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男系継承を守るための不文律、厳しく守ることで2000年続いてきた万世一系

2011年12月21日 15時34分57秒 | 歴史

前回サイタニのブログから転載した

女性宮家反対、女系天皇は万世一系の国体を破壊する、二度と元に戻らない

の続きです。日本の歴史の中で、これほど厳重に守られ続いてきた天皇の万世一系の男系継承の伝統、もし今この伝統を現代のわれわれが破ってしまうならば、この伝統を死守するために中継ぎ役で女帝になり、時には婚姻や出産を諦めて、生涯独身で通した女帝達はいったいなんだったのでしょう。

この方々の献身は一途なものであったでしょう。その後は男系の血統を守るための血の伴走者たる閑院宮が立てられ、よくその伴走者の役目を果たし、女帝を建てる必要はなくなります。そうした宮家の制度はGHQに廃止されるまで続いていたのです。

今私達が考えることは、この廃止された宮家を復活させることではないでしょうか。この宮家は男系を維持しながらも、常に時の天皇の皇女との婚姻により、時の天皇との血の濃さを保って来ました。

天皇であること、それは生涯を国家と國民への献身で貫くという覚悟にほかなりません。今上陛下がどれだけ、日々の生活の隅々まで気を配って、その殆どの時間を、国民のためのご公務に、あるいは国民の幸福を祈るために、費やされているかを知れば、天皇となるには、無私であることの覚悟が、まず一番に必要とされる御位であり、重大な天命を受け入れることなのです。

 

 竹田恒泰 著 「皇族たちの真実」より

女帝は中継ぎ役
 

我が国最初の女帝、推古(すいこ)天皇は、東アジアにおける女帝の先例となる。崇峻(すしゅん)天皇が後継者を指名する前に殺害されたことで、後継争いが起き、しかも有力な候補者が複数あったことから、その争いを避けるために、
推古天皇が即位することになった。


即位して間もなく厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳(しょうとく)太子)が皇太子になったことから、推古天皇の即位と厩戸皇子の立太子は一体のものだったと考えられる。つまり、推古女帝の誕生は、後継争いを避けて政治的緩和をしつつ、次の皇太子を導き出すという役割を担ったことになる。


推古天皇の次の女帝である皇極(こうぎょく)天皇も後継争いを緩和するために
擁立された女帝であった。そして次の女帝、持統天皇は、継嗣たる我が子草壁皇子(くさかべのみこ)(天武(てんむ)天皇皇子)が即位に必要な年齢に成長するまでの間、中継ぎのために即位した女帝である。


結局、草壁皇子は若くしてこの世を去るが、その息子の珂瑠皇子(かるのみこ)「文武(もんむ)天皇」に皇位が伝えられた。持統天皇は生前譲位して太上(だいじょう)天皇(上皇(じょうこう))となった初めての天皇であり、初の年少天皇を成立させることになった。


次の女帝、元明(げんめい)天皇もまた、継嗣たる孫の成長を待っために中継ぎとして即位した女帝である。元明天皇は娘(元正(げんしょう)天皇)に譲位し、
継嗣たる孫を立太子させ、そして親子二代で継嗣の成長を待つ形になった。


孝謙天阜は弟の安積(あさか)親王(聖武(しょうむ)天皇の皇子)が庶系であったために、一定期間親王を皇太子とすることで、安全に皇位を継承させることをもくろみ、親王に先立って即位した女帝である。ここでもやはり中継ぎ役であった。

そして平安時代に入ると皇太子の制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなる。


しかし、これまで見てきた六方八代の女帝の足跡は、皇太子制度をつくる上で大きな影響を与えた。



その後江戸期に入って二方の女帝が現れたが、明正(めいしょう)天皇はわずか6歳で践祚した女帝だった。紫衣(しえ)事件とそれに引き続く春日局(かすがのつぼね)参内事件で幕府に激怒した 後水尾天皇が、不快感を顕(あらわ)に幼少の内親王を即位させたことで859年ぶりに女帝が成立した。これは 後水尾天皇の幕府に対する報復措置であった。



我が国最後の女帝となる後桜町天皇は継嗣たる甥の英仁(ひでひと)親王が成長するまでの間、天皇の位に就いた。明正天皇は特殊な例だが、そのほかの女帝は、皇位の後継争いを緩和する為、もしくわ継嗣の成長を待つために成立したのであり、いずれも「中継ぎ」としての役割を担ったものだった。

 

女帝の不文律

 

女帝が誕生した背景や役割はどれも異なっているが、一定の共通項が あるので、ここでまとめてみよう。

 

第一に、女帝は例外なく歴代天皇の男系の子孫であると指摘できる。 女系子孫や外部から嫁いで来た女性が天皇になったことはない。よって、 八方十代の女帝がありながらも、万世一系、つまり男系による皇統の継承は 途切れたことがない。

 そして第二に、先帝の皇后が女帝になることを原則としている。 まさに推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇は皇后であった。

