monologue
夜明けに向けて
 



  残念なことに最近日本でも車上荒らしが横行しているという。クラブで働いていて危ないのは閉店後である。楽器類を車のトランクに運び込んで一息入れて外に出るともうそのトランクを誰かがバールでこじ開けて中身を盗もうとしている。わたしの顔を見ると逃げていったが翌日壊されたトランクの鍵と後部座席の修理に金がかかった。わたしたち従業員はまだいいが最後に片づけて売上金をもって出る店のオーナーはよくピストルでホールドアップにあって有り金全部強奪された。銃社会なので狙われたら守りようがない。

 情けないけれどその頃、ワンボックスカーに仕事道具を積んでいる人達は家にいてもおちおちしていられなかった。あまり、たびたび、ワンボックスカーに積んだ楽器機材をメキシコ人に盗まれるので絶対に許せないと言って、ピストルを手に入れて車の中で夜中に仮眠しながら待ち伏せして追いかけた友人もあった。幸い弾は当たらなかったそうだが十分な脅しにはなったことだろう。中に人が乗っているのに気づいたときそのメキシコ人はどんな顔をしただろう。心臓が飛び上がったことだろう。精神的に癒えるまでしばらくは仕事(泥棒)に出られなかったに違いない。でもこれでは「目には目を」の時代から一歩も出ていない対処法のように思える。

 しかし、一月ほどして友人は再びアンプ類を盗まれてしまった。それでかれは車に盗難防止アラームを取り付けた。子供が触れても風が吹いても鳴るので落ちつかないことおびただしい。夜中に鳴って車を見に飛び出ていったりしていた。結局、かれが精神の安定を得たのはバンドを辞めて機材を車で運ぶことがなくなってからだった。しかし、その後かれはメキシコ人と見れば目の敵にするようになってしまった。民族全体のせいではないのに…。
fumio


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 時刻はそろそろ午前三時過ぎ、仕事が二時に終わって楽器類を片づけて店を出たのが二時半頃。ハーバー・フリーウェイからサンタモニカ・フリーウェイに乗り換える頃、おかしいなと感じた。後ろについていた車が離れない。不気味なものを感じた。スピードをあげていつものランプ(降り口)からおりて家の前に停車した。後ろの座席に置いたギターを取りだそうとした、そのときだった。
 
 だれかが突然わたしを後ろから羽交い締めしたのである。古い表現だがまるで万力で締め付けられるような気がした。頭の中ではジャック・ポットのようにつぎつぎにそんな冗談をしそうな友の顔が回転した。そのジャック。・ポットはついに止まって特定の像を結ぶことがなかった。
 フリーウエイを降りてからもつけられていたのだ。こうなれば必死で戦うしかない。友だちの可能性を捨ててむちゃくちゃに暴れた。やっと相手の腕がゆるんだ。そのすきに回転して向き直る。対峙すると相手は見知らぬ白人であることがわかった。
 
  今度はこっちの攻撃する番だ。わたしが態勢を立て直したのを見て相手は怯えた。 
 ”I don’t wanna hurt you”「おれはおまえを傷つけたくないなどと口走る。その上、「おまえはキムではないのか」などとわけのわからないことを喚いてごまかした。東洋人と見ればキムと呼ぶらしい。わたしは黙って近づいた。男は慌てて駆け出した。そばに停車しておいた車に飛び乗って逃げていった。わたしはまだ男の目的がなんだったのかわからず、呆然とその車を見送った。真夜中のフリーウェイでわたしを見かけて、かよわい女性にでも見えたのだろうか。あの男はあの方法で女性に対して、あるいは男性に対してのレイプを重ねていたのだろう。

 ベッドに横になるとすぐに警察のヘリコプターがやってきてあたりを探照灯で照らしていた。しばらくうるさくて困った。だれかが通報したらしい。翌朝散歩に出るとあたりのの住民がじろじろ見る。そして黒人女性が近付いてきて、昨日の事件をアパートで初めから見ていたという。やられたと思ったのにどうやってやっつけたのか、あんたはカラテマスターか、うちの子供にも教えてくれと頼む。そこらの黒人の子供達もまとわりついてくるのでわたしは空手は知らないと言って逃げた。羽交い締めではなく凶器をもって襲われていたら終わりだったのだ。
fumio


