旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 6

2013-03-21 23:33:52 | 特別支援教育


「楽しさを味わう」という授業の目標について、本書では以下のように書かれていました。

P143
「本来、「楽しさを味わう」という授業の目標は決して不適切なものではない。

授業における「楽しさ」の感情体験は何かが「分かる」という知的活動と結びついているはずであり、
知的活動と情意的活動の統合的な目標として正当に位置づけられるべきである。

その際、「楽しさ」という言葉がスローガン的に無限定に使用されたり、情緒的であいまいな印象を残すことがないように、
授業の何が分かり、なにを楽しいと感じるのか、それは子どもの発達的力量とどのように関連するのかについて精細な検討を経る必要があろう。

 「楽しさ」という教育目標については、その内実を深め、題材との関連を正しく位置づけることによって、授業の豊かさをもたらすものである。

子どもの内面的世界を表現する用語を、まるで言葉狩りのように排斥することは、教育研究への熱意を枯渇させるものでしかない。」


 実にそうですね、そうでしょう。

 以下の文章は5月にこのブログに書いた内容です。問題意識としてかなり重なる部分が多いと思いました。長いけどもう一度。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 個別の指導計画で詳細の指導のねらいや手立てを記載するようになって、そこに「楽しむ」というねらいを書くと、
「楽しむ」というのはねらいとしては適切ではないからということで、書き直しの指導や指示がされる場合があったと聞きます。

 私自身のことではなく伝聞で、現状がどのようになっているかはわかりませんが。

 どうなんでしょうね。「楽しむ」というのは、ねらいとしては適切ではないのでしょうか。

 結論から言えば「楽しむ」というのはねらいとして適切ではないどころか、特別支援学校における極めて重要なねらいの中心の一つなのではないでしょうか。

 学校が楽しくなくてどうする?、学校生活が楽しいものでなくてどうするのでしょうか?。

 学校というのは、何か厳しい訓練だか練習だかを黙々とやって、その取り組んでいることができるようになったらそれでいいのでしょうか?。それがねらいの中心なのか?。

 じゃあ、毎日、何か楽しいことばかりをして、ニコニコ笑って過ごせたら、それでいいの?。それで「楽しむ」ということが達成されていたらいいの?。

 と、まあ、わざと極論というか、単純化させて書きましたが。

 つまりは「楽しむ」というのは、基本的にとても大切なねらいであり、視点であり、大事にしなければいけないことである。だから、ねらいとして極めて重要である。

 だけど、個々の子どもたちにとって、ただ「楽しむ」というねらいを達成して、評価が「楽しめた」、これでは中味、意味が全然わからない。

 じゃあ、どうするかというと、個々の子ども、その子どもにとって「楽しむ」というのはどういうことなのか?。その中味、内容はなんなのかということをまず考え、
次の、ある授業で「楽しむ」というねらいを設定するのであれば、その授業の中でその子にとって「楽しむ」というのはどんなことなのかを具体的にし、
当然、それにそった具体的な内容が設定されていなければなない。

 そうじゃなかったら「楽しむ」というねらいは、ねらいとしては適切ではなくなってしまいます。

 例えば、まず、強い緊張が入ったり、泣くことが続いたり、深く寝てしまったりして、なかなかいろいろなはたらきかけをゆったりと受け止められないことか多い子どもさんだったら、まず適度に覚醒し落ち着いた状態で様々なはたらきかけをうけとめてほしいわけですね。

 それが、この子どもにとっての「楽しむ」ということ。

 だったら、それは「楽しむ」ではなくて、その授業の中で、あるいは日課の中で取り組んでいることそのものをねらいとして記述したらいいやん。

 いや、それでもいいのですけど、というか、、その授業では具体的にはそうなるのですけど、そうして落ち着いてはたらきかけを受け止めるところから、
この子に「これが心地いい」「これが緊張せずに受け止められる。」「これが面白い。」「これが好き。」っていうところに広げていきたい、そういうふうに進めていきたいわけです。

 で、そういうものが確立とまではいかなくても、そうした芽が見えてきたら、それはやはりその子にとっての「楽しむ」ということになるだろうと。

 だから、大きな意味で「楽しむ」というのはねらいとしては、はずせないというか、、基本的に大事にする点なのですよ、となるわけです。

後略
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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

