旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

2019.4.22以降、新規の主要な記事は新サイト「fusiminohikaru.net」
で書いています。 

アゲハチョウの羽化&金糸梅

2018-06-02 07:56:10 | 特別支援教育
奥さんが育てているレモンの木にアゲハチョウが卵を産み付け、その幼虫が出てくるので、
去年から、それを別にプラスチックケースにうつし、葉っぱを補給したりして育ててみています。

 昨日、二羽、蛹から羽化して出てきました。










羽化の瞬間は見られませんでした。わりと短い時間、数分で出てくるみたいです。
その後、最初はまがっていた羽根がまっすぐに、きれいに伸びていき、そして飛び立っていきました。

まあ、蝶の幼虫の飼育って、小学生がすることみたいですが、
この小さい幼虫の中に、脱皮して、さなぎになって、羽化して、そういうプログラムがすべて組み込まれた
情報がはいっていて、短い時間の間にそれが進んでいく様子というのは、今更ながらですが、生命の不思議
のようなものをあらためて実感しました。

こちら、道路に面したところにある金糸梅。これはマクロレンズでの撮影に適した花です。
実物よりも写真の方が綺麗に見えます。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤフーニュース 「医療的ケア児」1.7万人――保護者らの胸のうち

2018-01-30 00:49:35 | 特別支援教育
「医療的ケア児」1.7万人――保護者らの胸のうち


 私たちが現場でバタバタと動いていた頃と比較すれば、様々な制度、仕組み等
は整備、整理をされてきたとは思います。全体として、それはよい方向ではあるのでしょう。

 が、個々の子どもたちや保護者が抱えている課題や希望はそれぞれ異なります。

 居住している都道府県、市町村、あるいは個々の学校や支援の機関の状況等によって
条件、状況が様々に異なっているという面は今もあります。

 このニュース記事は現実にある個別の状況の事例を丁寧にとりあげて、問題提起し
ていると思いました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は「おいも大王」でした

2015-09-29 00:21:32 | 特別支援教育
今日は「おいも大王」でした

 春は、忍者のドン「雲黒斎」、で、一回休みで、今回は「おいも大王」。

 初登場なので、キャラがまだ定まっておりませんが・・・。

 うちの奥さんからは、「また、そんなんやってんの・・・」とのお言葉。

 好き好んではしませんが、別に嫌でもなく、やるからには楽しんでさせていただきましょうという感じです。

 しかし、どうも体力というか運動能力というか、そういうのがだんだんと低下してきているのを実感。

 先週は、ちょっと、せいぜい100-200メートルぐらいですが、疾走しないといけない状況があり、
 その時はそれなりには走れたのだけれど、もうその日の夕方から足がだるい、だるい状態に・・・。
 積極的に鍛えることはもちろん、維持するようなこともできてはいない現状では、これは当然か・・・。

 ちょっとなんかしないといけませんな・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あべのハルカスでお勉強

2015-08-04 17:46:05 | 特別支援教育
 金曜、土曜、月曜と3日間行ってきて、最終日にこんなのを作る演習がありました。

 参加したのはこの講座


 中味はこういうものでした。

 金曜と土曜の中味は専門の方の講義で、参考になることがあれこれありました。

 しかし、講義がいっぱいで、ほぼ聞いているだけなのですが、なかなか集中が続かないです。

 また、京阪と地下鉄、電車で通うのも、そんなにすごく混んでいるということはないのですが、暑さもあり、バテバテでした。

 食事はあべのハルカスの飲食店街で、宮崎の鶏とか、天ぷらとかラーメン・冷麺、カレーなど、あれこれ食べられて楽しかったです。

 あと、今週の木、金と、今度は同志社に行かないといけません。

 ふーっ・・・。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年度の本格的な授業づくり(4)

2015-06-02 21:53:30 | 特別支援教育
新年度の本格的な授業づくり(4)

「知的障害や自閉性障害の子どもたちの授業の場合、授業の中心的な内容やねらいは
なにかを「すること」が中心になりがち。」と前回に書きました。

このこと自体が悪いというか、いけないわけではないです。

この「すること」が、作品づくりなどの作業のような場合、それは同時並行的に授業に参加する子ども
らが一斉に行う場合が多いでしょう。この場合、やはりねらいの焦点化というのが大事になります。