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米国で最もめでたい日は「ジュライ・フォース」と呼ばれる独立記念日である。普段禁止されている爆竹もその日と元旦だけはOKでみんなで騒いで祝う。

 1978年7月4日、独立記念日、わたしがエンターティナーの仕事から帰宅してしばらくして午前3時くらいに臨月を迎えていた妻が腹が痛いと訴えた。すぐにUSCジェネラルホスピタルへ車に乗せて行った。すると出産は隣のウィメンズホスピタルで行うとのことだった。大きな腹を抱えたラテン系の妊婦で賑わう待合室で妻があせって、もう生まれると言っても看護婦はゆうゆうとしてまだまだととりあってくれない。妊婦の人数がだんだん減ってやがて看護婦が妻を連れて行った。わたしは妻が出産に立ち会ってほしがっているからと立ち会いを頼んだが断られた。立ち会うためには前もってそのためのコースを受講しなければいけなかったらしい。妻はストレッチャーに乗せられて産科に入って行きわたしはドアの前で立ちつくした。受付のあたりで時間をつぶして待っていると午後5時くらいに名前を呼ばれた。新生児室には多くの赤ん坊が紙おむつ姿でうつ伏せに寝ていた。ガラス越しにわが子を探した。他の子よりかなり小さい子がそうらしかった。ラテン系の子はみんな大きく見えた。腕に巻かれたネーム票を確認して看護婦に告げると妻のいる分娩室に連れて入れてくれた。初対面のちっちゃな赤ん坊はキョトンとした顔をしていた。髪がナポレオンのような形に生えていた。宇宙人みたいにみえた。2700gで抱くとずいぶん軽かった。産婦は体調が回復するまで何日か入院するのか、と思っているとみんなすぐに退院するのだという。それでそのままヘトヘトの妻を乗せて車で帰宅した。アメリカの女性は丈夫で自分で車でやって来て出産すると自分で車を運転して帰る人もいると聞いて驚いた。日本では産後の肥立ちが悪くてよく命を落とすという話しを聞いていたのでお産は大イベントだと思い込んでいたのだ。

 とにもかくにも息子はアメリカ中の人が毎年祝ってくれる独立記念日を選んで生まれて来たのである。
fumio

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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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9月4日(金)~9月11日(金)
ヒット数: 1,011件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 


第1位(1)<2>水面に書いた物語
第2位(2)<1>ごめんなさい
第6位(6)<4>あやかしのまち
第4位(4)<7>軽々しく愛を口にしないで
第9位(9)<10>はるかなるメロディ
第3位(3)<7>女優(スター)
第7位(7)<6>ときめきFALL IN LOVE
第10位(10)<15>それってⅨじゃない
第8位(8)<8>マイ・スィート・ライフ
第5位(5)<5>ラスト・ランデヴー
第14位(14)<11>オーロラの町から
第13位(13)<13>Sentimentallady”M”
第12位(12)<14>素顔のマスカレード  
第16位(16)<16>Stay with me
第17位(17)<18>しあわせになれる
第18位(18)<19>わかりあえる日まで
第21位(21)<12>プロセス
第11位(11)<17>恋すれば魔女
第15位(15)<9>まことのひかり
第19位(19)<20>NEVER GIVE UP!
第20位(20)<21>カリフォルニア・サンシャイン

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このところトップ3水面に書いた物語 ごめんなさい あやかしのまち の三曲はすこし動くだけであまり変わらない。安定しているようだ。ご愛聴感謝。
fumio

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現在、オバマ大統領が国民健康保険問題で戦っている。がんばってほしい。先進国で国民みんなが入る健康保険がないのはアメリカだけである。その点ではまだ後進国なのだ。自分で高いプライベート健康保険に入れる層はいいけれど貧民層は健康保険なしに病気の不安を抱えて暮らしている。歯が痛くても実費で高いので歯医者にも行けない。

 ある日、わたしたち夫婦が買い物から帰ると息子が倒れていた。どうしたのかと思うとなにかをノドに詰まらせたようだった。いつも小銭を置いてある棚に登って25セント硬貨を口に入れて飛び降りた拍子に呑み込んだのである。口を開けて取り出そうとしてもうまくゆかない。水を飲ませたり逆さまにして揺すってもダメ。考えられることは全部試したけれど無理だった。しかたなくLAチルドレンホスピタルに運び込んだ。