元明天皇は皇太子草壁皇子妃であり、元正天皇に至っては皇后でも 皇太子妃でもなかったが、いずれにしても皇后、もしくはそれに 準ずるように格上げされてから即位となっている。

そのことからも、女帝は皇后であるべきだとの不文律が存在していた ことが分かる。ただし、その原則も未婚の内親王が即位した元正天皇の 例を以って変化し、以降の女帝は全て未婚の内親王となった。


また第三に、女帝はいったん即位すると、婚姻した例も、出産した 例もなく、これらを禁止した不文律が成立していた点を指摘しなくては いけない。女帝は、在位中はもちろんのこと、退位した後も未婚の立場を 貫き通さねばならない運命にあった。そしてこれは一つの例外もなく 守られている。皇統が男系によつて継承される以上、女帝の婚姻は 本人に婚姻の意思があつたとしても事実上不可能だった。

そして第四に、女帝の係累は即位することができないことが指摘できる 元来女帝の擁立は、継承を巡る政治的緊張を緩和させるのが趣旨であり 女帝の息子に皇位継承権があるならぱ決して緊張緩和にはならなかつた ことからも明らかである。女帝とはその係累の皇位継承を事実上否定 された天皇であった。

 
また、女帝は通常の天皇とは区別されていたことは注目すべきである。 女帝を「中天皇(なかつすめらみこと)と称して区別したこことや、 泉涌寺(京都市東山区)に江戸期の歴代天皇の肖像画が保存されて いるが女帝の肖像画だけがないこと、そして本来天皇が成人すると、   摂政(天皇に代わて政務を行なう役職)は関白(天皇の政務を補佐する 役職)に置き換えられるのだが、江戸時代の女帝には天皇の成人後も 摂政が置かれ続けたことが挙げられる。

八方の女帝にはそれぞれのドラマがあるが、結果的にはいずれも正当な 皇位の継承者となることなく、全て「中継ぎ」の役割を担つたことになる そして「中継ぎ」とはあくまでも「中継ぎ」であつて、皇統断絶の危機 当たつての緊急避難ではない。

皇位継承者がいなくなつたとき皇統断絶の危機を回避するために 
女性が天皇となつた例は一例もなかつたのだ

 閑院宮を天皇に
 
  
後桃園天皇崩御に伴う皇統の危機に際し、女帝を立てる以外の方法も洗いざらい先例が調べ上げられ、様々な方法が模索された。そしてついに朝廷は、傍系から即位した継体天皇と後花園天皇の先例に従うことを決めた。

 
先帝が遺(のこ)した唯一の内親王を女帝とせず、先例にあるとおり、たとえ遠縁であろうとも、いずれかの天皇の男系男子を世継ぎとした。天皇の近親に男系男子はいなかったものの、傍系であれば正真正銘の  天皇の男系男子が存在していたのである。
 

このとき世継ぎに選ばれたのは世襲親王家、つまり宮家の男子だった。朝廷は、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六王子でまだ満8歳の祐宮(さちのみや)を後桃園天皇の養子とした上で世継ぎとする旨を正式に取り決めた。祐宮というのは幼名であり、御名を「師仁(もろひと)」、後に「兼仁(ともひと)」と称した。

 
祐宮は第一一三代東山天皇の男系の曾孫に当たり、また先代の後桃園天皇とは七親等の遠縁に当たる。祐宮は生後間もなく聖護院宮忠誉(しょうごいんのみやちゅうよ)入道親王の元に預けられ、将来聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。

 
現在は天皇の皇子であれば自動的に宮家を創設することになっているが、近世以前にはそのような習慣はなく、天皇もしくは四親王家の当主にならなかった親王は、宮家を創設せずに出家して門跡に入るのが原則であった。
 

出家した皇族が入る寺院は宮門跡といわれ、一種の寺院格式をなした。輪王寺(りんのうじ)、青蓮院(しょうれんいん)、聖護院、勧修寺(かんしゅうじ)、仁和寺(にんなじ)、知恩院(ちおんいん)などが江戸時代の宮門跡として知られている。
幕末になると、 青蓮院宮が還俗(げんぞく)して中川宮へ、また勧修寺宮が還俗して山階宮(やましなのみや)となるなど、明治2年(1869)までの間に、出家していた親王は次々と還俗を命ぜられ、宮門跡は廃止された。

 
 
後桃園天皇崩御翌月の11月8日、祐宮が世継ぎとなることを関白九条尚実(くじょうなおざね)が叡慮(えいりょ)〔天皇の考え」として発表した。この重大な発表があった日、祐宮は閑院宮邸から天皇の御所である禁裏御所に移り住み、皇位の証である剣璽(けんじ)(三種の神器のうちの剣と勾玉(まがたま))を受け継ぐ践祚の儀を済ませた。

 
この祐宮こそ光格(こうかく)天皇である。翌日の11月9日、朝廷はついに後桃園天皇が崩御したことを公にした。この運命の日より祐宮の生活は一変する。8歳の祐宮にとって、天皇になることの意味を理解することはできなかつたであろう。しかし、立派な僧侶になるための修行をしていた生活が、御所の中の生活に様変わりするのであるから、祐宮も戸惑ったに違いない。
 