作品づくりそのものに目が向きがちですが、多分、本質的に重要なのはそこではないです。
それを通してなにをねらうのかを明確にしておくことです。

こうした同時並行的に何かをするのではなく、順番に何かをしていく、
例えば、体を動かす活動、遊具での活動などに取り組むという場合もあります。

この場合は、活動そのものもですが、ポイントになるのは、「待ち方」とか「見方」でしょう。
子どもらは自分が活動に参加している時間よりも「待っている」時間の方が長い場合が多いです。

で、この「待っている」時間というのは、単に「待ち」ではない、ねらいとかかわって意図をもった
待ち方、見せ方にする必要があります。

作品そのものとか活動そのもの、その目に見えるところに指導者側の意識もとらわれがちになりますが、
ねらいとかかわって大事にするべきポイントは何かをしっかり考え、おさえたいですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年度の本格的な授業づくり(3)

2015-06-01 22:00:29 | 特別支援教育
新年度の本格的な授業づくり(3)

「みること」「きくこと」と「すること」

これは今日、あらためて感じたのですが、
知的障害や自閉性障害の子どもたちの授業の場合、授業の中心的な内容やねらいは
なにかを「すること」が中心になりがち。

一方、重度の肢体不自由の子どもたちの場合は「みること」「きくこと」等が重点になりがち。

前述したように、こうした単純な現象面だけのねらいというのは浅いなと思うことも多いし、
このねらいは深化させていかないといけない、それは別に難しく考えるということではなく、
極めて単純でシンプルなものでいいと思うのですが、と思うのですが、

子どもたちに「できる」とか「動ける」実態がある場合、そこのところに力点がおかれて、
逆に「みること」「きくこと」「感じること」、そうした受け止めることについては、どうも視点
が弱くなりがちになる。

逆に、自分(一人)ではできることが少なくなりがちな肢体不自由の子どもたちの場合、
「すること」「できること」をあらかじめこちら側が限定的らとらえてしまいがちな傾向が強くなる。

だから、反対に言えば、この弱くなりがちな視点の方を意識的にしっかり考えるようにしてみる、
そういう姿勢、スタンスというのが指導者側、支援者側には求められるのではないかと思います。

幅広い視点で全体を見ながら、実際の指導の場面では、ねらいを絞り込んで焦点化していくこと、
なかなか難しいですが、こういうことを心がけたいものだと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年度の本格的な授業づくり(2)

2015-05-21 23:40:15 | 特別支援教育
新年度の本格的な授業づくり(2)

前回、授業のねらいとして、多くの場合、以下の3つのねらいが成立すると述べました。

・「できる」こと
・「わかる」こと
・「楽しむ」こと

普通に考えて、この3つのことは相互に関連しています。

極めて簡単に言えば、
「わかって」「できた」から「楽しい」とか「嬉しい」とか「面白い」ということになるわけですね。

この場合だと、ベースになるのは「わかる」ということ、つまりここのところを具体的に分析して煮詰めた
ねらいが基本になるように思われます。

ここが弱いと、一見、というか事実その特定の事象については「できる」「できている」のだけれど、
それは、ちょっと何かが変わればもうできない、つまり、本質がとらえられていない、゜わかっていない」
と、汎用性がない。

「楽しむ」とか「楽しい」とかいうねらいは、抽象的であり、具体性に乏しく、ねらいとして適切ではない
といった「批判」がなされたことがあると聞きます。

この「批判」というのは、半分は当たっていて、半分は根本的なところで誤っているように思います。

「楽しむ」というねらいは、個々の子どもによって意味が違うはずです。その子にとって、あるいは、この授業
の中で楽しむというのはどういうことなのか、そこのところが明確になっていないと、評価ができません。
評価の視点をはっきりさせにいといけないということです。これは最初に述べた、3つのねらいの相互関連性と
いうことと関係があります。こうした意味で「楽しい」「楽しむ」といったねらいは、より具体的に深めたものと
して考えておかないといけません。

が、同時に「楽しむ」こと、そのものは、多くの授業では重要なねらいになるはずです。
授業が楽しいものでなくてどうする?、そこに授業の本質的な意味があるのでは?と思います。
これは授業の捉え方にもよる、授業というのはどういうものであるとするかによるのですが。

相互関連的ではない、ねらいの設定というのもありえます。例えば「できる」ということ。

これ、もう単純に「できればいい」、あるいは「しなければいい」。そういう具体的な行動の変容そのものが
ねらいになる場合。これは、別にわからなくてもいい、楽しくなくてもいい、目に見える行動として「できる」
あるいは「しない」、それができればいいということなので、アプローチの方法、視点もそれに対応したものに
なるはずです。このこと、とにかく行動の変容そのものが子どもにとって大事であるならば、当然、こうしたねらい
の設定もありえます。

