小さな自然、その他いろいろ

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万世一系(男系継承)のためには、遠くても傍系から継承、傍系光格天皇の活躍

2011年12月24日 22時36分27秒 | 歴史

サイタニのブログの竹田恒泰著「皇族たちの真実」よりの、つづきです。

直系や近親に男系男子がない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られるのが、不変の法則でした。これはある意味、直系に於いて、皇位継承の皇子が幼少に無くなる、或いは若くして亡くなることなどが続いているなどの場合も多いようですから、これによってある種の遺伝的なもの、あるいは体制的なものなどが、傍系に移ることで、刷新されて、健全化する効果があったのではと、私は思います。

光格天皇は、傍系として軽んぜられているという事を幼少ながら感じ取っておられたらしく、理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志を強くお持ちだったようです。光格天皇を案じた先々代の後桜町院は天皇に学問を熱心におすすめになり、その助言に従って、光格天皇はよく努力されました。一七歳では近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っておられたようです。この点も、この時代の数代の天皇とは異なっていました。


そして、この光格天皇の理想の天皇像を追求され、時には幕府にも意見を言われる姿勢が、多くの庶民の間で、天皇の権威を高めてゆき、後の大政奉還の基を築いたと思われます。


 

  竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より


祐宮が選ばれた理由(前回最後の項目をもう一度再転載)

安永8年当時世襲親王家は四家あり、その中に多数の男子皇族がいた。誰を天皇にするべきかの選考を行なうに当たり、継体天皇を先例とし、先帝の皇女との婚姻が前提、もしくは優先されたと考えられる。すると侯補者はおのずとわずか数名の若年皇族に絞られることになる。

安永8年生まれの先帝の皇女との婚姻を考えると、年齢的に釣り合っている必要があり、また未婚者で、かつ宮家を継承する予定がないことが望ましい。またその頃、宮家の当主とならなかった男子皇族は出家して門跡寺院の門跡となることが慣習であったが、門跡を継いだ入道親王を還俗させるよりは、いまだ門跡を継いでいない若い皇族の中から候補者を選ぶことが優先されたと考えられる。安永8年に御桃園天皇が崩御した時の未だ門跡を継いでいない皇族男子は八方あった。

続き 祐宮が選ばれた理由 

嘉禰宮(後の貞敬親王(さだよししんのう))は伏見宮当主を、また 美仁(はるひと)親王は閑院宮当主をそれぞれ継承する予定があったため、この二人は候補から外されたのではないだろうか。
 
 
また、当時は幼児の死亡率が高いため、少なくとも5歳程度に育っていた方が安心できたと思われる。よって特に幼少の佳宮(よしのみや)、艶宮(つやのみや)、健宮も早い段階で候補から外されたと思われる。
 
すると、残るは閑院宮の公延(こうえん)入道親王、祐宮、そして寛宮の三方となるが、その中で祐宮が選ばれた理由は明確ではない。推論するに、公延入道親王は明和4年一1767)に仏門に入って以来だいぶ時間が経過していたことが懸念され、年齢的な問題で候補から外されたのではないだろうか。
 
 
また寛宮は安永8年3月に召し返しになっているものの、安永2(1773)にいったん梶井門跡を継いでいることが関係しているように思われる。すると、祐宮は門跡を継いでいない皇族の中で適齢であり、この条件を満たすのは祐宮一人だったことになる。
 
 
祐宮以外の侯補は既に門跡となっていたか、もしくはそれが正式に決まっていた。祐宮は将来聖護院門跡を継ぐことが予定されていたものの、その正式な手続きを済ませていなかったことが強く影響したとみえる。

ちなみに、聖護院門跡は後に弟の寛宮が継ぐことになる。さらに、祐宮が最終侯補とされたのは、四つの世襲親王家のうち、最も新しい宮家が閑院宮であったことが大きく作用している。つまり閑院宮は 天皇家から最も近い血筋を引いているのだ。したがって、初めから閑院宮は最有力侯補であったと思われる。このように、傍系から即位する皇族として祐宮が選ばれたことには必然性があった。
 