何も知らない祐宮が初めて禁裏御所に入るところは、「ラストエンペラー」として知られる清朝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が幼少にして紫禁城に入る場面を紡佛とさせるものがある。

先帝の皇女を皇后に
 
光格天皇のように傍系から践祚した例は、一二四回繰り返されてきた皇位継承のドラマの中でも継体天皇、後花園天皇、そして光格天皇のわずか三例しか存在していない、いずれも皇室にとって危急存亡の秋であった。

 
ここで極めて重要な点を指摘しなくてはいけない。崩じた後桃園天皇の皇女欣子内親王が光格天皇の皇后とされたことである。これは、閑院宮出身の光格天皇と先帝との血縁を濃密にするための措置にほかならない。

 
新帝は閑院宮から擁立されたが、天皇家を置き去りにすることはなかつたのだ。皇位継承者が不在という局面で傍系から天皇を擁立したことは、皇位を男系継承させ、最も重要な伝統を守ったことになるが、一方で新帝と先帝が遠縁であるという問題を生じさせた。しかし、先帝の皇女が新帝の皇后になることにより、新帝と先帝との間の血縁を一挙に近づけることに成功した。

この方策にはモデルがあり、その先例に従ったものだった。それは継体天皇の例である。皇統断絶の危機の一つとして既に示した武烈天皇から継体天皇への皇位継承のとき、傍系の継体天皇は、武烈天皇の姉で仁賢天皇皇女に当たる手白香皇女を皇后としたことは既に述べたが、光格天皇が欣子内親王を皇后としたのは、この先例に従ったものだった。

 
ちなみに、手白香皇女は後に継体天皇の嫡子たる欽明天皇を出産したことも注目すべきである。それにより現在の天皇家の血筋は手白香皇女を通じて仁賢天皇以前から、また継体天皇の父系を通じて応神天皇以前から繋がっていることになるからだ。



祐宮が選ばれた理由

安永8年当時世襲親王家は四家あり、その中に多数の男子皇族がいた。誰を天皇にするべきかの選考を行なうに当たり、継体天皇を先例とし、先帝の皇女との婚姻が前提、もしくは優先されたと考えられる。すると侯補者はおのずとわずか数名の若年皇族に絞られることになる。

安永8年生まれの先帝の皇女との婚姻を考えると、年齢的に釣り合っている必要があり、また未婚者で、かつ宮家を継承する予定がないことが望ましい。またその頃、宮家の当主とならなかった男子皇族は出家して門跡寺院の門跡となることが慣習であったが、門跡を継いだ入道親王を還俗させるよりは、いまだ門跡を継いでいない若い皇族の中から候補者を選ぶことが優先されたと考えられる。安永8年に御桃園天皇が崩御した時の未だ門跡を継いでいない皇族男子は八方あった。


つづく

転載終わり



人種差別の壁を崩した誇り高き日本、大東亜戦争は人種差別撤廃の戦争

2011年12月21日 05時06分42秒 | 歴史

美しい国からの転載です。

第二次大戦以前の世界は、欧米の白人の支配する世界でした。白人はキリスト教文化ですが、聖書の中で、神が人間に地上のすべての生物を支配せよと言われた、その人間とは白人種のことであると考えていました。有色人種は人間だと見なしていなかったのです。

また近代ダーウィンの進化論が広まってからは、白人種の優生思想が信じられ、白人種が進化の頂点にあると考えていました。こうした思想から、黒人を奴隷にし、家畜のように使役し、また家畜を交配によって都合のいい様に改良するように、黒人を改良しようとしたという話もあるほど、人権を無視したのです。

明治時代に紀州沖で、イギリスの貨物船ノルマントン号が遭難した時も、船長以下イギリス人は全員救命ボートで脱出しましたが、その時に乗り合わせていた日本人23人は全員見捨てられて死亡しました。まだ治外法権で日本に外国人を裁く裁判権がない時代でしたから、船長ドレイクはイギリス領事の裁判で無罪となりました。

こうした人種差別の壁を打ち破ろうとしたのが日本です。この白人支配の植民地主義からアジアを解放しようとしたのが日本です。戦後、勝者の連合国によって彼らが正義であるように彼らに都合よく捏造された歴史を占領政策によって洗脳され、信じこまされた日本人を、今アジアの国々は情けない気持ちで見ながらも、それでも日本が復活するのを期待しています。日本のマスコミはこうした東南アジア諸国の本当の声を伝えません。





 
動画は是非ご視聴ください。
 
 
 本年7月7日に投稿した記事の再記載です。
本日、ポール・リシャール『告日本国』 を再記載しましたが、師と仰ぐ愛国者、さくらの花びら大兄さまが、拙記事にコメントいただきました。
 