「わかる」ということを中心的なねらいとして考えるのであれば、「できる」ことや「楽しむ」ことはそんなに重視
しないという場合もありえます。

いずれなしても重要なことは、ねらいを実際の授業の場面や内容と関連づけて、具体的に焦点化してことです。

授業は、集団で取り組まれる場合、全体としての包括的なねらいが設定されますが、当然のこととして、
個々の子どもにとっての個別のねらいが具体化、焦点化される必要があります。

実際の授業をすすめていく中で、このねらいにそった評価をすすめると同時に、必要に応じてねらいそのものを
見直し、あるいは進化、深化させることも大事でしょう。

つづくよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年度の本格的な授業づくり(1)

2015-05-20 23:52:56 | 特別支援教育
新年度の本格的な授業づくり(1)

 新しい年度も一ヶ月以上を経過し、それぞれの新しいクラスでは、そろそろ新しいクラスでの本格的な授業が
始まってきている頃かと思います。

 あらかじめ、学習内容、教育内容を設定し、その内容、ねらいにあった児童・生徒の学習集団をそれぞれの年
度であとから設定する、いわば、定められた枠に子どもらをあてはめるような教育課程のあり方というのもあり
えます。
 相当数の多様な実態の児童・生徒が混在しているような学校の場合、この教育課程の形態をとっても、そんな
に大きな矛盾なく授業ができる場合があります。

 が、多くの特別支援学校の場合、その年度で設定された基礎的な集団、多くはそれはクラスと呼ばれる、が、
学習、授業における基礎的集団でもある場合が多く、授業の内容も、その年度のクラスの児童・生徒の実態に合わ
せて、クラスで考え、設定していく場合が多いのではないかと思います。

 これは、どちらが優れているとは一概には言えませんが、子どもの実態にあった授業づくりという意味では、
後者の方が柔軟な対応ができるとは言えるでしょう。

 しかし、この形の場合は、そのクラスの指導者、多くは担任、に、その授業を創造していく力量が求められる、
逆に言えばその力量に見合った授業しか設定できないということになります。

 さて、この授業づくりの前提として、児童・生徒の実態と課題をしつかりと把握することが求められます。

 こんなことは当然のことではありますが、ここでいう実態と課題とは、単に羅列的に文章、語句等を記入して
文書を作成すれば済むようなことではなく、その全体像と中心課題を、その子どもの発達、障害、生活、将来展望
等の様々な観点からの分析を通して、リアルにつかむことでなければなりません。

 ここは単純に当たり前のようであって、実はそんな簡単なことでもないのです。

 ここのところがしっかりしていないと、その後の授業づくりも、なんだかピント、つまりはねらいがきちんと定
まらない、あやふやなもの、雰囲気に流されてしまっているようなものになってしまう恐れが十分にあります。

 さて、では、クラスで設定される授業のねらいとはどんなものでしょうか。

 もちろん、それは個々の授業によって異なるわけですが、それは

・「できる」こと
 何かできるかは、その授業によって異なります。

・「わかる」こと
 見通しやイメージ、なにをどうしたらいいか?等々

・「楽しむ」こと
 とりあえず「楽しむ」と書きましたが、ここは「意欲的に」とか、「いきいきと」とか「期待感」とかそうした意識、
気持ち、向き方という情意動的な側面のねらいのことです。

 で、この3つの側面のねらいというのは、多分、どの授業でも、設定しようと思えばできるものだと思われます。

 また、これらは並列的、羅列的にあるねらいではなく、それぞれ、相互に関連したねらいとなる場合がほとんどです。


 この授業におけるねらいを、言葉としては別に短いものでもいいので、個々の子どもに合わせて、きちっと焦点化して
設定できれば、授業は半分以上成功したようなものです。
 あとは、そのねらいに沿った形での工夫やバージョンアップをしていけばいい「だけ」ですから。

 「だけ」って、そこが面倒で難しいといえばそうですが、当初のねらいのところがぶれていなければ、授業全体も大きく
ブレたものにはならないはずですから、大きな失敗はありません。