 しばらくすると黒人の先生がやってきてまず丁寧に自己紹介してから、簡単な手術して取り出すからと了承を求める。それで誓約書にサインした。かなりきつく詰まっていたらしく1時間近くかかって終了した。

 その後、何日かしてビル(請求書)が届き始めた。一括ではなくLAチルドレンホスピタルの受付やかかわった色々な部門から次々に来るのだ。そのたびに支払いチェックを送って結局手術代を合わせて支払いは全部で1万ドルほどになった。ノドに詰めた25セントが1万ドルに変貌してしまったのである。あの時、国民健康保険があればと今さらながら思ってしまう。
fumio

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わたしたちはアメリカ時代マーケットで買い物する時いつも中身の成分を確かめて買っていた。日本に帰国してしばらくは表示がないので不安だった。やがて日本でも表示が義務づけられてほっとした。

 妻は肌が弱いので洗濯に界面活性剤や漂白剤・蛍光増白剤などの多くの化学薬剤で作られている合成洗剤を使わなかった。昔ながらの洗濯石鹸洗剤を使用していたのだがその製品がマーッケットに入らなくなくなったので主成分の石鹸成分が同じ98パーセントの割合の製品を見つけて使用していた。ところが最近下着が当たる部分が肌荒れするようになった。おかしいと思って昨日、成分を確かめると主成分がなんと65パーセントになってあとは化学薬剤に変わっていたのである。あわててまた主成分が同じ98パーセントの割合の洗濯石鹸洗剤を探して買ってきた。一応、一件落着ということだが食品や洗剤などの企業が儲けのために原料成分を勝手に変えてしまうことは消費者の健康に多大な影響を及ぼす。食品偽装問題などとともに大きな問題である。
fumio

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ザ・ビートルズのレコードの音はわたしたちミュージシャンはいつも注目して聴いていたが英国盤と米国盤と日本盤では大きく音質が違っていた。「エイト・ディズ・ア・ウィーク」 などは日本盤では始めのギターのイントロがフェィドインで始まるが米国盤は迫力あるコード弾きで始まっていかにもヒットチャートのトップに駆け昇る雰囲気があった。米国盤「アイ・フィール・ファイン」 のイントロのギターの音のすごい迫力と深みは日本盤では全く消えていてがっかりした。日本盤は聴くのが辛かった。日本中の人にアメリカの音を聴いてほしかった。マスターリングするエンジニアの感覚によって音質は大きく変わる。英国盤は原音に近く米国盤はヒットさせるために迫力を重視していたようだった。わたしは輸入盤、特にアメリカの音を目指してギターの音を出そうとした。

 今回のザ・ビートルズのデジタル・リマスター化全オリジナル・アルバムCDの音もやはり現在のEMIのアビイ・ロード・スタジオのエンジニアの年代と好みの音によって左右されるのだろうが発売される国によって音質は変わるのだろうか。
fumio

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  今年20009年8月13日、エレクトリックギター、ギブソン・レスポール モデル、そして8トラックレコーディングマシーンのの生みの親であるレス・ポール(Les Paul、本名Lester William Polfuss)が肺炎により94歳で死去した。

 かれは新型のギターや様々なエフェクターを開発して多重録音を始め録音技術を発展させた音楽界の偉人であった。奥さんとなるMary Fordと組んで1951年に発表した How High the Moon で全米1位を獲得してその後も多くの曲をヒットさせている。

 わたしたちバンド仲間は、メリー・フォードとレス・ポールのデュオアルバムを聴いてどうしてあんな音が出るのか不思議がっていた。レス・ポールは自作のアナログディレイマシーンや多重録音を駆使してレコードを作っていたのだ。その頃はまだ他にそんなミュージシャンはなくかれは時代のはるか先をひとりつっ走っていたのである。

 わたしはギブソン・レスポール モデルエレクトリックギターの音が好きで愛用していたのでレス・ポールへの思い入れが深い。かれの音楽界への貢献に感謝して合掌。
fumio


