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万世一系の危機と国民主権

2011年12月14日 02時14分25秒 | 日本人と憲法

サイタニのブログからの転載です。この記事もおそらく竹田恒泰氏の著作から転記されたのであろうと思います。

GHQによって、日本が持っていた文化感覚、国のあり方として根っこの民族感覚による憲法や皇室典範が、踏みにじられて変えられたということは、日本の国をひとつの生命体と見た時に、ひどい傷を負わされたようなものだと思います。

この深い傷を癒すには、やはり元の日本人が本来持つ考え方に戻さなくては、まるで桜の花に、ランの花を接木して咲かせようとしているような、おかしな歪なものだと思います。ランの花は確かに美しくても、桜には桜の花を咲かせるべきなのです。

現行の日本国憲法には、国民主権を人類普遍の原理と書いてありますが、国民主権は本当に人類普遍の原理でしょうか。それぞれの国にはその国にふさわしい政体があるのではないでしょうか。

それぞれに民族には個性があるのであって、その個性に従って色々な政体がありますが、それらが調和した形で存在して国民が幸福であれば、それこそが真の民主主義だと思います。

そこに無理矢理アメリカ式の民主主義を人類普遍の原理として押し付けるほうが、よほど不幸だと思います。

現行憲法に出てくる国民主権というのは、最初私はよくわからなくて、選挙によって選ばれた国民の代表が、国会でいろんなことを決定するのが、そうかと思っていましたが、それだけではないようです。それなら明治時代に立憲君主制となりましたが、そこでも選挙が行われ、国会に当たる民撰議院ができて、選挙制度も、時代とともに、広く普通選挙が実施されるようになり、徐々に現代と同じような選挙制度に移行しつつあったのです。

ところが国民主権という言葉が登場したのは戦後の現行憲法になってからです。戦前は、では天皇主権だったのかといえば、そうではありません。主権が国民にとか天皇にとか、そういう概念はなかったのです。謂わば主権とは、国家そのものの中にある概念であって、国家の構成要素が持つものというような概念ではなかったのです。

この国民主権という考え方ができてから、生命体というような感覚で日本の国を捉えて、国家を自分の生命の外延のような感覚で捉えた日本人の国への一体感は失われ、国家はその時の政府を意味するようになり、主権者としての国民は国家を自分の福祉を行なう召使の感覚で、気に入らなければ訴える、或いは嫌悪したり、反発したりもするようになりました。国家と国民が敵対するという現象が多くなったのです。

また、日本の国を、日本民族の家族国家という感覚で、その中心におわして民族の神々や先祖をお祭りされる祭祀王としての天皇陛下を、民族の父親、家長という感覚で慕っていた国民が、主権者になったことは、国民が国家の主人であるということです。それは取りも直さず、天皇が国民の家来という事にほかなりません。しかも、天皇は現在は象徴という、まるで無生物的な符丁のような名前の地位に追いやられ、一般国民の持つ権利も無い、政治的無権限の状態にあります。

南出弁護士は、この地位は実質的には、口で言うのははばかられるのですが、一家に例えると、ペットと同じであるとおっしゃっています。主人の愛玩用に飼われているが、実質何の権限もなく、主人の気まぐれで、どうにでもされることが可能な地位なのです。

現に、日本国憲法には、天皇の地位は、主権の存する国民の総意に基づくと書いてあるのであり、もし国会で、天皇という地位を廃位することが決まれば簡単にそうなってしまうのです。これが国民主権です。

歴史ある民族の国家の憲法というものは、みなその歴史の中で培われてきた暗黙の国民の考え方、つまり不文憲法という、実際の憲法以前の民族の根っこの文化から来る考え方を基に、現実の憲法が作られているのです。そしてその不文憲法は、実際の憲法よりも上位の存在とされているのが、一般の世界の考え方です。

ところが日本の日本国憲法は、この不文憲法を全く無視した憲法です。アメリカ占領軍が日本弱体化を図って押しつけたのですから、当然です。

現在、皇室典範を女性宮家創設に変えるとかいう議論が出ていますが、本来皇室典範は憲法よりも上位にあって、皇室のものであり、国民が勝手に変えることはできませんでした。女性宮家は女系天皇への道を開くものであり、古来より続いた、万世一系(男系継承)の天皇を断絶させることであり、また民主党の天皇陛下をないがしろにするさまざまな言動も、主権者は国民であるという、そして国民の総意に基づく存在が天皇であるという意識から来ているものであり、極端な場合は、国会で廃位を決定したいというのが本音かも知れません。

これは、国民主権という考えが、現代という一時点の国民だけで、過去からのすべての国民の思いを無視して、未来の国民の運命をも勝手に握って、国家の運命、あり方を決定する権利を持つという傲慢な考え方なのです。これは、国家を民族的な生命体というような考えでは見ない感覚に基づくものです。国家は国民の福祉のための組合というような、即物的な利己主義的な考えからくるものです。