2013-03-21 23:07:19 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

 第四章では、京都市の養護学校の事例も取り上げられています。

 京都市の養護学校の研究発表については私自身も聞きに行かせてもらいました。

 その率直な感想を言えば「なんと、まあ、わかりにくくて、ややこしい」ということでした。

 「右回りスパイラル構造仮説」と、まあ、この言葉がもうわからんのだけれど、教育課程そのものが非常に複雑になっているなぁと感じるところがありました。

 まず、クラスは学年制です。学年制そのものがいいかわるいかは一概には言えません。

 相当の児童・生徒数があり、学年制にしても、それなりに障害や発達の状況に即した基礎集団の編成というのが可能であれば、これは別に日常的な教育課程の編成にそんなに「悪影響」は及ぼさないかもしれません。

 また、小学部段階でも、生活年齢への配慮は必要な部分があり、できれば、いくら発達・障害の実態が似通っているとしても、小学部に入学したばかりの児童と卒業をひかえた6年の児童はできれば基礎集団は違っていた方がいいとも思います。

 が、クラスを学年制にすることを画一的にすすめるとどういうことになるか。

 重度の肢体不自由の児童・生徒と自閉性障害の児童・生徒の教育目標や具体的な教育内容は当然異なります。

 となると、実際の授業は、授業ごとに比較的課題か近い児童・生徒の集団をつくってすすめるということにならざるをえない。

 あるいは、教員がつけるのであれば、個別の指導形態をとるかです。

 となると、それぞれの授業ごとでそこの指導を担当する教員というのは当然固定しなければいけません。

 ということは、そのクラスの担任であっても、その子の様子を直接見られない、指導にあたれない時間が多くなるということにもなります。

 なにも、必ずベターッと1日、特定の教員が特定の児童・生徒の担当をしなければならないということはありません(ある時期にはそうしたことが必要というか、した方がいいと思われる場合、あるいはそうした児童・生徒もあるとは思いますが)>

しかし、とりわけ「重度」の子どもたちの場合は、相当程度、クラス担任か直接指導にあたる時間というのが中心になっていた方が、様々な意味で適切だろうと思います。

 いわば、中学校の教科のように、授業ごとに教員が異なるような教育課程のあり方というのは、時間割がどうこうということも含めて、ちょっと様々な意味で大変さがあるだろう、もっと率直に言ってしまえばよくないだろうと私自身は思います。

 

 さて、本書の中で、「重度」の子どもらの授業具体的な一週間の授業についての説明があります。

 本書の中でふれられている事例は曜日によって取り組む内容が異なる形になっています。

 なかなか一般化して言うことは難しいなと思うのですが、ザックリした言い方で言えば「乳児期前半」あるいは「乳児期前半から後半」の発達課題を持つ子どもたちについては、
私はこうした曜日により取り組む内容が異なる授業の設定よりは、一週間の中で例えば4回などの回数、基本的に同じ展開の授業を繰り返す、そして、それを相当程度、例えば3週間とか4週間とか、繰り返す形というのもある、そのメリットというのもあると思っています。

 どちらかといえば、この方がいいのではないかとも思います。

 これが乳児期後半から1歳半となると、曜日によって異なった授業を行う形でもいいと思うのですが。

 ただ、曜日ごとに授業が違っているとしても、その各曜日の授業そのものは、毎回毎回違った中味ではなく一定の定まった内容(無論、実際に授業をしながらその内容は少しずつよいと思う方へ改善していくのですが)を繰り返す形となっているのが普通でしょう。
 これは「縦に帯」状の授業の設定。一定期間、連続して同じ授業を継続していくのは「横に帯」の設定。このあたりは、子どもの実態に即して、どういう形がいいのか、検討、工夫がいると思います。

 また、授業をどういうものとして整理するかというのもなかなか難しい。

 本書では「からだ」「しぜん」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「小学部全体音楽」という具体例が示されています。
 月から金、3時間目の授業として設定されているものです。

 こうした整理のしかたというのは各学校によりいろんな違いがあります。それは、それぞれの学校のハード面、ソフト面等の様々な教育条件によって規定されているところもありますし、また、それぞれの学校での検討、研究の経過の中で整理がされてきたところもあります。

 なので、そのような条件の違いや研究の背景の違いがある、またそれらを学習指導要領上どう位置づけるかというのにも違いがある中で、うまく噛み合った実りのある議論というのをするというのはなかなか難しいです。

 というか、私自身がうまく整理ができなかったので、研究会などでは、こうした議論は「それはちょっとおいといて」と避けていました。

 まあ、こうした授業の位置づけは異なっていても、実際の授業そのものは(少なくとも一見は)似通ったものになる場合が多いようには思うのですが。


 

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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 4

2013-03-21 22:25:20 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 4

 「重症心身障害児」の子どもたちとつきあってきて感じることは、以下のような本書の指摘と重なります。

 これは実は「重心」に限らないでしょう。

P120
「これらの事実が指し示すものは、人間の感情、知的活動は「だれでもが客観的に観察しうる外的活動」に限られるものではないということである。
 重症児に関わる多くの実践家が実感するように、「私たちが『分かっている』以上に、この子たちは『わかっている』のである。」

P121
「子どもの感情、知的活動を、あらかじめ行動的用語として評価基準に設定することは、自ずから限界がある。
 障害があることによって、内的欲求と外的行動の間に矛盾が生じやすく、迷い、ためらい、あきらめなど、行動生起を阻害する要因が発生する。
 常にそれと向き合っている子ども。この姿を理解することこそが、教育評価の基礎となるものだ。」

P127
「障害児教育における教育目標、教育評価を問題とする場合、何よりも大切なことは、この「伝えたいもの」の切実さである。
 授業における教育目標=「伝えたいもの」は学習指導要領においてその大綱が示されているが、
 障害児の場合は、日々の授業のねらいが学習指導要領から演繹的にみちびきだされるわけではない。
 子どもたちを目の前にして、教師たちが自らの言葉で語りきる「伝えたいもの」の切実さこそが、授業を支えるのである。」

とても重要な指摘だと思います。









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東電 クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)

2013-03-21 21:56:09 | 株式投資・資産運用
 ロイターのサイトを見ますと、
 電力債(東電)5年のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)は280─300bp。
 となっています。

「社債投資まとめ」のブログは時々見せてもらうのですが、ここに外国、企業等のCDSの値が載ってます。


 ここで見ますと、東電のCDSはイタリア、スペイン、ポルトガルといった財政的に厳しいと言われる南欧諸国とほぼ同じです。

 つまりは、マーケット的には、東電債はこうした南欧諸国の国債を買っているのと同列ということか。

 やはり、感覚的にはこれは不快感はあります。しかも、東電債はポジジョンが1000万と大きい。これは金融資産全体の、どうだう、8%程度にはなりますか。

 リスクを取らなければリターンは低いわけですが、やはりこれはちょっと適切とは言いがたい。100万、200万なら、まだわかりますけど・・。

 ということで、売却?。
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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3

2013-03-21 19:14:21 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3

 一応、通読しました。

 その上でもう一度読み返しています。

 第四章 教育目標、教育評価論
 1 重症心身障害児の教育をどうとらえるか

 ここのところは、自分自身が長く「重症心身障害児」と言われる子どもたち(言葉としてはあまり好きではないけど)と関わってきたので、感覚としてはよくわかります。

 集団指導体制への批判、教育目標の「客観化」、教育形態の個別化などについては、京都で、もう随分以前からあちこちで言われてきています。

 25年ぐらい前には「集団指導体制への批判」はもういっぱいありましたから。

 集団指導体制について。

 集団指導体制については、その批判の基本は、いわば「無責任」体制だというわけです。

 そうだろうか?。クラスの指導を教師集団でしていたら、それはその形をとることで、子どもに対する責任が拡散してしまうでしょうか。

 そんな馬鹿なことはないわけでね。

 むしろ、集団指導体制を生かすことが求められているわけです。

 個々の児童・生徒の指導について、誰が責任を持つのかということは明確にしておく必要があります。
 多くは個別の指導計画を中心になって作成する担任がそれにあたるでしょう。