  
  
  
近代への礎を築く


 
 
現代人の感覚では、時の 天皇の直系が皇位を継ぐべきだととらえるだろう。しかし、生前譲位や年少天皇が認められない時代や、嫡系継承よりも兄弟継承を優先した時代もあり、皇位継承の方法は時代によって大きな違いがあったことは事実である。

だが男系継承の掟(おきて)だけはいかなる場合にも変えられることはなかった。歴史的に皇位継承の順位は大まかには次のとおりである。
 
1、嫡系男子    2、庶系男子  3、男系の傍系の男子 4、中継ぎ的に男系の女子

生まれる順序などにより、庶系男子が嫡系男子を差し置いて即位した例もあるが、基本的にはこのとおりである。
 
 
直系や近親に男系男子があればそれに越したことはないが、ない場合、たとえ遠くとも、傍系から男系男子を皇位継承者にする方法が取られてきた。これが不変の法則なのである。

 

 
 
光格天皇が践祚したこのとき、表面上は空位がなかったかのように繕(つくろ)われたが、実際は先帝崩御から新帝践祚までの約一か月間、天皇が不在であったことになる。このように傍系から天皇を擁立させたということは本家が途絶えたことを意味する。
 
祐宮は傍系であるも、東山天皇の曾孫に当たるため、前出の二例と同様に皇位が異なった家系に移ったわけではないが、光格天皇への皇位継承は綱渡り的な荒技であったことは事実である。
 
傍系から即位した光格天皇は、皇統を繋いだだけでなく、我が国の近代への礎を築く天皇となるそのため、光格天皇の即位は極めて重要な意味を持っといわなければならない。
 
光格天皇は安永8年に8歳という幼さで天皇の位に就き、後に譲位するまでの38年間在位した。この在位期間は 昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次いで三番目の長さに当たる。

光格天皇は譲位後も更に23年間院政を敷いたため、通算62年間君臨したことになり、その長さは実質的には昭和天皇に匹敵する。光格天皇は歴代の天皇の中でも特に理想的な天皇像と君主意識を明確に持ち合わせた天皇であつた。幕府の勢いに陰りが見え始め、維新への足音が聞こえ始めた時期である。
 
そして孫の孝明天皇が日本史上極めて重要な時期に 天皇として大活躍するための確固とした基盤は、既に光格天皇がつくり上げていた

光格天皇は間接的ではあるが、後の明治維新に多大なる影響を与えたのだ。 光格天皇が崩御したとき、後に孝明天皇となる孫の統仁(おさひと)親王は9歳でああったが、光格天皇の気概は確実に孫に受け継がれていた。
 
また光格天皇は崩御の後にその功績を称えて「光格天皇」という天皇号が贈られたことには注目すべきである。当時は 天皇が崩御すると院号が贈られるのみだったのだが、数百年ぶりに天皇号が贈られたことで日本中が驚かされた。
 
天皇号が贈られることの意味は、このようにさらりと書いてしまうと分かりづらいが、実はこのことは朝廷にとって、いや日本の歴史にとって大事件であった。
 
先帝が崩御あそばされた後に「昭和天皇」と天皇号が贈られたことは読者もよく知っていることだろう。このように天皇が崩御した後に「何々天皇」という天皇号が贈られるのは現在では制度として確立しているが、光格天皇が崩御した時代は、天皇は崩御後「何々院」と称されるのみであった。
 
例えば後鳥羽上皇が「後鳥羽院」、白河上皇が「白河院」といった具合であり、「何々天皇」と称されることはなかった。遡(さかのぼ)れば平安時代中期の 村上天皇以前は天皇号が贈られていた。しかしその習慣は以降約900年間の長きにわたって中断されていた。
 