ルソーは『社会契約論』の中で、こうした現時点の国民によって、社会や国家が変革されるとことを認めた主張をしていますが、これに対して、エドモンド・バークは、『フランス革命についての省察』という名著の中で、社会がそうした契約によって、成り立つ多くの部分があることは認めていますが、しかし国家は違うと言っています。

「しかし国家は、こしょうやコーヒーやキャラコラやたばこの貿易や、その他このような低級な事業における、合同事業協定 (パートナーシップ)とかわりなく、小さな一時的利益のためにつくられ、当事者の気ままによって解消されるべきものと、みなされてはならない。それはち がった尊敬をもって、みられるべきである。なぜなら、それは、一時的でほろびゆく性質の粗野な動物的存在のみに役だつ、ものごとにおける合同事業ではない からである。」と。

つまり動物のように利己的な欲望で生きては、継承するものを残さずに滅んでゆく人間に奉仕するために国家があるのではないと言っているのです。人間は祖先から継承するものをもって未来へ受け渡してゆくのです。一時的に湧いた夏バエではないのです。民族の文化を継承し、それをいのちに変えても死守する誇りのなかにこそ、人間たる所以があるのです。




万世一系の危機
 
現代でも男系と女系を区別する習慣は、民間にも根強く残っている。
例えば、「嫁に行く」という言葉からその習慣をうかがい知ることが
できるだろう。通常、女子が結婚する場合、その女子は実家を出て結婚
相手の家に行くわけで、嫁に行けば苗字が変わり、墓も別になる。
 
 
これを反対に男子の方から見ると、「嫁をもらう」とされる。男子は嫁を
もらっても苗字は変わらない。変則的ではあるが、男子が家を出て、結婚
相手の女子の家に入るのであれば「婿に行く」、また相手方から見れば
「婿をもらう」と表現し、先ほどの「嫁に行く」、「嫁をもらう」とは
明確に区別されている。

また、孫を内孫と外孫で区別するのも、男系と女系を区別する習慣から
きている。息子が生んだ子は内孫であって、通常苗字は同じである。
一方、娘が生んだ子は外孫であって、内孫とは明確に区別され、苗字は
異なる。そして親族が一同に会するときは、外孫よりも内孫の方が
上座に座ることになる。

ただし、外孫であっても、いったん父方の家に行けば内孫として扱われる
ことに注目してほしい。内孫と外孫の区別は差別ではないのだ。
このような習慣は、自分がどこの家の人間であるのかを明らかにさせる
効果を生んでいる。もしこの考え方がなければ、両親の段階では父方と
母方の二家であるが・祖父の祖父の世代まで浄ば十六家にまで膨れ上がり
、自らがどこの家の人間なのか瞭にならざるを得ない。
 
 
そうなると、どこの家にも属していながら、結局、実質的にはどこの
家にも属していないことにもなる。
例えば、サザエさんに出てくる磯野カツオは磯野家の人間である。
.波平の姓が磯野であり・母.フネの姓が石田であるが、カツオが
どちらの家の人問かといえば、紛れもなく磯野家の人間である。
フネは石田家を出て磯野家に嫁いできたのであり、波平とフネの間に
生まれたカツオは当然に磯野家の人間となる。

このように男系と女系を区別して、「家」を強く意識するのは長く続いて
きた日本の伝統文化である。家には家の教えがあり、文化がある。一個の
人問が特定の家に属しているからこそ、家の一員としての自覚も生じる
ことになり、社会の中で責任が生じる。その中に家の主として「当主」
という概念が生じてくる。
 
 
そして家を継ぐ「当主」は男系によって世襲されていくことで、「家」
そのものを守っていく、これが日本の伝統的習慣である。
天皇は朝廷の主であるだけでなく、日本全体を一つの「家」としたときの
家長であると観念され続けてきた。そのため、皇位の継承にっいては、
他の家とは比較にならないほど神経質であり、厳格である。そして皇位は
皇祖以来現在に至るまで、ただ一つの例外もなく、男系継承の大原則を
貫き通してきた。





注:戦後のGHQの日本弱体化政策の大きな柱が、家族制度の破壊で
    あったのである。その後の日教組の反日教育等で、今は本籍も自由に
    変更できるようになり、氏、素性がわからなくなっており、就職、
    結婚等に影響が出始めているのである。



 
・参考資料「戦前(正しい)の皇室典範」
明治221889)年、『大日本帝国憲法』と同時に制定された、皇位継承・
摂政(せっしょう)設置・皇室会議・天皇及び皇族の身分等、皇室に関
する事項を規定した法律。「不磨の大典」と称された『大日本帝国憲法
』と共に、大日本帝国(戦前の日本)に於ける最高成文法とされ、国家
関する事項を規定した『大日本帝国憲法』・皇室に関する事項を規定
た『皇室典範』、と実質的に二つの最高法典が存在した事になる。
然(しか)し、『大日本帝国憲法』の冒頭に、『皇室典範』と
『大日本帝国憲法』制定に就いての告文(こうもん:天子が臣下に
告げる文)が認(したた)められており、その文中に於いて
『皇室典範』は『大日本帝国憲法』よりも上位に位置付けられている。