 次回、この「ねらい」のことをもうちょっと整理し、深めて考えてみます。

つづくよ

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は忍者

2015-05-11 22:22:15 | 特別支援教育
今日は忍者

今日は忍者でした。
名前は雲黒斎。「うん」「こく」「さい」

ちょっとキャラクターの煮詰めができておりませんが・・・。

今まで、節分の鬼、トロル、そうべえ、ミイラマン等、あれこれさせていただきましたが、
最強だったのは「鯉星人」というキャラ。

これは本物の鯉のぼりの中に入って、それがウニウニと動くという気色悪いキャラでした・・・。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七生養護学校・性教育訴訟事件、学校側が勝訴。都議らと都の敗訴確定

2014-10-07 21:31:40 | 特別支援教育
七生養護学校・性教育訴訟事件、学校側が勝訴。都議らと都の敗訴確定


誰かに妨害されたりすることなく、「いい授業」をつくりたいです。

当然、なにが「いい授業」なのかは充分に考え、そして実践しなければなりません。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

授業を見る 研究授業の感想から 1

2014-07-06 09:05:17 | 特別支援教育
授業を見る 研究授業の感想から 1

 このブログは、ブログ村では一応「特別支援教育」というカテゴリーにも登録していますし、検索でも「特別支援教育 教員 資質」といったキーワードで検索して見てくれている人は定期的にあるのですが、
ここのところ、実際に関連の記事を書くことはほとんどなくなっています。

 というのは、直接現場で子どもたちと接する機会というのが、この4月からは「学校」というくくりでは週に10時間だけと少なくなってしまったということがあります。
 実際は「学校」ではなくて「放課後」ということであれば、別に子どもらと接する機会はもっとあるのですが。

 で、自分自身が中心的な役割を担って授業づくりをする機会というのがほとんどないのです。

 なので、昔のあれこれを引っ張り出せば書くことはあるのですが、リアルタイム的には書くような内容が少ないのですね。

 そんな中でも、最近、研究授業として行われた授業を指導案からじっくりと見させてもらう機会がありました。

 以下はその時に書いた感想の一部です。個別の事例なので、一部、表現や内容をかえているところがありますが、趣旨はそのままです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
1.生徒自身が興味が持てる活動、教材を取り入れ、授業の回数を重ねる中で生徒自身が見通しを持ち、
落ち着いて授業に取り組めるようになってきている。
全体のねらい、個々の生徒のねらいも適切だと思うが、個々の生徒のより具体的重点的ねらいを明確にし、
それに沿ったはたらきかけや配慮の工夫をしたい→これはこの授業だけに限ったことではなく、今後の授業でも同様、
また「朝の会」や「個別学習」、自由あそび的な時間など、日常の通常の日課の中で繰り返される取組についても同
様である。

最初の計画どおりでなく、実際にすすめていく中で、あれこれ変更していってもよいが、とりあえず、一定期間、
例えば10時間とか取り組む単元の授業であれば、単元全体の指導計画を考えておき、授業の力点の置き方も一定考え
ておくのがよいだろう。

2.全体として指導者が落ち着いて授業をすすめることができており、見せる場面も丁寧に見せようとする意識、意図が感じられる。
それぞれのキャラクターに合わせた服装や雰囲気づくりがなされており、生徒もそれを理解して取り組めている。

3.個々の生徒の実態とか変わって
よくも悪くも、特定の生徒の言動がクラス全体の授業、雰囲気に大きく影響する。
活発で意欲的に活動に参加できていれば、それに引っ張られて楽しい雰囲気もでき、全体も盛り上がる。
異常に盛り上がりすぎたり、自分の思いと違っておこっていたりすると、それで他の生徒が意気消沈する場合もある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつも言っているようなことしか書いていないですが・・・。

まず、「興味・関心」とか「見通し」というあたりです。
ここらは授業づくりの基本になるところで、また、ねらいとしても大事にされるべきところだと思います。
「見通し」「つもり」「イメージ」「期待感」、こうした言葉で表現される、いわば「認識」の力、言い換えれば「わかる」力というのは、
ほとんどの授業の中でねらいの中心的な部分として大事にすべきところでしょう。

授業のねらいの文章の文末はどうなっていますか。
「~できる。」でしょうか?。「~がわかる。」でしょうか。
「わかる」と「できる」というのは同じでしょうか、違うのでしょうか。
「わかる」というのは意味の理解ですよね。「そういうことか」「こういうことだな」。

「できる」というのは、具体的な現象面、目に見える何かができるという場合が多いですよね。
「わかる」から「できる」の?。「できた」ら「わかった」の?。わからなくても「できた」っていうことはあるのか、ないのか?。

