあくまで道を一直線に通したことがわかります』だ、そうです。
そして、《九州から都まで、最短五日間で結ぶことが可能になりました》そうです。《全国から発見された道路の遺跡は東北地方から九州まで総延長6300㎞》】
テレビ画面を写しちゃいました。これがないとすごいことがわかりません。



藤原京の規模が大きい、ということは聞いたことがありました。(番組によると、平城京・平安京よりも大きい、ということでした。)

しかし、確かに、中央集権体制が完成し、命令すれば可能だったことはあるでしょうが、それだけではいかがなものでしょうか。
今風にいえば、財源の裏付けなければ、大規模道路網の完成など無理でしょう。
工事をやる人たちを集めるにしても、税金を免除するとか、方法はあるにしてもそれだけでは足りないでしょう。膨大な資材も必要です。
現代のように赤字国債を発行するなんてことは出来なかったでしょうし、何処に財源があったのでしょうか。
仁徳天皇の時代に宮殿を修理もしないで、民が豊かになるのを待ったという話がありましたが、山に囲まれた狭い飛鳥京では手狭で、大きな藤原京の建設を急いだようですし、大極殿も「正面45m 奥行21m 高さ(推定)25m」だそうです。
「大極殿の前に広大な空間が広がっており東西240m南北600m、東京ドーム3個分で、儀礼空間の朝堂院、この朝堂院の東西には官僚たちが勤める官庁街が広がっていた。東西南北5.3㎞四方の藤原京。藤原京は平城京や平安京を上回る最古・最大の都」だそうです。
道路も宮殿も立派にして、ということは何か財源が無ければ、税金を多く徴収することになるのでしょうが、消費税だって簡単に上げられないのに、どうやったんでしょうか。
NHKの番組では「たとえどれだけ費用がかさもうと、近代国家に生まれ変わるための必要な出費です」と持統天皇が言ったことにしています。
しかし、財源がなぁ・・・。仁徳天皇も、さぞかし、真っ青でしょう。
翡翠を思いつきましたが、そこまで翡翠が役割を担えるでしょうか。わかりません。

663年白村江でコテンパンに敗れ、672年壬申の乱で国が二分し、その後694年藤原京遷都となったわけです。
私は、藤原京遷都はもっと以前で、壬申の乱などやっている暇などなかったと考えています。まぁ、証明できそうもありませんが、初めのうち、いわゆる天武系・百済(藤原氏)系が密なる関係だったことが明るみに出れば、少しは変だと思えるようになってくるのではないでしょうか。
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