この様に、戦後の『皇室典範』が単なる一つの法律に過ぎないのに対して
、戦前の『皇室典範』は憲法と同格、若(も)しくはそれ以上の権威を
有する法典であった事から、皇室に関する事項に付いて、政府及び帝国
議会は一切関与する事が出来ず(皇室大権、皇室自律権)、多分に
皇室の「私法」としての性格を有していた。

尚、戦前に於いては、皇室に関する事項を規定した法典は『皇室典範』を
筆頭に、天皇の即位に関する儀礼・式次第を定めた『登極令
(とうきょくれい)』、天皇及び皇族の身分に関する事項の登録を
定めた『皇統譜令(こうとうふれい)』、その他、『皇室祭祀令
(さいしれい)』・『皇室親族令』・『皇室財産令』・『皇室儀制令』
・『皇族身位令』・『皇室裁判令』等、皇室の事務に関する

法令である宮務法に分かれていた。


プリンス・オブ・ウェールズ・・・・ 日本を戦争に巻き込む共同謀議が行われたであろう戦艦

2011年12月11日 21時29分43秒 | 歴史

日本核武装講座からの転載です。ルーズベルトは国内では国民を戦争に参加させないことを約束し、その裏で、イギリスのチャーチルとはヨーロッパ戦線に参加することを約束していたのは、歴史の事実です。ルーズベルトは対独戦への参戦をするために、最初はドイツを挑発して、ドイツの潜水艦を見つけ次第撃沈するように命令して、ドイツがアメリカの戦艦を攻撃するように仕向けましたが、ドイツが挑発に乗らなかったので、ドイツと同盟を結んでいた日本を戦争へと追い込むことに陰謀をめぐらし、ついにハル・ノートで、日本の挑発に成功しました。

 アメリカは戦争には勝ったが、東ヨーロッパはソ連の鉄のカーテンに 閉ざされた。満洲とシナから日本軍を駆逐したが、そのかわりに 全域が共産中国の支配下となった。すぐに米ソ間の冷たい
  戦争が始まった。
  
     かつてヒトラーが征服を夢みた地域よりもはるかに広大な地
    域に、全体主義的な専制政治を台頭させる結果となった
    

   とウェデマイヤー大将は総括する。これは結果論ではない。当
  時、米国世論の大勢を占めていた反戦派は次のような主張をして
  いた。
  
     それ(アメリカの参戦)は、われわれがスターリンのために
    ロシアの共産党支配を確立させ、共産主義が世界中にさらに広
    がる機会を与えてやることになる(フーバー元大統領)                              「国際派日本人養成講座より」
 
転載開始

イメージ 1
 
プリンス・オブ・ウェールズはとても美味しい紅茶・・・・・・
ではなくて、当然、戦艦のお話です。でも実はルーズベルトのお話です。
 
戦艦プリンス・オブ・ウェールズはキングジョージ5世級の戦艦の二番艦として建造されました。完成は1941年3月31日です。
約4万トンの戦艦で、36センチ砲を10門積んで、28ノットで走る事が出来ました。
36センチ砲は口径では見劣りしますが、長砲身であり弾速が速いので貫通力があり、38センチ砲に匹敵すると言われていました。チャーチルはこの戦艦が特にお気に入りで「世界最強」を自称していました。
しかし、あまり武運に恵まれず、ドイツ戦艦ビスマルクと撃ちあって損傷し、1941年12月10日には日本海軍機との戦闘でマレー沖に沈んでしまいます。
チャーチルは「あの船が・・・あの船が・・・」と言って絶句したそうです。
 
イメージ 2
 
このマレー沖海戦が航空機対戦艦の優劣論争に決着を着けたといわれています。
 
昨日はマレー沖海戦70周年でしたが、それは他のブログに譲る事にいたしまして、チャーチルがこの船でルーズベルトと会談をした事を書きたいと思います。
1941年8月、カナダ。ニューファウンドランド沖でルーズベルトとチャーチルは会談します。
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは若いころから日系移民を憎み、いつか日本を叩き潰してやろうと考えていた人種差別主義者(レイシスト)でした。ルーズベルトの母方の実家は支那でのアヘン貿易で大儲けしましたから、支那人大好きだったのです。
その戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上にて、ルーズベルトは「戦争が終わったら私は日本を永久に武装解除する」と言っています。
1941年8月といえば、いまだ日米は戦争状態ではなく、最後通牒と日本側が受け取ったハルノートも登場してはいません。(ハルノートは同年11月)
ルーズベルトは日本との戦争を欲していた事は明らかです。
恐らくはこの艦上において、日本を戦争に引き込む共同謀議の一部もなされていたと考える方が当然かもしれません。
開戦劈頭にこの船が撃沈されたのは、神の怒りに因るものかも知れません。
 