光格天皇に天皇号が贈られたことは、その偉大さを象徴するものであり、 光格天皇の人生の総決算となった。 




天長節(天皇誕生日)によせて

2011年12月24日 16時34分50秒 | 無題

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

日本の天皇陛下は祭祀王であると言われます。

これは、日本民族が天の神々、地の神々をお祀りして、自分達の命の由来の奥に、また万物全てのものの奥に神が存すると考えて、感謝の祈りを捧げるという考え方の民族であったからです。

その民族の中心として天皇陛下がおられ、その天皇陛下は、国民の長として、常に神々に祈られ、また、重要な祭祀の最高のお役目を司られます。天皇陛下が祈られることは、神々への感謝と、国家国民の安寧と、世界の平和です。この祈りが二千年間、ずっと絶えることなく、続いてきたのです。

日本において、天皇陛下が国家の最高の御位であり、国の中心であることは、たとえ天皇が権力を失った時でさえも、続いて来ました。それは、天皇という無私の中心を戴くということが、日本民族のものの考え方にあったからだと思います。

天地の万物に宿る神々を敬う考え方が、民族のものの考え方であったように、ものには必ず中心があるという考え方もまた民族のものの考え方であったと思います。古事記には、天地のはじめの時になりませる神は天之御中主神であると書いてあります。このすべての中心におられた神が、八百万の神々に展開した形で、神々がお生まれになったと考えていいと思います。

この万物の根源、万物の命の根源に天之御中主神がおられるように、民族の中心に変わらぬ天皇陛下という存在があるとしたのが、日本民族の考えた理想であったと思います。

天皇陛下をたどると、神武天皇へ、更にたどると天照大御神に、更にたどると天之御中主神に行き着きます。この日本人の考え方が天皇という御存在を生み出したと考えてもよいと思います。

西洋や支那では、革命によって、王朝が変わったり、武力で征服したりして王朝が生れます。それは、外から見れば外的な要因ですが、西洋人や支那人が、自然は征服すべきもの、と考え、万物は支配するものと考える物の考え方から来ているのであり、したがって、王は人民を支配すると考えることを受け入れるような考えが、心のどこかにあるからではないかと思います。

このような外国の王と、日本の天皇陛下は、全く違う存在です。天皇陛下は、日本民族がそういう存在を心の奥で理想として願ったから生まれてきた御存在だと見るべきです。だから民族の歴史と共にずっと続いてきたのだと思います。

神話は民族のものの考え方をあらわすもの、理念をあらわすものだと思っていいと思います。そうした神話の時代から続く天皇という御存在を、なぜ、日本人はもっと誇りをもって、はっきりと元首として、単なる象徴ではなく、明治の御代の大日本帝国憲法のように、民族の中心にいただかないのでしょうか。現行の占領憲法は、本来法的に無効なのですから、実は有効に生きている大日本帝国憲法を早く復活させるべきです。占領下の洗脳を早く脱して、民族の本来のものの考え方に戻らないと、日本の未来はありません。



 

 

 
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皆様も、毎年初詣で神社にお参りすると思いますが、そこでどのようなことをお祈りするでしょう。 
「成績がよくなりますように・・」 
「欲しいものが手に入りますように・・」など、いろいろあるはずです。 
皇居の中にも神社があって、そこで天皇陛下もお祈りされているのです。 
しかし、そのお祈りは、 
「全ての国民が安心して暮らせますように」 
「国民が健康でありますように」
「世界が平和でありますように」など、
自分のためのお祈りではなく、国民や世界中の人々の幸せを願う祈りなのです。
 
天皇陛下はいつも、天の神様、地の神様を祈られ、
生きとし生けるものを全て安らかにあるようにとお祭りをされ続けておられます。
そのご様子はテレビなどではほとんど伝えられることはありませんが、
それでも陛下は毎日国民の幸せを祈っているのです。
 
