韓国の日本大使館の前に従軍慰安婦記念碑とかいう少女の像が置かれたそうです。
従軍慰安婦というのは、最近では、捏造であったことがもうしっかりと論証されています。それなのに、韓国がこうして何度も繰り返して問題にするのは、自民党政権時代に、河野談話、村山談話などで日本政府が正式に認めて謝罪しているからです。
河野談話ではその前に調査団が行って、調べて証拠が見つからなかったにもかかわらず、河野洋平がその場しのぎのようないい加減な談話で韓国をなだめるようなやり方をしたから、それがずっと韓国に利用されるようになったのです。
日本は事実でなくてもとりあえず謝れば、その場が収まり、友好が傷つかないと思い込んで、謝ればいいという姿勢が外交にまで及んでいます。これは、日本人同士ならば、謝ればそれで水に流して、未来への道がひらけますが、外国人相手の外交では、通用しません。
謝ることは悪かったと認めることであり、それは相手に外交カードを渡すことになるのです。本当に悪かったのなら謝るのもいいでしょうが、確たる証拠もない状態で、一応謝って相手政府との暗黙の取引などがあったのかも知れませんが、認めたことは、ずっと残って、韓国国民は日本を恨み続けます。
日本政府は、河野談話、村山談話を取り消す談話をしなくては、これを断ち切ることはできないでしょう。
ところで、この従軍慰安婦の捏造は日本人によるものです。日本人の中には、日本の国を貶め、解体したくてたまらない人がいるようです。
国際派日本人養成講座からの転載です。
■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■
米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦からの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。
女性たちはブローカー(および経営主)が、300~1000円の前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還している。経営者との収入配分比率は40~60%、女性たちの稼ぎは月に1000~2000円、兵士の月給は15日~25円。[1,p270]
慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、・・・・寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された[1,p275]
また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポートを裏付けている。
支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。
将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像をみに行った・・・・ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母の無事を祈って帰ってきた。[1,p276]
ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在の貨幣価値なら、4~5千万円程度の金額を、3年足らずで貯めたことになる。[2,p301]
「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery(軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひたすら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。しかし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されている。一体、どちらが真実に近いのか?
■2.慰安婦問題の経緯■
まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。
1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」の中で、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌年にかけ、4回にわたり、報道。
2) 同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、と報道。
3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。
4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあった」と発表。
この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機として、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記述されることになっていった。
今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけの事実に基づいていたのかが明らかになってきた。以下、この4点を検証する。
■3.吉田清治の慰安婦狩り■
まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写している。
若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。
当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開業させていた。戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などは、軍の関与が当然あった。これらは当時、合法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。
「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、軍が組織的に行ったか、どうか」の問題なのである。したがって、吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家的犯罪となる。
■4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物■
吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だが、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、以下のような記事を書いている。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮したという。[1,p232]
この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつりと起用をやめた。今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。
■5.名乗り出た慰安婦■
次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が」名乗り出たと報じた。
しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。ある韓国紙はそれを次のように報じた。[2,p291]
生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付 当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。国家による組織的な強制連行とは関係ない。
そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定されたもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在していない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。
さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかった。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員ではなく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であると読者に思い込ませるための造語である。
金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であり、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内容はよく知っていたはずである。
金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊として連行された」というこの記事は槙村記者による、意図的な捏造記事である。その後の訂正記事も出していない。
■6.強制連行された慰安婦はいたか?■
韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を出版した。
今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。残る二人が、金学順さんと、冒頭の4~5千万円相当の貯金をしたという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行されたとは述べていない。
結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、というのが実態である。[2,p275]
■7.軍の関与とは■
次に宮沢首相の訪韓直前に発表され、公式謝罪に追い込んだ3)の「慰安所、軍関与示す資料」の朝日新聞記事はどうか。
発見された文書とは昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」であり、その中では、
民間業者が慰安婦を募集する際、①軍部諒解の名儀を悪用、②従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、③誘拐に類する方法を使って警察に取調べられるなどの問題が多発しているので、業者の選定をしっかりし、地方憲兵警察と連繋を密にせよ[2,p267]
と命じている。すなわち「関与」とは、民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察と協カしてやめさせようとした事なのである。
この内容を「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」とタイトルをつけて、一面トップで報道し、さらに次のような解説を載せた。
従軍慰安婦。1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる。
これらをあわせ読めば、ほとんどの読者は、「日本軍が組織的に強制連行に関与した」と思い込むであろう。まことに巧妙なひっかけ記事である。
この記事が、狙い済ましたように、宮沢首相訪韓のわずか5日前に発表されたことから、絶大な効果を発揮した。ソウル市内では抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれる中で、宮沢首相は事実を確認する余裕もなく、8回も盧泰愚大統領に謝罪を繰り返した。(続く)
■ 参考 ■
1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6 2.
「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9 3.
「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2 4.
「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える 若手議員の会編、展転社、H9.12.23 5.
「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、 祖国と青年、H8.12 6.
産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面