「日本人はよくこの言葉をかみしめて、先人の偉業を知り、これに恥じぬよう日本国のために尽くすべきです。」と・・・・・
 
たった一世紀前の先人は素晴らしかった。
まるで別の国のようになってしまった日本。
とても哀しく思います。
さくらの花びら大兄さまが仰せのとおり、現世の我々は恥を知り、先人の偉業を継承すべきです。
今ならまだ間に合います・・・同じ日本人のDNAが流れているのですから・・
以下本文
 
戦後の徹底したGHQ、反日勢力によって情報操作され、日本人が祖国を最もひどい差別、悪い国だと未だに信じている多くの国民がいます。
インターネット等の普及により、今まで我々の目に触れ無いように隠されていた事実が少しずつではありますが、明るみになっています。
米国は現在でこそ、オバマ大統領の誕生など、自由 と民主主義の国、あるいは人権の擁護者のように振舞っているが、その根底は、人種差別と奴隷制度によって支えられて来た国である。人が人を犬のように鎖に つなぎ、あるいは、家畜のように市場で品定めをして売買する。ヨーロッパ人が言う、キリスト教的な博愛とは、「同じ宗教を信ずる白人同士に限られた話」で あり、異教徒や有色人種は、当時、博愛の対象ではなかったのです。
博愛が、全人類的博愛であれば、宗教戦争も、世界の植民地化もありえない事であったはずです。
アメリカと言う国は、歴史的に調和を欠いた国で す。白人と黒人、白人とインデアン、キリスト教徒とユダヤ教徒、黒人と韓国人、韓国人と日本人、さまざまな対立と闘争が、ずっと繰り広げられてきた。ま た、アメリカの歴史とは、開拓の歴史であり、開拓の歴史とは、すなわち侵略の歴史なのです。
第一次大戦後、戦後処理を行った「パリ講和会議」(1919年1月18日開会)において、アメリカ全権であったウイルソン大統領は、世界秩序回復の為の、14か条を提唱。
この会議には、日本からは、西園寺公望侯爵、牧野伸顕男爵ら64人の代表団を送りました。そして日本代表団は、、「15番目の提案」をしました。それは、「国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべき事」と言う提案でした。
当時、唯一有色人種の国家として、「五大国」と呼ばれ、先進国の仲間入りをしつつあった日本でしたが、人種的偏見によって不当に扱われるのを避ける狙いもありましたが、1919年当時としては、「人種差別を撤廃する」と言うのは非常に画期的な主張でした。
当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人 新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒 人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」と賞讃さえしています。
同上の動画をご覧いただいた方にはすぐ理解してい ただけますが、米国大統領ウイルソンは、この法案の投票結果が賛成多数となると、突如、このような重要法案は、「全会一致でなければならない」として、 「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り去ってしまったのです。
ウイルソンは、理想的人道主義者のように言われているが、パリ講和会議が行われたのと同じ1919年には、シカゴで大規模な暴動が起きており、自分の国内の事情を優先したのです。
 
この頃からの白人国家の対日政策がその後、日本の運命を決めたと言っても過言ではありません。
 
我国が人種平等であったことは、命のビザを発給して、ユダヤ系住民を国外に逃がし、日本国内で保護した、ユダヤ人保護政策をみればお解りいただけます。
神戸で難民生活を送ったユダヤ人女性によれば、 「当時あらゆる国が官僚的にユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代に、日本政府が、ほとんど有効期限のないビザを受け入れ、長期間延長を認めた事が忘れられな い。この日本政府の行為は、神戸での人道的体験とあいまって全く独特なものだった」と述べています。
 
また大東亜戦争終結後、植民地を取り返しに来た欧米諸国に原住民義勇軍といっしょに、彼らの独立のため戦った日本軍人もいます。
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事をあきらめ、独立を勝ち得たのです。
母体である日本は傷つき、難産の末に多くの国家が、解放されたのでした。

村山談話にあるように、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与えた・・・
政治家は正しい歴史認識もせず、謝罪ばかり繰り返し、日教組により、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育が行われている。
これは大きな間違いである。
多くの参考文献等で明らかになっていますが、
 
日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、 そこを200年も支配してきた、白人国家であり、日本には植民地など存在せず、日本は、住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接 種をすることを始め、道路港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」と言うのは間違い。)インド、インドネ シア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。
1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会 議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関わった人々 は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と述べています。
 
極東軍事裁判で多くの日本人が裁かれました。はたして、白人国家は日本を裁き、占領する資格、権利があったのでしょうか。
日本人は裁かれることなどなかったはずです。
裁いたのは、多くの植民地を失い、権益を失った白人国家の怨念ではなかったでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 元記事には、故人となられた敬天愛人大兄さまが次のようにコメントいただいております。
「今の世界のカタチを作ったのは紛れもない先人たちの血と汗の結晶です。
決してコミュニストやユダヤでありません。」と・・
 
現世に生きる我々がさも、国家の主人公のように振る舞い、先人の遺産を食い散らかしているような今日、国は皇室とご先祖さまより賜ったものです。
今日の我々が作り上げたものではありません。
子孫に恥ずかしくない日本を伝えましょう・・・・
 

転載元 転載元: 美しい国

 

 

 


北朝鮮の金正日総書記死亡、日本は強硬姿勢で日本人拉致問題の解決を求めろ

2011年12月21日 04時16分00秒 | 無題

近野滋之・民族主義者の警鐘からの転載です。

金正日が無くなったという話がnetで騒がれていると聞いて検索したら、一旦は否定されているようでしたからデマかと思ったら、本当でしたね。これで拉致被害者の救出が、可能になることを期待しているのですが、何しろ今の民主政権では、何をやっても能力がないことがもう明瞭になってきているので、チャンスを活かす事ができるだろうかと、ほんと心配です。

 

 

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良識ある日本国民の皆様には、朝鮮中央通信が故金正日の後継者とされている金正恩を偉大なる後継者」と表現したのはご存知だと考えます。

朝鮮中央通信が金正恩氏を「偉大なる後継者」と表現

朝鮮中央通信(KCNA)は19日、故金正日(キム・ジョンイル)総書記の三男で
後継者とされている正恩(ジョンウン)氏を「偉大なる後継者」と表現した。 放送は金正恩氏を「チュチェ(主体思想)の革命的理念の
偉大なる後継者であり、我が党と軍、人民の傑出した指導者」と紹介し、
「金正恩氏の統率力により、
チュチェ思想の革命を実現する保証がもたらされる」とした。
(CNN.co.jp)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111219-00000022-cnn-int

 

北朝鮮が19日に金正日総書記の死亡を公表して、マスコミでは北朝鮮の今後の行方などを取り上げていますが、今は北朝鮮も国内混乱を避けたいので、金正恩を側近が支える状況が続くでしょう。

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金日成・金正日から3代の権力世襲とは、独裁国家として特異な国家体制になる「金王朝」ですが、北朝鮮のように若き後継者への権力過渡期には、国内をまとめるために対外強硬政策に出る可能性が高いと考えられます。

日本は、北朝鮮の指導者が誰になろうと、集団指導体制でも、第一に考えるのは日本人拉致問題の解決・拉致被害者の救出です。

日本人拉致事件から歳月が流れて、拉致被害者はもちろん、拉致被害者のご家族も高齢になっていますし、国家とは、領土・領海・自国民の生命と財産を守る義務があるのですから、自国民も守れない国は真の独立国ではありません。

異国の地で辛い日々を送り母国へも帰れない拉致被害者と、その帰国を心から待ち続けている拉致被害者のご家族の問題は、私たち日本人にとって、東日本大震災の被災者と同じで、他人事と考える問題ではありません。

2002年、小泉元首相の訪朝の際、金正日総書記は日本人拉致問題について国家的テロ犯罪と認めて謝罪をして、北朝鮮は韓国にスパイを送りこみ脱北者の暗殺を企てるなど、北朝鮮は間違いなくテロ国家です。

日本は、独自で北朝鮮をテロ国家に指定して、北朝鮮が援助を受けられなくすべきで、日本は世界銀行には第2位の拠出国、アジア開発銀行には第1位の拠出国ですから、日本独自での北朝鮮テロ国家指定は実現可能です。

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日本は、北朝鮮に強硬になるべきで、新たな対北朝鮮経済制裁として、朝鮮総連を徹底的に締め上げて、北朝鮮の資金源を断つべきです。

朝鮮総連は、工作活動・資金面でも金政権を支えていて、北朝鮮の国家的テロである「日本人拉致事件」へのさまざまな関与も明らかにされていますし、パチンコ業界による送金などの問題もあります。

「北のマタ・ハリ」こと、韓国で脱北者を装ってスパイ活動をして検挙された、女工作員が日本に入国した際の協力者には、朝鮮総連傘下組織の幹部の名前が起訴状に書かれています。

朝鮮総連こそは北朝鮮の対日工作機関ですから、朝鮮総連を徹底的に締め上げて、資産の凍結ではなくて資産を没収して、総連関係の在日朝鮮人は強制送還にすべきです。

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パチンコは、在日韓国・朝鮮人の利権産業で、北朝鮮へ資金が流れているのですから、北朝鮮の資金源であるパチンコは、違法ギャンブルとして即刻取り締まるべきです。

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朝鮮学校への自治体からの補助金も即刻やめるべきで、補助金が朝鮮総連に流用していることを、朝鮮総連直轄組織「教育会」の元幹部が流用に関わったと証言をしています。

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日本政府は、韓国との情報共有・連携強化などと言っていますが、韓国から得られる情報があるのかが疑問で、金正日が死亡したとされる17日、韓国の李明博大統領は、日韓首脳会談で日本に来日していました。

韓国のメディアでは、サムスンの役員が「18日に死亡説を知っていた」と報道していますが、18日に李明博は、「誠意ある措置がなければ第2、第3の像が建つ」と、慰安婦像の撤去要請を一蹴していました。

何故? 三星(サムスン)、金正日死亡を予め知っていた?[
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1324283593/

 