ある日、天皇陛下がお話されていた時のことです。
突然、地震が起こり、宮殿が大きく揺れました。
すると、陛下は真っ先に隣の部屋のテレビのスイッチを入れられ、地震情報をご覧になられ、
「これぐらいなら大きな被害はない」とおっしゃったというのです。
そういう状況であれば、普通の人ならば、自分の家の心配や家族の心配をするのではないでしょうか。
しかし、陛下は違うのです。自分の心配ではなく、国民に大きな被害がないか、と真っ先に心配されるのです。だからこそ、即座に行動されることが、お出来になられるのです。
 
天皇皇后両陛下は夏にご静養になられます。
しかし、日本ではよく夏に台風が来て大きな被害が出ます。
天皇皇后両陛下は特に死者や行方不明者がたくさん出た年などは、
これまで何度もご静養をお取りやめになっております。
それは被災者の方々の悲しみや苦労を考えられてのことでした。
 
また、平成23311日の東日本大震災では、震災の直後である316日に、
「・・国民一人一人が、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見護り続けることを心より願っています」
と、『天皇陛下のお言葉』を全国民に対して発されました。
 
常に国民の幸福をお祈りされている陛下にとって、
国民の不幸や困難は心配でたまらない出来事なのです。
そして、陛下はどんなに困難な状況であっても希望を失わず、
国民一人一人が協力し知恵を出し合って、
無事に困難を乗り越えられるように祈り続けておられるのです。
私たちはこのことを心に刻みつつ、天長節(天皇誕生日)を心よりお祝い致しましょう。
 
ご歴代の天皇が、変わることなく国家国民の幸せを祈ってこられたように、
この伝統は今も受け継がれていることのありがたさを感じながら・・・。
 
 
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今上陛下の戦後の戦い

2011年12月24日 14時31分02秒 | 無題

 昨日は天皇誕生日でした。私も国旗日の丸を掲揚しましたが、パッと見た感じで、うちの町内で日の丸を揚げているところはほかになかった気がします。

日の丸を掲げたいと思う人はいるのかも知れませんが、ほとんどの家が掲げていない中で掲げるのは気おくれがして、できない人もいるのでしょう。とはいえ、揚げている家がないのは寂しいものです。

祭日に国旗を掲げることは本来あたり前のことでした。この慣習を復活させるには、勇気を持って少数の人が揚げ続ける運動をするしかないと思います。

ところで、今日これほど内外に問題が山積している中、国民が心を一つにして日本を復興させ国家のゆく道を明るいものに盛り上げる努力をするための、その精神的支柱とも言うべき御存在があるとすれば、天皇陛下を於いてほかにありません。

その天皇陛下のお誕生日をお祝いする日に、国中に日の丸が飜えらないなどおかしいのではないでしょうか。国民として日の丸を掲げにくい雰囲気を創り上げてきたのは、日教組であり、左翼言論人たちです。愛国心を悪いもののように教え、天皇陛下を尊崇することを冷ややかな目で見るようなそんな進歩的文化人を多くもてはやしたマスコミの責任です。

日本の敗戦後の占領下で、マスコミは占領軍によって利用され、占領軍の意を受けた機関となりました。以来共産主義者や、占領軍や戦後の時代に阿(おもね)る進歩的文化人たちで牛耳られ、その時の体制がいまも続いています。

松浦光修先生のコラムに、今上陛下が戦後ずっとそうした占領体制と戦ってこられたことが書いてあります。以下にその一部を転載いたします。

 

転載開始

 「仁者に敵なし」

 話を、去る十一月十二日(御在位二十年式典の時)の、東京の皇居前広場での両陛下の御尊顔に戻します。なぜ、両陛下はあれほど「我が御心すがすがし」という、ご表情でいらっしゃったのか、ということです。
それは、やはり長い“戦い”を正々堂々と戦い抜いてこられたからではないか、と思うのです。

 昨年私は『日本人として知っておきたい皇室のこと』(PHP研究所)という本の中で「日本は天皇の“祈り”に護られている」という一文を書きましたが、その中でこんなことを書いています。