禅問答ではなくて、子どもらの具体的な活動、状況に対応して、このことは考えておきたいです。

「楽しむ」はどうですか?。「楽しむ」はねらいになるんでしょうか、ならないんでしょうか。
「楽しむ」ということの意味はなんでしょう。「楽しむ」は「わかる」と関係があるのでしょうか、ないんでしょうか。
当然、ありそうですね。

というようなあたり、授業のねらいとしてまず何を設定するのか、何を大事にするのか、ここがあいまいになっていると、
多くの場合、授業そのものも、あいまいになってくるように思います。

つづくよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーラという子―虐待されたある少女の物語

2014-04-22 09:35:43 | 特別支援教育
シーラという子―虐待されたある少女の物語
クリエーター情報なし
早川書房



 図書館本。

 ヘイデンの名前は聞いたことがあったけど、これまで読んだことはありませんでした。

 これは、現在でいえば、まさに「特別支援学級の担任の先生」の物語です。無論「学級」は「学校」におきかえて考えることもできます。


 ある日、唐突に自分のクラスにやってくる子はシーラ。強烈なキャラクターで様々な騒動を巻き起こす彼女。その深刻な生育歴、生育環境。

 彼女とヘイデンの様々な交流、シーラに起こる変化、いたたまれない出来事、そして別れ。

 極めてドラマチックでありながら、実際に起こりうるような状況、関係性を、あたかも児童文学のような平易な文体で(これは翻訳の妙というのもあり)一気に描き切っています。実際、これは作者自身が経験した実話だということですね。


 ヘイデンへの評価や批判というのはわかりません。

 が、この物語はひっ迫感を持って迫ってくるものがあります。それは、当然、私自身が作者と近い仕事をしてきたということと無関係ではありません。

 ある日、私のあなたの目前に「シーラ」は唐突に現れるかもしれません。いや、もういるのかもしれない。彼が、彼女がそうなのかもしれない。

 私たちはどこまで深く彼ら、彼女らに関わることができるのか、したらいいのか。どこまでどう責任が持てるのか、持てないのか。

 極めて印象的ないくつかのシーンとともに、いろんなことを考えさせてくれる本でした、これは。

 未読でしたらぜひ。一気に読めます。

 続編もあるようなので、また借りてみますね。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腰に張りが・・・・

2014-02-25 21:24:41 | 特別支援教育
 今日は、走り回ったり、トンネルくぐったり、足の上に子どもを乗せて「たかいたかい」風に動かしたりと、バタバタと一緒に遊んでおりました。

 楽しいのですが、朝からこれが連続し、11時頃には既にバテバテ状態。全然、体力なし・・・。

 今は腰、というか、背中が張ってます。明日はおでかけがあるので、湿布貼って、もう寝よう・・・・。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究授業を見る 全教育課程を通してのねらいとその授業のねらい

2014-02-03 20:29:31 | 特別支援教育
 久しぶりに、1時間通して授業を見せてもらいました。

 新任の先生の校内の研究授業でした。もう年度末も近いからそろそろ最後でしょうか。
 年間、何度か設定しなければいけないようですが。その時間、うまくこなすことよりも、後につながる、自分の中で印象に残る授業になればいいなと思います。

 見せてもらってなかなか楽しかったですが、やはり私自身が主に携わってきた重度の肢体不自由の子どもたちの授業とは、授業の設定の仕方が色々な面で違います。まあ、それは子どもの実態が違うのですから当然のことですが。


 と同時に、事後研の中の話を聞いていて感じたのは、個々それぞれの児童の中心的なねらいはどうしたら達成されるのだろうかということです。

 実は、それが本質的な中味を含む中心的なねらいであったとするならば、それは単に一つの授業とか時間とかいうことではなくて、教育課程全体を通して意識され達成されるべきものだろうということです。

 例えば、それは、朝の会だったり、帰りの会だったり、もちろんクラスの授業だったり、時には「遠足」に向けての事前の取り組みと当日の取り組みと事後の取り組みだったり、まあ、それは全場面でということですね。


 では、設定された授業のねらいは、個人の中心的なねらいと同じものになるかといえば、それは当然関連するところはあるだろうけれども、必ずしもイコールにならない場合もある、イコールにならなくてもいい、その授業としての独自のねらいというものがあっていいというか、当然あるはずです。

 色々思いはたくさんあるのだけれども、ここらの関係というのがうまく整理されないと、実際の授業の中での中心的なねらいとか活動というもののピントがボケてしまって、うまくズバッと焦点化できないこともある、そんなことを思いました。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「伸びた」「落ち着いた」と感じることの中味、本質とはなんだろう?