韓国のネットも、「金正日総書記は17日午前8時30分頃に死亡したそうだが、今日になって伝えられるなんて、われわれ韓国側の情報力も問題だ」・「17日死亡なのに大統領は日本に?一体、国家情報院ラインは何をしているのか」などの声が上がっています。

<金総書記死去>韓国ネットユーザー「国家情報院は2日間何を?」
http://japanese.joins.com/article/600/146600.html?servcode=500§code=510

 

金正日の死亡が報じられた19日、韓国ではウォン安・株安で、李明博は、「国民のみなさん。動揺することなく、経済活動に専念してほしい」と呼びかけていましたが、朝鮮戦争は停戦状態なので有事を想定すれば国際社会の常識です。

韓国経済、ウォン安株安に 李大統領「動揺しないで」
http://www.asahi.com/business/update/1219/TKY201112190395.html

 

19日の為替は、ウォン安ドル高が進んで1ドル=1174ウォンと、約2カ月ぶりのウォン安水準になったのですから、10月19日に野田首相が、日韓通貨スワップの限度額を130億ドルから700億ドルに拡大したのが異常でした。

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日本政府は、中共にも北朝鮮問題で期待をしているようですが、中共は北朝鮮に最大の影響力を持っていても、北朝鮮の民主化・または韓国との朝鮮統一になっては、朝鮮半島に米国の影響が強まるだけですから、中共に期待はできません。

日本が北朝鮮へ経済制裁などをしても、中共は北朝鮮の鉱山や港などに莫大な投資を実施していますし、中共は北朝鮮を自治区のように管理して、自国内へ難民が押し寄せないことだけしか考えていません。

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中共と北朝鮮の貿易状況を考えれば、テロ国家の北朝鮮への最大の支援国の中共とは、テロ支援国家なのですから、日本が中共に期待することこそ愚かな考えです。

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野田政権は訪朝など対話重視と言い出しそうですが、北朝鮮のほうから日本に対して対話を求めさせることこそ、拉致問題、核問題の解決になるのですから、徹底的に総連などを締め上げるべきです。

朝鮮中央通信が金正恩氏を「偉大なる後継者」と表現しましたが、日本は朝鮮総連・パチンコを取り締まり、朝鮮学校への自治体助成金も即刻やめて、北朝鮮に強硬な姿勢で日本人拉致問題の解決を求めるべきです。

良識ある日本国民の皆様、拉致問題解決についてご考慮下さい。

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転載元 転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘

 

 

 


「南京大虐殺は真実ではないと思う理由」鈴木史朗さんの体験からの確信

2011年12月19日 12時06分35秒 | 歴史
111216Will.jpg 少し前の号になりますが、「WiLL」2011年4月号より鈴木史朗さんの記事を全文引用させていただきます。

 色んな意味で貴重な証言ですので、そのうち全文引用されるブログさんなりサイトさんなりが現れるのではないかと思っていました。
 が、現時点でそれがまだないようなので、保存も兼ねてこちらで起こすことにしました。


 
全文起こしここから____________________________

111216nankinsuzuki1.jpg

【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】


 
鈴木史朗(フリーアナウンサー)
 1938年、京都生まれ。62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。主な出演作品に、TBS『さ んまのスーパーからくりTV』、『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコ ツ』(小学館文庫)。

〈「もう一度南京へ」〉


 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、ク イズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。


 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう 一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。


 
「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。

 さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」


 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。


 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、
「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。


 
「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

 他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。


  
「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」


 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現 代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確 信を得るにいたったのです。


〈天津での日々〉


 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。


 残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。


 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。


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 引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。
近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。


 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三 人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。


 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。
虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。
溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 
たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

 天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。


〈中国人女性にモテた父〉

 
 父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑や かで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」 と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。


 ただ、
もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

〈南京ののどかな光景〉


 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金 持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあし らっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。


 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。


 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。


 
「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。


 「聞いたところによると、
日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。


 あの
ジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかっ たという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表す るものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 
もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

〈命からがら引き揚げ〉


 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、
映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワ イドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。
「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。


 
終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。

 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。


 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死ん でしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物 まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。


 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。


〈テレビ局の「自主規制」〉


 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。


 
社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からの お話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もあり ませんでした。


 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、
映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。


 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、
会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、
「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。


〈日中の未来のために〉


 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる 中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありま せん。


 
私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

 映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。


 「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」


 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。


 
____________________________全文起こしここまで


 鈴木さん、子供の頃に南京に行かれたこともあったんですね。

 1938年2月のお生まれですから、3~4歳の頃ということは、1941年から42年頃にかけてでしょうか?
 南京戦があったのは1937年12月ですから、4~5年後ですよね。

 本当に「大虐殺」があったのなら、そのわずか4~5年後、南京の中国人は、南京にやってきた日本人に対して親しげにはしないでしょう。日本人の子供(鈴木さん)を気に入って抱き上げたりもしないでしょう。


 それ以前に、日本人の側も、「反日感情」を怖れて南京に出入りしようとはあまり考えないでしょうし、ましてや幼い子供(鈴木さん)を連れて行くなんてことは常識ではあり得ないと思います。


 南京陥落直後ですら、このようなのどかな光景の写真がいくつも残されています。


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【昭和12(1937)年12月17日撮影/「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より/わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民/撮影者、佐藤振壽(毎日新聞カメラマン)/ソースURL

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【昭和12(1937)年12月20日 南京住宅街にて撮影/「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より/支那事変写真全集(中)上海戦線 南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達/撮影者、朝日新聞 林カメラマン/ソースURL


 ところで、鈴木史朗さんは最後の方で、かなり思い切ったマスコミ批判というかテレビ局批判をされてますよね。

 最近あまりテレビでお見かけしないのは、もしかしてそれが原因だったりするのでしょうか?

 仮にそうだとしたら、
【「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続ける】うえに、「真実」を伝えよという鈴木さんのような人を弾圧していることになり、ますます【報道人としての風上にも置けません】よね。

 余談ですが、鈴木さんって実は「ゲーマー」だそうですね。

 特に「バイオハザード」の腕前は超人的だとか。
 最近知って驚きました(^_^;


転載終わり



 


女性宮家反対、女系天皇は万世一系の国体を破壊する、二度と元に戻らない

2011年12月19日 02時18分05秒 | 歴史
サイタニのブログに竹田恒泰氏の女系天皇というものは存在しないこと、皇室の伝統ではないことを説明した文章を載せておられます。以下に転載して、現在行われている女性宮家が、女系天皇への道を開くもので、我が国の歴史(万世一系の天皇という国体)を断絶させる非常な危険なものである理由を明らかにしたいと思います。 

竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より

過去三回あった皇統断絶の危機
 
  
問題になるのが、残りの三例である。この三例は、皇統の危機であり、万世一系の危機であった。いずれも天皇に息子がいない上、近親に一人も男系男子がいなかった
 
皇統の危機を先人たちはどのように切り抜けたのだろうか。
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例であるまずこの二例について説明する。
 
  
天皇家始まって以来の皇統の危機を繋いだのは継体天皇だった。継体天皇は先代の 武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に当たる。現在の日常生活では従兄弟ですら疎遠になりがちで、はとことなると一度も会ったことがない場合が多いのではないだろうか。
 
  
しかも「祖父同士がはとこ」とはもはや他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がおらず、男の兄弟もいなかった。武烈天皇が崩御して天皇の後継問題が深刻化し、しばらく空位が続いた後に 三顧の礼で迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)が即位して継体天皇となった伝えられている。継体天皇は応神天皇の男系の五世孫、つまり玄孫の子に当たるため、男系継承が守られたことになる。
 
  
だがこの時期に王朝の交代があったのではないかという説も存在している。しかしそれは応神天皇の五世孫であるという継体天皇の出自に疑いを示しているのみで立証に至っていない、それどころか、継体天皇は仁賢(にんけん)天皇(武烈天皇の父)皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、皇后としている。
 
  
しかも仁賢天皇の他の皇女である、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)、 橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇(継体天皇の第一皇子)、宣化(せんか)天皇(継体天皇の第二皇子)の皇后となつている。
 
  
したがって武烈天皇までの王朝と継体天皇からの王朝が別のものであると考えるのは不自然であろう。よって、継体天皇の即位は血筋の違う地方豪族が武力によって皇位を簒奪(さんだつ)したものではなく、祖先を同じくするふたつの皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきである。私はこの時期に王朝交代はなかったとの通説は自然なものだと思う。



伏見宮家から即位


時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。このときに皇統を繋いだのが後花園(ごはなぞの)天皇だつた。後花園天皇も先代の称光(しようこう)天皇から十親等の遠縁にあたる。皇子のなかった称光天皇が崩ずると父帝の後小松(ごこうまつ)上皇が伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王の第一皇子彦仁(ひこひと)を御所に迎え入れ、践祚させた。
  
  
このときは皇統を巡り南朝と北朝で争いがあった時期であり、空位はなんとしても避けなければならないという切羽詰った事情があつたようだ。
 
  
後花園天皇は北朝第三代崇光天皇の男系の曾孫に当たるため、ここでもやはり皇位が全く別の家に渡ったわけではない。そもそも伏見宮自体が皇統を安定させるために創設された経緯もあり、また、もともと伏見宮家は、持明院統の正嫡の家柄であった。
 
  
皇位継承とは血のリレーであり、宮家とは血のリレーの伴走者であるとは評論家大宅壮一の残した言葉であり、後花園蚕が皇統を繋いだことで、伏見宮は血のリレーの伴走者の役をよく果たしたことになる。
 
 
 
後桃園天皇崩御で皇統の危機
 
 
さらに時代が下ることおよそ360年、三度目の皇統断絶の危機が訪れた。江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の困難に直面する系譜上第一一八代に数えられる後桃園天皇が崩御したこの日、天皇が不在となったのだ
 