 
この時の会談の結果大西洋憲章なるものが発表されますが、それは連合軍側の世界構想を述べたものです。
  1. 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
  2. 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
  3. 政府形態を選択する人民の権利
  4. 自由貿易の拡大
  5. 経済協力の発展
  6. 恐怖と缺乏からの自由の必要性
  7. 航海の自由の必要性
  8. 一般的安全保障のための仕組みの必要性
この憲章ではルーズベルトもチャーチルも「これは白人種にだけ適用される」と解釈していたのです。
イギリスも自国のアジアにある植民地を手放す気など全く無かったわけですね。
でも、チャーチルはルーズベルトに対してはまだまだマシなほうでした。
ルーズベルトは1942年春にソ連のモロトフ外相との会談で「戦後世界はアメリカ・ソ連・イギリ ス・支那の4大国が共同統治する」と言っています。それを「4人の警察官」と称しているのです。モロトフが「日本をどうするのか」と聞くと、「永久に軍備 を持てない国にする」と言っています。
1943年1月のカサブランカ会談では、「ドイツと日本には無条件降伏を要求する」と発言しています。
チャーチルは「それでは戦争はタルタン人の時代まで戻ってしまう」と反論します。
チンギスハーンの蒙古と同じになるというのです。チャーチルは「我々文明人は講和条約を結んで戦 争を終わらせる。何時停戦するか、もう少し相手を叩いてから有利な条件で条約を結ぶか、といった駆け引きはあるにしても、相手を根絶やしにするような戦争 は行わないというのがウエストファリア条約以来の暗黙の合意だ。いきなり無条件降伏を要求するなんてとんでもない」と反論しますが、結局押し切られます。
悪の権化のようなスターリンですら「ヒットラーに跪けと要求するような戦争はすべきでない。ヒットラーだって何れは去っていくがドイツ人は残る。そのドイツ人と我々スラブ民族の付き合いは未来永劫続いていくのだから」といって批判しました。
事実、ヒットラーのドイツ軍はカサブランカ会談以後、見違えるように強くなります。
ドイツは条件闘争をしていたつもりだったのですが、無条件降伏を持ち出されては名誉のある死か奴隷かの選択肢しか無くなったのですから当然でしょう。
ヒトラーを暗殺して、条件を下げて講和しようという勢力(事実、ヒットラー暗殺事件を起こします)も絶望してドイツ国軍は文字通り「死兵」と化したのです。
本当なら1943年の秋には戦争が終わる筈だったのに1945年5月まで長引いたのは、ルーズベルトが無条件降伏を言いだしたからだという説を唱える歴史家もいるほどです。
1943年秋以降に戦死した人の遺族はルーズベルトを恨むべきだという説もあります。
ルーズベルトとはこのように偏った人種意識と歴史観をもっていた人物であったのです。
 
ルーズベルトは以下のような頓珍漢な発言でも知られています。
 
スターリンはアメリカの援助に感謝するに違いない。ソ連はいずれ自由と民主主義を尊ぶ国になるだろう。
(元駐ソ駐仏大使 ウィリアム・ブリットの証言)
 
日本を殲滅するのが優先だ。将来は(共産主義の南下を食い止める役目という意味で)蒋介石の中華民国が日本の隙間を埋めるだろう。
 
(蒋介石の支那は自由と民主主義から最も遠い国だが)彼らを入れないとこの戦争が人種間戦争だと思われる恐れがあるからだ。
(クリストファー・ソーン 太平洋戦争における人種問題より)
 
この上の3つは何れも外れていますね。
 
 
「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
2011.12.7 22:41 (1/2ページ)歴史問題・昭和史
 
【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874~1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾 を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882~1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。
 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に 引きずり込もうとした-などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは 初めて。
 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。
その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘 。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。
 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。
 
 
フーバー大統領は北清事変を経験しています。
そこで見た支那人の残虐さに大いにショックを受けたと回想していますから、支那人がどういうものであるかを肌で知っていたのです。
支那人を正しく理解していた歴史上たった一人のアメリカ大統領だったと言って良いでしょう。
 
ルーズベルト大統領はアメリカ国民に「攻撃を加えられた場合を除いて」外地での戦争に息子達を送 りはしないと繰り返し保証していました。ところが、彼は同時にチャーチル首相に何とかして我々の国を持ち込もうと約束していた。彼は首相に「私は決して宣 戦はしない。私は戦争を作るのだ」と語っているのです。
ルーズベルトは日本を挑発して第二次大戦に参戦しようとしたのです。
そしてそれは成功しました。
 
転載終わり
 
 
 
 

 

閑話休題、 ある教授の歴史講義

2011年12月11日 01時38分58秒 | 歴史

30年くらい前の古い雑誌に、かつて拓大で水戸学の講義をしたという人が思い出を書いていました。その中に、水戸光圀に関しての講義のことを述べてあったので、面白かったので引用します。

引用開始

 

父の初代藩主、徳川頼房は、奥向きに仕える老女の娘に通じて妊娠させた。この娘を谷久子という。この谷久子こそは光圀の母、後の久昌院である。久子の母、水戸奥向きの老女は、娘の腹がふくれたのを怒って、いくらなだめても頼房公の側室にすることを承知しない。頼房も老女の頑固さには困り抜いて、久子の兄谷平右衛門に向かって久子を頼房の召使として奉公させよと命じたが、これもなかなか承知しない。やむなく、頼房は一生涯正妻を迎えないという誓を立てて、やっと承知させた。それほど久子を愛していたのである。

ところで頼房には側室は他に何人かいた。そのうち藤原弥々女が一番尊く、佐々木お勝が一番権力が強かった。このお勝の方は、頼房が他の女に懐妊させると、必ず殿さまに迫って堕胎させたという。恐ろしく嫉妬強い女で、早くも久子が身重になったことに感づき、殿さまに迫って堕胎させることにした。

先ず水戸藩の重臣・三木仁兵衛夫妻に久子をあずけ、その三木の家で「水にせよ」という命令が下った。生まれる子供を水にせよ、つまり無いものにしてしまえ、というのである。いまでも堕胎された赤ちゃんのことを「みず子」という。その霊をなぐさめることを、みず子供養という。生命尊重しなかった人々はその罪の意識に堪えかねて、このみず子供養に泣く泣くお参りするわけだ。大学生ともなれば、それくらいのことは心得ておるべきである。

ところが三木仁兵衛夫妻は、いろいろ悩んだすえ、江戸麹町の家でひそかに久子に子供を生ませた。殿さまの御子を水にするのは、なんとしても、もったいなくて、できなかったのである。これは生命尊重でなくて、殿さまへの忠義の一念でその種をも尊重したのである。

嘉永五年といえば西暦1628年であるが、この年の六月十日に、男の子が生れた。幼名を長丸とつけた。これが後の義公・水戸光圀公である。まことに危いことであった。このとき水にされていたら、と思ってみるがよい。契沖をして不朽の大著『万葉代匠記』を書かせる人は、光圀以外に当時日本にいたとは、とても思えない。政治というものの基礎に道義を据えるという為政者のあの比類なく高い格調も見られなかったであろう。それよりも、皇室を日本の中心として尊ぶという思想の展開も、あの時代には一部の埋もれた学者以外には成立すべくもなかっただろう。むろん、『大日本史』の編纂という修史の大業は開始されなかったであろう。もし、そうであれば、後代における維新回天の大業は、どうなっていたか。それを、とことんまで考えるのが歴史の感覚(センス)というものであるぞ。

歴史は常に断崖絶壁を行くものである。一歩ふみはずせば墜落して背骨を折るか、いのちを失うかである。だから、もしあのとき左せず右していたらどうなっていたか、と果てしもなく考えるのが歴史に対面する者の正しい姿勢である。歴史のなかで、「もし」という問を常に発したのは、私の知るかぎり徳富蘇峰の『近世日本国民史』だけである。

この頃、諸君が学校で覚えた習性は、この「もし」がなく、なにごとも、そうなるべくしてなった、というのじゃないか。結果から推して、こうなったのは当然だという、蛙に小便ひっかけたように何ともない顔をすることらしい。じつにふざけた考えである。敗戦という結果がある。この結果を招いたのは、日本が無謀な戦争をしたからだなどという。無謀ということは、敗戦という結果から押して言うことである。こうして、こうすりゃ、戦は敗けと、知りつつ、こうして、こうなった、というのだろうか。ふざけるなと言いたい。

世には妙な歴史家がいて、こうなることは必然だったなどという。その必然を無視して、すること為すこと全て悪い事ばかりだったという。まるで東京裁判の連合軍判事みたいな頭だ。彼らは思わくあってのことだが、そのまねをする日本人のは阿呆の寝言である。

よろしいか。光圀が水にされなかったのは、必然ではないぞ。危機一髪なんだぞ。これをよく思え。

しかし、このことを全身で感ずることができるためには、光圀がどんなことをしたか、どうして自己を形成したかを知らねばならない。この人の偉大さを知らないでは、危機一髪というのも口先だけになる。

こんな調子は、むかしの高校あたりでやることかと思う者もあるらしいが、事実はそうではない。むかしも今も、手に汗にぎる歴史は一ぺんも学んだことがないわけだ。少し言いすぎかも知れないが、これが本筋だから承認しないわけにはいかない。

ここで側室というのが、大名にはたくさんいたことを知った。これは今では通用しない封建的悪習である。

しかし、その然る理由は勉強しないとわからない。またこの悪習が今も残っている理由も勉強しないとわからない。キリスト教がくるまで一夫多妻は当然のことだったのか。じつに、わからないことだらけだ。ああ、わからない。われに長寿を与えよ、われに勉強の時を与えよ。一刻を惜しんで、勉強せしめよ。麻雀で夜更かしする暇などあってたまるか。

以上がざっと、わが水戸学講座の二回分だった。みず子のこと、妾制度のこと、危機一髪のこと。これが思わざる主題となった。しっかりした母の娘、がっちりした兄の妹、これが久子の方、久昌院だ。このような生命力の旺(さかん)な腹がないと、すばらしい種は育たない。京都の御公卿さんの娘ただ一人ということになると、三代目でダメになる。それを防ぐのが元来の優生保護という概念で、封建時代の優生保護は、じつに妾制度だった。殿さまが百姓に子供を生ませて血統の中に生命力を回復させた。これが徳富蘇峰翁の御意見だった。

 


【拡散希望】財務省OB(駐クロアチア特命全権大使)のセクハラ

2011年12月10日 21時59分38秒 | 現代日本

吉田明彦のところからの再転載です。元記事はMY日本のメンバーということです。国を背負って赴任した筈の人が、実際には、国を背負っていないから、国の恥になる行為も平気でするのでしょう。そしてそれを外務省の省益を慮って、ひた隠すのも、国益など考えてないからでしょう。恥を上塗りする行為、これがどれほど、真の親日国を失うことになるか。一体彼らは誰のために働いているのか。国のために働く気がないなら、官僚を辞めてほしいです。

 

【拡散希望】財務省OBのセクハラ

許せない!と思う方、抗議と拡散にご協力をお願いします。

(転載ここから)
怒!【拡散希望】財務省OBのセクハラ

あまりのことに怒りで震えています。

週刊ポストの記事(ほぼ全文を引用させて頂きました)
駐クロアチア大使 現地女性大使館職員へのセクハラ疑惑発覚 
http://www.news-postseven.com/ archives/20111205_73799.html

まさに「国辱行為」である。日本国民を代表し、相手国の元首に対 して派遣される特命全権大使のセクハラという蛮行が発覚した。し かも、外務省は事実を把握しながら、財務省の天下り大使だから“ 遠慮”して不問に付した。「国益よりも省益」という言葉では到底 言い表わせない前代未聞の事態である。
バルカン半島の小国・クロアチアは、古くからの親日国として知られる。 日本大使館は首都ザグレブの中心地にある。4階建てルネッサンス様式の歴史ある建物だ。東日本大震災の直後、クロアチアの官公庁が集まる日本大使館周辺では政権交代を求める5000人規模のデモが行なわれていた。そのデモ隊が大使館の前を通りかかった時である。彼らは一斉に足を止め、手に持っていたろうそくに灯をともし、震災で亡くなった日本人のために黙祷を捧げた。
日本の特命全権大使の中でも2人しかいない事務次官経験者という大物だ。その人物に現地採用したクロアチア人女性へのセクハラ疑惑が発覚した。ことは大使個人の問題では済まされない。重大な外交問題に発展しかねないと憂慮されているのである。 実は外務省はその事実を把握しながら、ひた隠しにしているという情報を本誌は掴んだ。「大使のセクハラ」は大使館内で問題化し、外務省は現地に査 察官を派遣して調査を行なっている。その報告書は佐々江賢一郎・外務省事務次官や木寺昌人・官房長らに提出されたといい、外務省局長クラスにも回覧されて いる。
外務省幹部の一人がこう明かした。 「クロアチアは決して豊かな国とはいえないが、国民は東日本大震災で1億円もの義援金を募って被災地に送ってくれた。田村大使はそのお礼をしなければならない立場だ。だが、不行跡が相手国の政府にも伝わっており、いい印象は持たれていないと聞いている」
本誌はザグレブで現地取材を行ない、大使館関係者や在留邦人の証言を得ることができた。 被害を受けたのは昨春から大使館の事務職員として勤務する20代のクロアチア人女性のクララさん(仮名)。<中略> だが、彼女は半年間、大使のセクハラに対して泣き寝入りを続けるしかなかった。大使館の職を辞めるわけにはいかない家庭の事情を抱えていたからだ。父親が失業中であり、兄弟を含む家族の生活がかかっていたのだという。 車内には運転手もいる。大使の強引なキスを目撃し、すぐに職員の間にウワサが広がった。
彼女は現地職員たちに打ち明けたという。 「こんなことが近所に知られれば、いまの家にも住めなくなる」 我慢すべきじゃないという同僚たちに、彼女はそうクビを振った。クロアチアでは居住地域の連帯意識が強い。職を失うことが怖いだけでなく、セクハラ行為をされたことで、自分の家族の評判も落とすことになると心配したのだ。 彼女が家庭の事情でことを荒立てようとしなかったために、大使は味をしめたのかもしれない。弱みに付け込んだ卑劣な行ないというほかない。 ※週刊ポスト2011年12月16日号

田村義雄 東大法学部出身 1971年に大蔵省に入省。
財務省関税局長 環境省に移籍 官房長 事務次官 2008年に退官 2009年から現職(クロアチア特命全権大使)

これは民主党政権云々とか言う前に人間として許せません。そしてそのことを組織ぐるみで隠蔽している官僚機構も許せません!
なんでこんな非道をゆるしておけるのか!親日国ですよ!
GDPが5,000億円程度しかないのに1億円寄付してくださった国ですよ!
なんの落ち度もなくまじめに働いていた女性に、立場を利用してセクハラ。 これが事務次官まで勤め上げた人間のすることか!
日本人として大変恥ずかしい振る舞いです。 立場を考えればオリンピック選手の比ではない
しかも、腐った民主党政権を守るためにマスコミは必死で隠している! 一人の人間としてもとても許せるものではありません。
皆さんで外務省、財務省、環境省に抗議してください!この愚か者を更迭するようにしましょう!

