サイタニのブログからの転載です。この記事もおそらく竹田恒泰氏の著作から転記されたのであろうと思います。
GHQによって、日本が持っていた文化感覚、国のあり方として根っこの民族感覚による憲法や皇室典範が、踏みにじられて変えられたということは、日本の国をひとつの生命体と見た時に、ひどい傷を負わされたようなものだと思います。
この深い傷を癒すには、やはり元の日本人が本来持つ考え方に戻さなくては、まるで桜の花に、ランの花を接木して咲かせようとしているような、おかしな歪なものだと思います。ランの花は確かに美しくても、桜には桜の花を咲かせるべきなのです。
現行の日本国憲法には、国民主権を人類普遍の原理と書いてありますが、国民主権は本当に人類普遍の原理でしょうか。それぞれの国にはその国にふさわしい政体があるのではないでしょうか。
それぞれに民族には個性があるのであって、その個性に従って色々な政体がありますが、それらが調和した形で存在して国民が幸福であれば、それこそが真の民主主義だと思います。
そこに無理矢理アメリカ式の民主主義を人類普遍の原理として押し付けるほうが、よほど不幸だと思います。
現行憲法に出てくる国民主権というのは、最初私はよくわからなくて、選挙によって選ばれた国民の代表が、国会でいろんなことを決定するのが、そうかと思っていましたが、それだけではないようです。それなら明治時代に立憲君主制となりましたが、そこでも選挙が行われ、国会に当たる民撰議院ができて、選挙制度も、時代とともに、広く普通選挙が実施されるようになり、徐々に現代と同じような選挙制度に移行しつつあったのです。
ところが国民主権という言葉が登場したのは戦後の現行憲法になってからです。戦前は、では天皇主権だったのかといえば、そうではありません。主権が国民にとか天皇にとか、そういう概念はなかったのです。謂わば主権とは、国家そのものの中にある概念であって、国家の構成要素が持つものというような概念ではなかったのです。
この国民主権という考え方ができてから、生命体というような感覚で日本の国を捉えて、国家を自分の生命の外延のような感覚で捉えた日本人の国への一体感は失われ、国家はその時の政府を意味するようになり、主権者としての国民は国家を自分の福祉を行なう召使の感覚で、気に入らなければ訴える、或いは嫌悪したり、反発したりもするようになりました。国家と国民が敵対するという現象が多くなったのです。
また、日本の国を、日本民族の家族国家という感覚で、その中心におわして民族の神々や先祖をお祭りされる祭祀王としての天皇陛下を、民族の父親、家長という感覚で慕っていた国民が、主権者になったことは、国民が国家の主人であるということです。それは取りも直さず、天皇が国民の家来という事にほかなりません。しかも、天皇は現在は象徴という、まるで無生物的な符丁のような名前の地位に追いやられ、一般国民の持つ権利も無い、政治的無権限の状態にあります。
南出弁護士は、この地位は実質的には、口で言うのははばかられるのですが、一家に例えると、ペットと同じであるとおっしゃっています。主人の愛玩用に飼われているが、実質何の権限もなく、主人の気まぐれで、どうにでもされることが可能な地位なのです。
現に、日本国憲法には、天皇の地位は、主権の存する国民の総意に基づくと書いてあるのであり、もし国会で、天皇という地位を廃位することが決まれば簡単にそうなってしまうのです。これが国民主権です。
歴史ある民族の国家の憲法というものは、みなその歴史の中で培われてきた暗黙の国民の考え方、つまり不文憲法という、実際の憲法以前の民族の根っこの文化から来る考え方を基に、現実の憲法が作られているのです。そしてその不文憲法は、実際の憲法よりも上位の存在とされているのが、一般の世界の考え方です。
ところが日本の日本国憲法は、この不文憲法を全く無視した憲法です。アメリカ占領軍が日本弱体化を図って押しつけたのですから、当然です。
現在、皇室典範を女性宮家創設に変えるとかいう議論が出ていますが、本来皇室典範は憲法よりも上位にあって、皇室のものであり、国民が勝手に変えることはできませんでした。女性宮家は女系天皇への道を開くものであり、古来より続いた、万世一系(男系継承)の天皇を断絶させることであり、また民主党の天皇陛下をないがしろにするさまざまな言動も、主権者は国民であるという、そして国民の総意に基づく存在が天皇であるという意識から来ているものであり、極端な場合は、国会で廃位を決定したいというのが本音かも知れません。
これは、国民主権という考えが、現代という一時点の国民だけで、過去からのすべての国民の思いを無視して、未来の国民の運命をも勝手に握って、国家の運命、あり方を決定する権利を持つという傲慢な考え方なのです。これは、国家を民族的な生命体というような考えでは見ない感覚に基づくものです。国家は国民の福祉のための組合というような、即物的な利己主義的な考えからくるものです。
ルソーは『社会契約論』の中で、こうした現時点の国民によって、社会や国家が変革されるとことを認めた主張をしていますが、これに対して、エドモンド・バークは、『フランス革命についての省察』という名著の中で、社会がそうした契約によって、成り立つ多くの部分があることは認めていますが、しかし国家は違うと言っています。
「しかし国家は、こしょうやコーヒーやキャラコラやたばこの貿易や、その他このような低級な事業における、合同事業協定 (パートナーシップ)とかわりなく、小さな一時的利益のためにつくられ、当事者の気ままによって解消されるべきものと、みなされてはならない。それはち がった尊敬をもって、みられるべきである。なぜなら、それは、一時的でほろびゆく性質の粗野な動物的存在のみに役だつ、ものごとにおける合同事業ではない からである。」と。
つまり動物のように利己的な欲望で生きては、継承するものを残さずに滅んでゆく人間に奉仕するために国家があるのではないと言っているのです。人間は祖先から継承するものをもって未来へ受け渡してゆくのです。一時的に湧いた夏バエではないのです。民族の文化を継承し、それをいのちに変えても死守する誇りのなかにこそ、人間たる所以があるのです。
例えば、「嫁に行く」という言葉からその習慣をうかがい知ることが
例えば、サザエさんに出てくる磯野カツオは磯野家の人間である。
天皇は朝廷の主であるだけでなく、日本全体を一つの「家」としたときの
注:戦後のGHQの日本弱体化政策の大きな柱が、家族制度の破壊で
明治22(1889)年、『大日本帝国憲法』と同時に制定された、皇位継承・
法令である宮務法に分かれていた。