 同じクラスの中でも、A君とB君はC先生が、D君とEさんはF先生が中心的な担当になるというのは普通です。

 ですが、その中心的な担当になる先生に、なにもかもまかせるような形ではなく、集団指導体制の中で、それぞれの子どもたちのの実態や課題、評価について複数の目で意見を出し合い、事実に近づくようにしていくことが適当です。

 一人の担任だけがなんでもするよりも、対等の立場で様々な意見、見方が出される方がいいに決まっていると私は経験的にも思います。

 個々の教員の経験や力量には当然、差があります。そうした場合、集団指導体制をとっている中で、特定の「できる」教員に負担が集中するような傾向になる場合があります。これが極端になると、なかなかしんどい状況が生じたりすることも現実としてあります。

 が、個々の教員のキャラクター、得意なこと、苦手なこと、様々な条件などを考慮しつつ生かし、その中でよりベターな形を追求していくことの方が、単純な「個人責任」的な役割分担よりも優れた教育実践をつくっていくことにつながると思います。

 このことは、極端に「誤った」教育実践を避けることができるというメリットもあります。

 その形は可能な様々な条件の中での具体的な「人」によって決まるので、あらかじめ、「こうするのがよい」と画一的に規定することは適当ではありません。

 逆に、あらかじめ、同じクラスの子どもたちとを指導するのに「担任」と「副担」を決めて、主たる仕事、責任は「担任」が担い、「副担」は周辺の補助的な仕事をするような役割分担は、一見、明快でわかりやすいようでいて、「担任」「副担」双方にとって教員としての幅広い経験や成長を阻害することにつながる場合があると思います。
 (同時に場合によっては集団指導体制の中でも前述したような問題点が生じることはあります)。

 とりわけ、若い教員の場合は、あまり年齢だけで云々するのもどうかというところもありますが、組織の中で細分化された特定の分野の専門的な役割を担うというよりは、幅広い仕事を(できれば、障害種別についても異なった実態の子どもたちの教育を担当することも含めて)経験してほしいと思います。

 それがその後に生きるところはかなりある。その上で、個々の教員の専門性なり興味・関心なり、志向性によって、より適切な仕事内容を担当するようにしていくのがいいと思います。







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なんだよー、100万儲かってたやん!

2013-03-21 18:25:28 | 株式投資・資産運用
なんだよー、100万儲かってたやん!

 直近で売却したファルテック、ストップ高を含み、終値は5150円と大幅に上昇。

 となると、どうしても「なんだよー、持ってれば100万以上儲かってたやん!」という気持ちがわいてきます。

 それは事実そのとおりで、こういう感情になるのも当然ではあります。

 が、1000株のポジジョンで、休日を含むオーバーナイトのリスクをとっていたかといえば、それはやはり相当に抵抗感があります。

 こういうリスク、気持ち的には不快感を乗り越えられた方はその報酬があったということですね。

 人は基本的にはリスクを回避するように行動する傾向が強いでしょう。

 また、金額が同じだとしたら、利益が得られた喜びよりも損失の苦痛の方が大きく感じるというのも、
 確実な1万円の利益と1/2の確率で0か2万円の利益の場合だと確実な1万円の方を取る人が多いのも、
(逆に確実に1万円損するか、0か2万円の損か1/2の確率ならば後者を選ぶ方が多くなる)
 人の心理的行動としては常識的なもので、こうした考え方は行動ファイナンスの基礎にもなってます。

 だから、個人投資家がよく小幅なところで利食いしてしまい、あとで「なんだよー」と思うのは、まあ、普通といえば普通です。

 傾向としては9回小さく勝ってそれを1回の大敗で吐き出すようなことが多く、逆に小さく9回負けてそれを1回の大勝で取り戻すようなスタンスというのは、とるのが難しいです。

 そもそも、私自身の場合は外国株も含めて2000万程度のポートフォリオは維持しているわけで、そういうリスクはとっているわけです。
 今日も日本株ポートフォリオは指数なみに続伸し+20万強の上昇です。

 時には、勝算ありと見ればわかってリスクを取りに行くこともあってよいでしょう。

 が、できもしないこと、やりもしないことを考えて「たら・れば」でイライラするのは、やはりつまらないです。

 何事も、いい方に考えた方がいいし、気楽に、楽しく行きたいものです。ということで、人は自分の行動を合理化します(^_^;)。

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