また国会に取り上げてもらうよう自由民主党等に依頼してください。お知り合いに議員さんが居らっしゃれば直接お願いしてください。
どうかよろしくお願いします。

・自由民主党 ご意見募集 https://ssl.jimin.jp/m/contact 代表電話番号 03-3581-6211
・外務省 ご意見募集 http://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/index.html 代表電話:03-3580-3311
・財務省 ご意見募集 https://www2.mof.go.jp/enquete/ja/index.php 代表電話番号03-3581-4111
・環境省 ご意見募集 https://www.env.go.jp/moemail/ 代表電話番号03-6705-6144
参考クロアチア大使館 http://www.hr.emb-japan.go.jp/INDEX_J.HTM

~~~~~ 転載ここまで ~~~~~

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転載元 転載元: 吉田明彦



 


日本の和平努力・戦争回避を潰して自殺せよと開戦させたハル・ノート・日米開戦70年

2011年12月09日 23時29分07秒 | 歴史

昨日は日米開戦、真珠湾攻撃の日でした。これについて、近野滋之・民族主義者の警鐘に記事が載っていたので転載します。とてもわかりやすい、真実の経緯がかいてあります。日本がまるで軍国主義で突っ走って戦争に突入していったかのように、戦後の歴史では教えられますが、実際には、日本はなんとか戦争を避けようとして、避けられずに、開戦しても勝てないかも知れない、開戦しなくても滅亡は避けられないという、ほんとに窮地に追い込まれた状態だったのです。記事の下方にある、証言の数々、たとえば英国軍需生産省オリバーリットルトン の

「米国が戦争に追い込まれたというのは歴史の改作狂劇である。米国が、日本をして次のごとき限界まで追い込んだからだ。すなわち日本人は真珠湾において、攻撃するのを余儀なくされるまでアメリカに強圧されたのである」

などを読めば、教えられた歴史が、真実とは違うものだというのがよくわかります。


転載開始

 

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(本人ブログよりおねがいします)

 

良識ある日本国民の皆様には、12月8日の大東亜戦争開戦記念日はご存知だと考えます。

昭和初期、米国はフィリピンを、英国はインド・ビルマ・マレー半島を、フランスはインドシナを、オランダはインドネシアを植民地支配して、アジアが白色帝国主義諸国により支配される中、唯一の独立国は「日本」だけでした。

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※ 枢軸国のタイ王国を独立国と考えるかは、二重外交や戦後処理問題など、
個々のご判断にお任せ致します。 ※ 大東亜戦争の期間は、靖国神社では12月8日前の「支那事変」と
「大東亜戦争」と分けて英霊を祀っています。

 

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昭和16年12月8日、午前1時30分(日本時間)、日本は英領のマレー半島に侵攻、日本による奇襲攻撃とされたハワイ真珠湾攻撃は、午前3時19分(ハワイ時間7日7時49分)からです。

米国は真珠湾攻撃より1時10分前の6時40分、アメリカ領海で日本海軍の潜水艦を米国駆逐艦ウォード(ワード)号が攻撃して撃沈、これは「米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75」(1945年6月7日)にも記されています。

シーボルト米国少将

アメリカの駆逐艦ウォード号は、奇襲以前に日本の特殊潜航艇を撃墜している。根拠はルーズベルト大統領の、「すでに日本との外交交渉は終わった。これからは諸君の手で解決されなければならない」という通告に基づいて。
「真珠湾の審判」より

 

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米国駆逐艦ウォード(ワード)号

 

米国のルーズベルト大統領は不戦を公約に掲げていたので、日本から攻撃をさせるように工作、日本の戦争回避を潰すために、フライング・タイガースによる日本軍への攻撃計画・ABCD包囲網による日本の資源断ちをしました。

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日米交渉で和平努力をしていた日本は、昭和16年11月26日、米国側当事者、コーデル・ハル国務長官から日本側に提示された交渉文書「ハル・ノート」により和平を断念、12月8日、日本は独立国としの自存自衛、アジア解放のために開戦をしました。

1941年4月、日米交渉開始
7月、米国が在米日本資産を凍結
8月、米国が対日石油輸出を全面禁止
9月、日本は帝国国策遂行要領
10月、東條英機内閣発足、「帝国国策遂行要領」を白紙に和平努力
11月、米国がハル・ノート提示 
12月8日、真珠湾攻撃・マレー半島侵攻、日本政府による対米英宣戦布告

 

アメリカ陸軍スチムソン長官の日記

「ハワイで我々を攻撃したことで、今やジャップは問題の全てを解決してくれた。これで全米国民が危機感を覚え、一致団結の機運が生まれた。」

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ハル・ノート


62、激怒、安堵、絶望、喝采のハル・ノート

二十七日、ハル・ノートに接した我が国政府軍部首脳は直ちに
連絡会議を開いたが、出席者全員がアメリカ政府の強硬な態度に
衝撃を受け、落胆し、和平交渉の前途に絶望した。
東京裁判において東郷は、「ハル・ノートは日本に、
支那・仏印からの撤兵を要求していた。
さらに三国同盟を死文化する条項も含んでおり、
日本が之を受諾すれば、三国同盟を日本から破棄する事になり、
国際信義の問題となる。 この問題を除外しても、日本がハル・ノートを受諾して撤兵し、
警察官までも即時引揚げる事になれば、
中・南支でも日本がそれまでした事はすべて水泡に帰し、
日本の企業は全部遂行できない事になる。
また、南京政府に対する日本の信義は地に墜ち、
地方での排日・侮日感情は強くなり、
日本人はこの地方から退去しなければならなくなる。 さらにハル・ノートは満洲方面についても同じ事を要求しており、
従って日本は満洲からも引揚げなければならなくなり、
その政治的影響は自ずから朝鮮にも及び、
日本は朝鮮からも引揚げなくてはならない事になる。
換言すれば、日本の対外情勢は満洲事変前の状況よりも悪くなり、
ハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態になるような要求である。 これがすなわち東亜における大国としての日本の自殺である。
ハル・ノートは日本に対し全面的屈服か戦争か、
を迫るものと解釈された。もしハル・ノートを受諾すれば、
日本は東亜における大国の地位を保持できなくなるのみならず、
三流国以下に転落してしまうのが、
ハル・ノートを知る者全員の一致した意見であった。 従って、日本は自衛上戦争する外ないとの意見に一致した」と証言し、
さらに東條は、キーナン検察官から
「証人はハル・ノートを見た事があるか」と質問された際、
「これはもう一生涯忘れません」と、
ハル・ノートの内容を知った時の驚き、失望、怒りを一言の下に表した。
【国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の
天才と謀略の天才の戦い60~66東條内閣の和平努力】より一部抜粋

 

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大東亜戦争への道

東郷茂徳は東京裁判の口述書でその時の我方の反応を
「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だったと思う。
米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、
最後通牒を突きつけてきたのだ。我々は、
米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた。
蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に
全面降伏することを要求するものであることは我々に明らかであり、
米側にも明らかであったに違いないからだ。 日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、
極東の大国たる国際的地位を棄てることを求められたのである。
これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、
自らを護る唯一の残された道は戦争であった」と述べている。 これは軍部の見解ではなく、
文官たる外務大臣の意見であることに注意すべきである。
無論、東條首相の宣誓供述書も殆どこれと同趣旨である。
即ち連絡会議の結論は(1)ハルノートは明らかに最後通牒であり
(2)米国は我国が受諾できない事を知りつつ、
しかも関係国との緊密な了解の上に通知してきて居り
(3)米側はすでに対日戦争を決意しているが如くである。
中村粲「大東亜戦争への道」より一部抜粋

 

英国軍需生産省オリバーリットルトン

「米国が戦争に追い込まれたというのは歴史の改作狂劇である。米国が、日本をして次のごとき限界まで追い込んだからだ。すなわち日本人は真珠湾において、攻撃するのを余儀なくされるまでアメリカに強圧されたのである」
1944年6月20日、ロンドンの米国商業会議より

 

キンメル米国大将

「アメリカ政府が日本の野村大使に手交した対日通告は、以後の日米交渉の可能性に事実上の終止符を打ったものであり、したがって太平洋戦争を避けえられないものにしてしまった」
「真珠湾の審判」より

 

マーシャル米国大将

「ア メリカ側からさきに攻撃を開始すれば国論は分裂の恐れがあったから、外交の手続き上で、日本をして先に手出しを出させる必要があった。それではどう云う手 を打つべきかについては、ハルが大統領のために準備すべきであると決定された」(ハルノート手交前日の戦争諮問委員会に出席。他のメンバーはルーズベル ト、ハル、ノックス、スチムソン、スターク)
1946年4月9日査問委員会より

 

http://img4.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/832405/img_832405_35938890_8?20111209113725

 

凛として愛(5/7)(動画)http://youtu.be/kTP3t4cdL3Q

「大東亜戦争開戦の真実」4-1(H18.12.6)(動画)http://youtu.be/hzmfniVeZpw

アメノウズメ塾中級編⑧ 原子爆弾、第二次世界大戦は何の為?(動画)http://youtu.be/R88OxZYpQMM

http://img4.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/832405/img_832405_35938890_9?20111209113725

 

大東亜戦争終結後の日本は、本当の侵略者である戦勝国、反日勢力が捏造した歴史を洗脳されていますが、私たち日本人の祖先が戦った「大東亜戦争」は決して侵略戦争ではなく、日本の自存自衛、白色帝国主義諸国よりのアジア解放の聖戦です。

日米開戦から70年ですが、歴史とは勝者が作るものであっても勝者が正義とは限らないのであり、日本の和平努力・戦争回避を潰して日本に自殺を求めたのは連合国でした。

良識ある日本国民の皆様、日本の自存自衛とアジア解放の大東亜戦争についてご考慮下さい。

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転載元 転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