“占 領遺制”という毒素そのものは、占領中から何一つ除去されていません。したがって、あるいは皇室にとって戦後という時代は、戦国時代以上に厳しい時代なの かもしれません。そうであるにもかかわらず、私たちが戦後六十年以上を経た今もなお“御聖徳”をありがたく仰ぐことができるのは、なぜでしょう?それは、 ひとえに歴代天皇の並外れた御力によって、その“毒素”が“解毒”され続けてきたからなのではなおでしょうか。

 私は皇室にとって今という時代は、ほんとうに「戦国時代以上」に過酷な時代だと思っています。
例えば、私たちがご即位二十年を寿いでいた時、マスコミはそれについてどのような報道をしていたか、ご存知ですか?
 
 皇居前広場で行われた国民祭典の翌朝のNHKニュースなど、ひどいというより、犯罪的とさえいってよい内容でした。皇室に対する無礼きわまりない世論調査をして、その結果を延々とやっていたのです。
「天皇陛下が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うかと尋ねたところ、『十分に果たしている』が四十八%・・・」などとやっているのです。
皇室は政党ではありません。支持率でどうこうしてよいものではないし、またしてはいけないものです。
 
 また、これは女性週間誌に載っていたことですが、どこかのマスコミが「将来の天皇は、愛子様がいいと思うか、悠仁様がいいと思うか」などというアンケートをやっていて、それを皇后様がご覧になって「なんということを」と、つぶやかれた、という話が伝えられています。
皇室は芸能人ではありません。

 まことに無礼千万です。
たとえば、ある家の後継ぎについて、長女がいいか、長男がいいかなどと、世論調査をやって、それをマスコミが報道したら、これは明らかにプライバシーの侵害にあたるでしょうが、庶民の家にさえやってはいけないような無礼ごとを、今のマスコミは皇室に対してするのです。

 今のマスコミが、ひいては戦後社会がどれだけ皇室に無礼をはたらいているのか、例をあげていけばきりがありません。
それもこれも、戦後の反天皇教育が六十年以上も続いた結果です。

 しかし、両陛下はそんな時代にもひたすら耐え、耐えるというだけでなく、むしろその無礼極まりない国民に対しても、限りない愛情をそそいでこられました。考えてみれば、すごいことです。
そ れに比べてみると、私たちは甘えているのではないでしょうか。今の時代と戦い続けているうち、ともすれば私たちは「自分たちのことを、みんな解ってくれな い」などとグチをこぼしがちです。しかし、両陛下は自分たちに対して無礼な人々、攻撃的な人々にグチをこぼすこともされず。それどころか、これまでひたす ら惜しみなく愛を注いでこられたのです。

 私たちには、とてもできないことです。そのような両陛下のご姿勢は、まさに「戦い」と表現せざるをえません。私たちの苦労など、両陛下のそのようなご苦労に比べたら万分の一にすぎません。

 儒教の有名な経典の一つに『孟子』というものがあります。吉田松陰などが愛読していたところで知られています。
そこに、こういう言葉があります。そこに、こういう言葉があります。私は、両陛下のお姿を拝見するたびに、この言葉を思い出すのですが、それは次のとおりごく短い言葉です

 仁者に敵なし

 「仁」というのは、現代の言葉でいえば、「愛」にあたります。「愛あるものには、そもそも敵というものが存在しない」、つまり愛を以って、万人に対する者には敵がいない、というような意味です。
ここにある「仁」という文字、これは天皇のお名前に、あるいは男子の皇族方のお名前にしばしば使われている文字であることは、皆さんご存知の通りです。両陛下はこの言葉「仁者に敵なし」という言葉を、本当に体言されて、と私などはしばしば痛感しています。
それでは、その陛下の「戦い」はいつ始まったのでしょう。
私はすでに少年時代からはじまっていたのではないか、と思っています。 


 今上陛下の“戦い”

 今上陛下は、大東亜戦争の戦闘終結の年、昭和二十年に「新日本の建設」という作文をお書きになり、それが公にされています。時に陛下は学習院初等科六年生、十一歳であらせられました。その作文には次のような一節があります。

  今上陛下、学習院初等科六年生(十一歳)の作文「新日本の建設」

 「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことをいってくるかわかりません。これからは苦しいこと、つらい事が、どの位あるかわかりません。 どんなに苦しくなっても、このどん底からはひ上がらなければなりません。・・・
今までは勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それも皆、私の双肩にかかっているのです。
それには、先生方、傳育官のいふ事を、よく聞いて実行し、どんな苦しさにも、たへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしっかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかねばならないと思ひます」   (木下道雄『側近日誌』)


  ここで注目すべきは「それも皆、私の双肩にかかっているのです」「明治天皇のやうに皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならない」とい う箇所です。明らかに、もうこの時点で陛下は「戦後」という時代に対する「戦い」の覚悟を、そしてその「戦い」の先頭にまず自らが立つというご決意を固め ていらっしゃることがうかがわれます。
 
 「戦後」という時代の現実は、まるでそのご覚悟を試すかのように、厳しいものでした。占領軍は 皇室を支える法的仕組み、制度的な仕組み、経済的な仕組み、教育的な仕組みなどを、こぞって解体し、独立後もその占領軍がつくった枠組みを死守する勢力が 日本の中枢を占め、皇室解体をもくろむ政治家、言論人、教育者、官僚、学者司法関係者などが、まるでいくつもの連合艦隊を組んで襲い続けているかのような 時代だからです。

 

転載終わり

 


平成3年 アムステルダム市長のスピーチ「誇り」 、大東亜解放の戦争

2011年12月23日 01時10分32秒 | 歴史
この記事も美しい国からの転載です。
当時このアムステルダム市長のスピーチを聞いて、オランダにこのような市長さんがいらっしゃるということに驚いたものです。そして、第二次大戦での日本の戦いの真実を分かる人は、ちゃんとわかっているのだと思ったものです。
それなのに、一番わかってないのが、日本の国民であり、政治家です。占領政策によって、勝者に都合良く作り変えられた歴史をそのままを鵜呑みにして信じて、自虐史観をもって自分の国を冷ややかな目で見、ペコペコと謝罪を繰り返し、自分は如何にも悔い改めた敬虔な人間であるような顔をして、上面ばかりで知ったかのように思い込む人々の欺瞞が、時には浅ましく感じられて、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック  元上院議員の「かつて日本は清らかで美しかった」という詩などを読むと、本当に悲しくなってしまいます。

アムステルダムの光芒【照らされた日本の誇り】


大東亜戦争で我国が戦った国は、朝鮮半島の国家でも中国共産党でもありません。政権未承認交戦国も含めて交戦国は合計52ヶ国です。
中華人民共和国 の国家成立は昭和24年、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の国家成立はそれぞれ、昭和23年です。

下記にご紹介するオランダとは、昭和16年12月10日に交戦状態に入っています。
平成3年に日本傷病軍人会代表団がオランダを訪問した際の、アムステルダム市長の歓迎のスピーチです。
多くの ブログ文献等で紹介されていますが、これが真実です。

以下に全文引用します。

アムステルダム市長のスピーチ

貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。
今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。 私たちオランダはその間屈辱の連続でした。 勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。
戦前のオランダは、アジアに本国の36倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。
あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。
何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
本当は私共白人が悪いのです。
百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。
植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。
日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。 即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。 その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。
日本の功績は偉大です。 血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。
 


自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。


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日本軍は、戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作りました。
日本人の武士道精神を表した写真です。

山東戦線の彰徳で墓標を建て慰霊祭を営んだ。(「中国無名戦士の墓」)昭和13年


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「孟子廟に参拝する日本軍人の心得」
 
1、孟子は孔子と共に支那人の最も崇拝する偉人である。
  我々、日本人にとっても精神的文化の恩人である。
 
2、参拝する者は、故国において神社
  仏閣に参拝すると同様の心得を持って慎み深く行動すること。
 
3、模範的行動が皇軍の名誉を発揚し支那民衆に
  日本軍が親しまれる力となることを忘るべからず


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現地市民の間でも日本軍は、規律に厳正で
シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。

 中国人の子供を中心に正月万歳(昭和13年)



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日本軍部隊へ毎日来て遊ぶ中国人の子供(天津)



大 東亜戦争後、日本人は自信を失いました。占領政策によって勝者の歴史観、価値観を押し付けられました。戦後66年祖国の素晴らしさ、民族の素晴らしさを教 えず、過去の行いの悪い部分ばかりを、捏造、誇張して教えてきました。こんないい加減な教育では、誇りが育つどころか、誇りを傷つけていくばかりです。誇 りを失った人間は、恥を知らず、名誉を大切にしない。周囲の目や他者の評価に無頓着になり、だらしのない人間になり、無責任で自己中心となります。または 自虐的で、自嘲的ともなるのです。
またこれら、誇りを持たない人々が政治家となり、指導者となり、拍車をかけているように思います。
   
 
戦 後の我国では、誇りある歴史が教えられてきませんでした。占領下でそれまで日本人が持っていた歴史観が否定されました。その歴史観とは、神話の時代から2 千年以上もこの国で生きてきた民族の歴史である。ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶と言語を一定期間奪えばよいと言われています。ここにいう記憶とは 歴史です。歴史を伝承する言語、民族固有の歴史観を奪えば、その民族はやがて滅亡します。
戦 後の日本人には、占領後すぐ、連合国の立場による「太平洋戦争史観」が植え付けられました。新聞に連載され、全国の学校に本が配付されて教え込まれ、ラジ オなどでドラマ化されて、『真相はこうだ』という番組で全国に放送されました。極東軍事裁判の判決を是とする東京裁判史観が、それを補強し、戦後の歴史教 育のもとになっています。
 
大東亜戦争を、太平洋戦争と呼ぶのもこの為です。だから、これまでの歴史教育の内容を改め、誇りある歴史を教えることが必要であり、急務なのです。
国 の真実の歴史をを教え、誇りをもてるようにしないと、国民は精神的にだめになってしまうでしょう。自国の歴史や伝統に誇りを持つことは、祖先への尊敬や感 謝を持つことにつながり、子供たちは、自分の命が祖先から受け継がれてきたものだと感じます。自分の存在は、祖先のおかげだと気づく。それによって、自分 が生まれてきた意味、生きていく目的、自分の担うべき役割を理解することができる。そこに、人への思いやりや、助け合いの心が育つのです。 
 
日本に生まれてよかった、日本人に生まれてよかったという感情を持つにいたると、自ずと誇りが生まれてきます。そして、日本人のよさを保とう、誉れを保とう、名を汚してはならないという「意思」が生まれてきます。
知れば知るほど、日本という祖国に誇りがこみ上げてくるのです。


日本は素晴らしい国です。平成3年 アムステルダム市長のスピーチがそれを語っています。
「私たちは日本人です。」


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転載元 転載元: 美しい国



 


伊勢の神宮、式年遷宮が伝える日本民族の文化と生命の甦り

2011年12月22日 23時38分23秒 | 歴史

美しい国からの転載です。伊勢神宮の式年遷宮は、20年ごとに内宮、外宮のお社を建て替える行事です。これは1300年も前から行われているお祭りです。心を込めて、一つ一つの作業が行われ、柱となる木材を運ぶ「御木曳(おきひき)」と呼ばれる行事など、多くの人々が民族の神聖な祭りに参加する喜びでわきかえります。日本の、神道の清浄感、明朗さ、その極みを感じるようなお祭りです。記事の文章や、動画から、日本民族の感性のかたちが伝わってくるような気がします。



 

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新たに造り替えられ、白く輝く内宮の御正殿(平成五年の第六十一回式年遷宮で)