 
本来であれば天皇の在位中に皇太子が立てられ、天皇崩御の日か、その翌日に皇太子が践祚して皇位が継承されるはずであった。しかし、後桃園天皇は幼い欣子(よしこ)内親王(後の新清和院(しんせいわいん))一人を残して22歳という若さでこの世を去ったため、皇太子となるべき皇子がいなかった。
 
そのうえ、天皇の近親に皇族男子が一人もいなかったため、皇位継承者不在のまま天皇崩御となり、空位が生じるに至った〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには数え年を使わずに満年齢で表記することにした〕。
 
空位が生じることは、とうてい許される事態ではない。そしてこれをこのまま放置すると、天皇家を断絶させることになる。このとき、空位を避けるために後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が検討された。朝廷において判断に苦慮した場合、常に先例を参考にしてきたことは既に述べたが、このときも、およそ2000年以上続く歴史を辿(たど)って皇位継承に関する先例調べが行なわれた。
 
既に説明した継体天皇と後花園天皇の二例が最も参考にされたことは言うまでもない。この時代、徳川幕府は絶大なる権力を持っており、皇太子を立てるにも幕府の承認を得る必要があった。朝廷は後桃園天皇がまだ存命であることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか幕府と交渉を始めた。
 
  
  
  
男系維持へのこだわり
 
後桃園天皇が崩御したこのとき、天皇が残した子供は、崩御の年に生まれたばかりの皇女欣子内親王ただ一人だった。そのため、皇位継承の問題は深刻化した。通常、皇子がいない状態で天皇が崩御すると、天皇の兄弟、叔父、大叔父など、歴代天皇の男系の子孫が皇位を継承するのが通例となっていた。
 
後桃園天皇には弟の貞行(さだもち)親王〔「さだゆき」とも読む〕がいたが、宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既にこの世を去っていた。
 
そのうえ、後桃園天皇の父桃園天皇は既になく、その兄弟もいなかった。もう一世代遡(さかのぼ)ると、桃園天皇の父、桜町天皇も既になく、その兄弟四方のうち、公遵入道(こうじゅんにゅうどう)親王と忠誉入道(ちゅうよにゅうどう)親王は健在であったものの、既に満57歳と満56歳という高齢だった。〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
 

しかも二人は仏門に降って僧侶となっており、いずれにも皇子はいなかった。つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかったのである。

 

続き 男系維持へのこだわり
 
高齢の入道親王では次の世代を担う皇位継承者とはなり得なかった。この状況は皇統の危機が盛んに議論される平成の状況よりもさらに厳しいものである。
 
近親に男系男子が一人もいないのであれば、後桃園天皇が残した欣子(よしこ)内親王を女帝にすればよいと考える読者もいることだろう。欣子内親王は父親が天皇であるため、女子でありながらも男系であることに変わりがない。確かに我が国には、それまでも女帝が存在した歴史を有す。

欣了内親王が女帝となることについても問題がないかのようにみえる。しかし、その先のことを考えると、そう簡単な話ではない。もし 天皇の近親に高齢で子のいない二名の入道親王しか男系男子がいない状況で欣子内親王を女帝とした場合、皇統断絶の危機を何一つ解決したことにならない
 
その女帝が末代となり、女帝の崩御で皇統断絶となるだけだ。女帝を立てるためには、条件が整っている必要がある。安易に女帝を立てることは、極めて危険なのだ。




八方十代の女帝


後桃園天皇が崩御したこのときも女帝の先例が調べられた皇統の歴史上、八方十代の女帝〔重祚(ちょうそ)、つまり一度退位した後に再び即位した女帝が二代あったのでこのように表現される〕が存在している。しかし、女帝となったのはいずれも天皇の皇女など、男系の女子であり女系たる女帝の子息が皇位を継いだことは一度もない。やはりここでも男系継承は確実に守られてきた。また、男系継承を確実なものにするため、女性は生涯独身貫くこと、そして生涯出産しないことの不文律が存在していた
 
 
女帝が即位後に結婚した例はなくまた同じく即位後に出産した例もない〔ただし、即位する前に皇后として出産した例はある〕。

ではなぜこのような不文律が成立していたかといえば、もし女帝の配偶者と女帝の子供がいたとすると、彼らの扱いは非常に難しく、皇位を巡って争いが生じることが予想されたからだと思われる。女帝の配偶者と女帝の子供はいない方がよかったと考えられていたのではないか。
 
また、後桃園天皇が崩御したときのように、皇位継承者がいない状況で仕方なく 女性が天皇になったことは一度もないことに注目しなくてはいけない。
 

女帝は、政治的緊張の緩和か、継嗣の成長を待っ目的で成立してきた
それぞれの女帝がどのような背景で成立してきたか、簡単に概要を説明する。

 

:今再び女性宮家なるおかしな話が出てきたが、皇室の事は皇室に任せるのが良いと思う。正しい歴史認識もなく、それ以上に2000年続いている本当の皇室の正しい歴史も知らない、者がとやかく言うものではない。「解(わか)らんもん(者)と知(し)らんもん(者)が話しても何もわからん」(サイタニ)


つづく