翡翠関連として糸魚川一宮・天津神社にしておきます。
⊿安鶴宮跡-高松塚古墳-糸魚川一宮・天津神社
高松塚古墳→安鶴宮跡
Ⅰ302°44′39.49″ Ⅱ116°45′36.33″ Ⅲ1,025,619.054(m)
高松塚古墳→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ32°27′32.87″ Ⅱ213°39′42.98″ Ⅲ341,230.219(m)
安鶴宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ98°14′18.79″ Ⅱ285°40′23.08″Ⅲ1,078,814.743(m)
高松塚古墳での角度
360°-302°44′39.49″+32°27′32.87″=89°42′53.38”≒89.7148度
糸魚川一宮・天津神社での角度
285°40′23.08″-213°39′42.98″=72°00′40.10”≒72.0111度
安鶴宮跡での角度
116°45′36.33″-98°14′18.79″=18°31′17.54”≒18.5215度
これは、藤原宮跡でも良さそうです。
⊿安鶴宮跡-藤原宮跡-糸魚川一宮・天津神社
藤原宮跡→安鶴宮跡
Ⅰ302°32′03.49″ Ⅱ116°32′47.95″ Ⅲ1,023,317.351(m)
藤原宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ32°50′53.70″ Ⅱ214°03′03.33″ Ⅲ337,430.872(m)
安鶴宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ98°14′18.79″ Ⅱ285°40′23.08″Ⅲ1,078,814.743(m)
藤原宮跡での角度
360°-302°32′03.49″+32°50′53.70″=90°18′50.21”≒90.3139度
糸魚川一宮・天津神社での角度
285°40′23.08″-214°03′03.33″=71°37′19.75”≒71.6222度
安鶴宮跡での角度
116°32′47.95″-98°14′18.79″=18°18′29.16”≒18.3081度
西側のほうが安鶴宮跡にみえそうですが、グーグルアースではこちらでした。
安鶴宮跡-藤原宮跡・高松塚古墳-糸魚川一宮・天津神社という三角形は
高句麗-藤原京全体-翡翠の産地という並び方を意味しているはずです。
藤原宮跡~高松塚古墳の間にはすっぽり藤原京全体が包み込まれます。
高句麗からはそれほど翡翠製の勾玉はでてこないそうですが、この他にも翡翠の産地と高句麗が結び付けられている様子が出てきます。
ということは、天武系が高句麗と関連があるせいだろうと考えるわけです。
そして、この科学的な測量は天武系だけで可能だったわけはなく、百済系の協力が必要でした。
百済系には百済復活のために天武系の王権の力を必要とし、天武系は百済系の政治的・科学的能力が必要でした。お互いがお互いを必要としていました。
藤原宮・京はまさにその結実と想像します。
高松塚古墳
北緯34度27分44.34秒 東経135度48分22.33秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342744.34&l=1354822.33
糸魚川一宮・天津神社
北緯37度02分24.45秒 東経137度51分51.12秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=370224.45&l=1375151.12
藤原宮跡
北緯34度30分08.47秒 東経135度48分26.69秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.47&l=1354826.69
安鶴宮
北緯39度03分44.68秒 東経125度49分54.49秒
39°03'44.68"N 125°49'54.49"E
また、以前やったと思いますが、百済・武寧王陵(ムリョンワンヌン)-藤原宮跡-氣多大社も直角になります。
白村江の戦いで敗れた大海人皇子、豊璋は竹島を通り能登の気多大社辺りに流れ着いた、と考えています。
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6月9日
⊿安鶴宮跡-高松塚古墳-糸魚川一宮・天津神社
高松塚古墳→安鶴宮跡
Ⅰ302°44′39.49″ Ⅱ116°45′36.33″ Ⅲ1,025,619.054(m)
高松塚古墳→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ32°27′32.87″ Ⅱ213°39′42.98″ Ⅲ341,230.219(m)
安鶴宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ98°14′18.79″ Ⅱ285°40′23.08″Ⅲ1,078,814.743(m)
高松塚古墳での角度
360°-302°44′39.49″+32°27′32.87″=89°42′53.38”≒89.7148度
糸魚川一宮・天津神社での角度
285°40′23.08″-213°39′42.98″=72°00′40.10”≒72.0111度
安鶴宮跡での角度
116°45′36.33″-98°14′18.79″=18°31′17.54”≒18.5215度
これは、藤原宮跡でも良さそうです。
⊿安鶴宮跡-藤原宮跡-糸魚川一宮・天津神社
藤原宮跡→安鶴宮跡
Ⅰ302°32′03.49″ Ⅱ116°32′47.95″ Ⅲ1,023,317.351(m)
藤原宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ32°50′53.70″ Ⅱ214°03′03.33″ Ⅲ337,430.872(m)
安鶴宮跡→糸魚川一宮・天津神社
Ⅰ98°14′18.79″ Ⅱ285°40′23.08″Ⅲ1,078,814.743(m)
藤原宮跡での角度
360°-302°32′03.49″+32°50′53.70″=90°18′50.21”≒90.3139度
糸魚川一宮・天津神社での角度
285°40′23.08″-214°03′03.33″=71°37′19.75”≒71.6222度
安鶴宮跡での角度
116°32′47.95″-98°14′18.79″=18°18′29.16”≒18.3081度
西側のほうが安鶴宮跡にみえそうですが、グーグルアースではこちらでした。
安鶴宮跡-藤原宮跡・高松塚古墳-糸魚川一宮・天津神社という三角形は
高句麗-藤原京全体-翡翠の産地という並び方を意味しているはずです。
藤原宮跡~高松塚古墳の間にはすっぽり藤原京全体が包み込まれます。
高句麗からはそれほど翡翠製の勾玉はでてこないそうですが、この他にも翡翠の産地と高句麗が結び付けられている様子が出てきます。
ということは、天武系が高句麗と関連があるせいだろうと考えるわけです。
そして、この科学的な測量は天武系だけで可能だったわけはなく、百済系の協力が必要でした。
百済系には百済復活のために天武系の王権の力を必要とし、天武系は百済系の政治的・科学的能力が必要でした。お互いがお互いを必要としていました。
藤原宮・京はまさにその結実と想像します。
高松塚古墳
北緯34度27分44.34秒 東経135度48分22.33秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342744.34&l=1354822.33
糸魚川一宮・天津神社
北緯37度02分24.45秒 東経137度51分51.12秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=370224.45&l=1375151.12
藤原宮跡
北緯34度30分08.47秒 東経135度48分26.69秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.47&l=1354826.69
安鶴宮
北緯39度03分44.68秒 東経125度49分54.49秒
39°03'44.68"N 125°49'54.49"E
また、以前やったと思いますが、百済・武寧王陵(ムリョンワンヌン)-藤原宮跡-氣多大社も直角になります。
白村江の戦いで敗れた大海人皇子、豊璋は竹島を通り能登の気多大社辺りに流れ着いた、と考えています。
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6月9日