2014-01-26 19:38:57 | 特別支援教育
 年明けから前年度の後半にも行かせてもらっていた現場でまた少し仕事をさせてもらっています。

 入っているのが、前年度にも関わった子どもらが多く残っているクラスだったりします。
 5人中4人が去年と同じクラス、1名は転入生です。

 で、この4名、それぞれ個々に中味は違いますが、前年度との比較では、いずれも「伸びた」「落ち着いた」というように感じるのです。

 では、この「伸びた」「落ち着いた」と感じることの中味、本質とはいったいなんなのでしょうか。

 人の発達というのは、だらだらと緩やかな坂を登っていくようなものではなく、ある一時期に、グッと一段階段を踏みあがるように、
より高い段階へと力を伸ばしていくようなことがあるというのは、よく言われます。

 確かにそれはそうかなと思うところがあります。
 それは、とりわけ、幼児期の発達段階において、顕著に見られるように感じられます。

 今回の私自身の感覚もこれに近いところがあります。

 ある一人の児童について、私は「間がずいぶんと取れるようになったな」ということをいろんな場面、状況の中で感じました。
 逆に言えば、具体的ないろんな場面、状況の中で共通してこのにように感じることが多かったため、全体として、こういう印象が強くなったのでしょう。

 それは、例えば、太鼓のバチで太鼓を叩くのだけど、少し叩いてすぐにバチを投げてしまうのではなく、しばらく持ち続けて、少し叩かない時間があってまた叩き出すというようなこと。
 食事の時にスプーンを握って、一度それを口に運んでも離したり、放り投げたりせずに、何度も口に運ぶというようなこと。
 教室から外に出る時は必ずドアに貼ってあるカードを取って人に渡し、笑顔で教室内のいる人に手を振ってから出発すること。
 自分からスッと姿勢保持のための椅子の方に足を向けて腰掛ける時があること。
                                                        等々。
 他にも色々あるのですが、
これらは、どういうことと関係しているかというと、それは「つもり、見通し、イメージ、場の理解」というようなことですね。

 それも、単一の事象というよりも、それらが複合的に組み合わさった、それは活動の中味であったり、場所であったり、誰とどうするということであったり、色々ですが、こととして、理解できてきており、それに伴って行動そのものがかなり大きく変わってきているという感じなのです。

 つまり「わかった」、あるいは「わかり方が深まった」というような印象なのです。

 じゃあ、どうしたら、どうしたから「わかった」、あるいは「わかり方が深まった」ということになったのでしょうか。

 これは単に年齢を重ねたからということでなく、やはり一定、相応に整理された日課の中で、繰り返し、同じ場面や状況の中での経験を積み重ね、そこに指導者が相応の意図を持っての指導を継続するということがあり、

その中で児童自身がそもそも持っていた力が「わかる」力が具体的な活動、行動として表現されるようになってきたということだと思います。これは今年度のクラスの中で取り組まれてきた「支援」(だか「指導」だか)の大きな成果だと思います。

 一度、こういう方向、いい方向への変化が生み出されると、それは継続してそうした方向へ動き続け、その力がより広がったり強くなったりすることもよく見られる、経験してきているところです。

 さて、ここからさらに学年を重ね、学部も変わる中で、子どもらはさらにどんな成長を見せてくれるのでしょうか。
 必ずしも、環境の変化がいい方向への影響をもたらすとばかりも言えないのがになかなか難しいところですが・・・。

 いわゆる乳児期段階、一歳半未満のところの重度の肢体不自由の障害のある児童生徒の場合、このようなはっきりと目に見えてわかるような劇的な変化に出会うということはあまりありません。私自身はこうした子どもらの担当をさせてもらうことの方が多かったです。

 が、実は、こうした段階の子どもたちにも、その段階、あるいは個々の子どもらの実態に合った形での「つもり、見通し、イメージ、場の理解」ということは、非常に大きな教育上の課題、多くはそれは中心的な課題になるものだと思います。

 反対に言えば、重度の子どもたちにも、どうこのあたりの事を教育課題という具体的に焦点化し、教材化し、また指導の中で配慮していくことができるのかというのが、私たちに問われていることです。

 またつづきを書きます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする