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昭和天皇とマッカーサー

2012年05月18日 11時40分13秒 | 歴史

「かつて日本は美しかった」から、昭和天皇とマッカーサーについての記事を二つ転載です。

マッカーサーという人物に関しては、昭和天皇に出会ってからは、日本に少しづつ好意を持つようになり、日本は自衛のための戦争をしたのだと言ったりして日本を擁護する発言もしていますが、本来は非常に人種差別意識も強く、かなり傲慢な人物だったようです。昭和天皇との会見の前に写した写真にも、その意識が現れています。

そんなマッカーサーという人間を感動させたのですから、昭和天皇がいかに人徳の高いお方だったかがわかります。昭和天皇のお人柄は、もうまとわれる雰囲気にも強く現れており、格別だったということです。もっとも天皇とは皆そういう存在のようで、今上陛下にお会いした人も同様に言います。

昭和天皇のご生前に、各国大使がお別れの挨拶に皇居にお尋ねした時には、大使夫妻が昭和天皇との別れを惜しんで、特に夫人が泣き崩れることも多く、それにつられて大使も泣き始めて、夫婦で、振り返り振り返り退室するなどという光景も多かったと、入江元侍従長が話しておられました。

そのような御徳をそなえた方にして、マッカーサーという人種差別意識のある人間を感動させることが出来たのではないでしょうか。

 

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談

伝統によって育まれた品格。

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  添付の写真を見たことのある人も多いでしょう。この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に 挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されまし た。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

  この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。

作家 高見順
「かかる写真はまことに古今未曾有」

歌人 斉藤茂吉
「ウヌ!マッカーサーノ野郎」

  しかし、皇太子殿下(今上天皇)とご学友は奥日光に疎開していましたが、この写真を見るなり口々にこう叫んだというのです。

「日本が勝った!」
「マッカーサーはネクタイもしないで礼儀をしらない!」
「成り上がりの田舎っぺ!」
「アメリカはあの程度の国か!」
「日本は礼節の国だぞ!」

  皇太子殿下の前なのでご学友が気を使ったとも考えられますが、よく考えると皇太子殿下やご学友の感想は的を射ていると思います。といいますのは、日露戦争 の旅順戦の水師営で行われた乃木希典・ステッセル会談を思い浮かべるからです。水師営で乃木将軍は敗軍の将にも帯刀を許し、最大限の礼をもって迎えていま す。会見写真は一枚も撮らせませんでした。このことは世界を驚愕させました。これは明治天皇の指示によるものです。当 然、大東亜戦争当時も日本はこの精神を継続しています。ちなみに、マッカーサーの父は旅順戦に観戦武官としていましたので、マッカーサーはこの話を父から 聞いているはずですが、何も学習していないと言えます。対して昭和天皇は乃木将軍より教育を受けています。

  日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など 礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉え た写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです。マッカーサーは昭和天皇が命乞いにきたと思っていました。

昭和天皇「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(マッカーサー回想記)

 この会見の内容は口外しない約束でしたが、マッカーサーはベラベラしゃべりました。昭和天皇は昭和52年(1977年)に記者からマッカーサーとの会見内容について聞かれ、「マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした」「男子の一言は守らなければならない」とお答えになり、生涯口外することはありませんでした。

昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter

 

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1

 

 

昭和天皇とマッカーサーは親密だったのか

昭和天皇が国民に語りたかったこと。

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  昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄 関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井 御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやか にご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどという のを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
  訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離 にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。

  明らかに昭和天皇はマッカーサーを拒否しています。

  昭和天皇はこのときの訪米を前に外国人記者団とこんなやりとりをしています。
記者
「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下
「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下
「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下
「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下
「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

  私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。

「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
  昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

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【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2

 



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