来る平成二十五年には第六十二回目の御遷宮が行われます。
神宮式年遷宮 は二十年ごとの日本民族の再生を意味します。
神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超えて、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
  式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の御代四年に皇大神宮の第一回目の 御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には(室町・戦国時代)に一時の中断はありましたが、二十年に一度繰り返され今日に至っています

遷宮とは、上記の画像のように、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。
式年とは定められた年を意味し、神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。


明治天皇陛下の御代のことです。当時の芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏(じょうそう)しました。
しかし、明治天皇陛下は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きあそばされたのです。
明治天皇陛下は次のような御製(ぎょせい)をお詠みあそばされた。

 いにしへの姿のままにあらためぬ
神のやしろぞたふとかりける

 この式年遷宮の制度こそは、天武天皇が崇高なご精神でお定めになって以来、万代不易の制度として伝えてゆかねばなりません。
式年遷宮の制度が確立された時代の歴史的な背景は、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた遣唐使などによる文明開化の花盛りの時代でした。。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度でした。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているのです。

神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていたほど、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラ ミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、 しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消 滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくとい う努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久 しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。

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明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた宇治橋、昭和24年に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。別名御裳濯橋(みもすそばし)ともいいます。



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平成21年11月3日、宇治橋渡始式、渡女は三世代健在の一族の女主人が務められま した。これは長命を寿(ほとと)ぎ、三世代であることが和合を意味する呪い(まじない)である。参列員は全国の三代夫婦61組である。写真の先頭あたりを 歩かれる緋袴の方が齢81歳の渡女(わたりめ)です。伊勢在住で、三世代健在でお孫さんまで参列できる崇敬心篤い人が選ばれました。



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宇治橋渡始式での神宮御祭主、池田厚子さま。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)殿下、畏くも今上陛下の姉にあたられます。




「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。
式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに
日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。

先に述べましたが、式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りで す。しかし、戦後は神道指令により、政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。今回の第六十二 回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しています。
  神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置され、さらに「(財)伊勢神宮式年遷 宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。この記事をご覧の皆様の地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協 力をお願い致します。


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式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮。
遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまり、なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は 二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったそうですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難に なっていとのことです。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術 的な伝承についても考えなければならない時代にもなっています。

上記でも述べましたが、
式年遷宮には約八百種、 千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に 調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も 少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であり、先人の叡智、魂をも継承することです。

「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、平成二十五年十月の「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。


「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。 「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができ る行事です。



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「御木曳(おきひき)」 旧 神領にあたる伊勢市・二見町・御薗村の住民が2ヶ月間にわたり御用材を両宮に曳き入れる盛大な行事。旧神領地の町内総出の晴れの舞台で、数日前に揃いの法 被姿で二見浦に「浜参宮」をして心身を清めて行事に臨む。内宮の領民は木橇に御用材を積載して五十鈴川で「川曳き」を行い、外宮の領民は巨大な御木曳車で 「陸曳き」を行う。全国の「一日神領民」も多数参加し、期間中の伊勢の街は勇壮な掛け声と木遣音頭で包まれる。前回は翌年の第二次御木曳行事とあわせ20 万人が参加した。





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「御白石持(おしらいしもち)」  完成した正殿が建つ御 敷地に敷く白石を奉献する行事。御木曳行事と同様に、旧神領の住民が揃いの法被姿で「浜参宮」の後、内宮は川曳き、外宮は陸曳きで御白石を運び、御敷地に 奉献する。「御木曳行事」と同様、地元の旧神領民に加え、全国の「一日神領民」も参加する。前回(平成5年)は21万人が参加しました。



本ブログにも転載させていただきました、さくらの花びら大兄の「大切な日」には、日本人として忘れてはならない祝祭日についての本義が述べられていました。
そして、神宮の
「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を始めとする祭祀も氏神さまの祭りもその本義を日本人としては忘れてはならないでしょう。
太古の昔より、連綿と紡(つむ)いできた伝統と、魂なのですから・・・






(1/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―







(2/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―









転載元 転載元: 美しい国