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  わたしたちの時代のギターヒーロー、ザ・ベンチャーズ(The Ventures)の初代リードギターリストで結成メンバーであったボブ・ボーグル(Bob Bogle)が今年20009年6月14日に非ホジキンリンパ腫で亡くなった。75歳。エレクトリックギターブームの火を付けた人だった。感謝して合掌。

 わたしはかれらの曲では "Walk Don't Run" 邦題「急がば廻れ」が一番好きだった。その曲は1960年8月27日付けキャッシュボックス誌のベスト10を見ると
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1 IT’S NOW OR NEVER Elvis Presley
2 THE TWIST Chubby Checker
3 WALK—DON’T RUN  Ventures
4 ITSY BITSY TEENIE WEENIE YELLOW POLKADOT BIKINI Brian Hyland
5 I’M SORRY Brenda Lee
6 VOLARE Bobby Rydell
7 FINGER POPPIN’ TIME Hank Ballard & Midnighters
8 ONLY THE LONELY (Know How I Feel) Roy Orbison
9 (You Were Made For) ALL MY LOVE Jackie Wilson
 10 WALKING TO NEW ORLEANS Fats Domino

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  この週、3位にまで上がる大ヒットを記録している。この曲にはのちにベンチャーズのお家芸として「テケテケテケッ」と表現される派手なグリッサンド奏法は使用されていなかったが「Am G F E7」という下降コード進行が使われてその格好良さにギターキッズたちはしびれた。わたしはその後爆発的に訪れたエレキブームの頃かれらの公演を友達になった楽器店員の誘いで楽屋口から入って見たものだった。

それから約50年を経て初代リードギターリストを失ってもベンチャーズはメンバーを入れ替えながらも生き続けているのは凄いことだと今さらながら感心する。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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8月28日(金)~9月4日(金)
ヒット数: 1,011件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 


第1位(2)<1>水面に書いた物語
第2位(1)<2>ごめんなさい
第3位(3)<7>女優(スター)
第4位(7)<8>軽々しく愛を口にしないで
第5位(5)<8>ラスト・ランデヴー
第6位(4)<3>あやかしのまち
第7位(6)<2>ときめきFALL IN LOVE
第8位(8)<4>マイ・スィート・ライフ
第9位(10)<6>はるかなるメロディ
第10位(15)<14>それってⅨじゃない
第11位(17)<17>恋すれば魔女
第12位(14)<10>素顔のマスカレード  
第13位(13)<18>Sentimentallady”M”
第14位(11)<11>オーロラの町から
第15位(9)<13>まことのひかり
第16位(16)<16>Stay with me
第17位(18)<9>しあわせになれる
第18位(19)<20>わかりあえる日まで
第19位(20)<15>NEVER GIVE UP!
第20位(21)<21>カリフォルニア・サンシャイン
第21位(12)<19>プロセス

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ブログの本文「続カリフォルニア・サンシャイン」は終了したけれど歌の「カリフォルニア・サンシャイン」はまだ22位にとどまっている。ご愛読、ご愛聴感謝。
fumio













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 帰国の日程が決まるとわたしたちはこの地で縁を結んだ多くの人に別れの挨拶にまわった。妻と仲が良かった日本語学校、羅府第二学園の先生、ゴーマン美智子 さんはマラソンで何度も優勝してスポーツ用品メーカーが特別に作ってくれたマラソンシューズを妻にプレゼントしてくれた。 「ひのもと文庫」の女性司書、欅さんはわたしたち一家を「インペリアルドラゴン」に中華料理を食べに連れていってくれた。わたしが「インペリアルドラゴン」に客として入ったのはそれが初めてだった。「ひのもと文庫」では夫婦そろって一生分ほどの読書をさせてもらってお世話になった。こちらがお礼にごちそうしなければいけない立場だったけれどありがたくいただいた。その時「インペリアルドラゴン」の料理は本当においしいと思った。以前わたしが楽器をセッティングしている時、中国人の大家族がやって来て食べ終わると全員消えて、「食い逃げだ」と騒ぎになったりしたことを思い出した。「食い逃げ」はその店ではよくあった。

 沖縄空手の太田英八先生の奥さんはなんと以前ピアノバーでエンターティナーをしていた人だったのでわたしと顔なじみだった。それで家に立派なカラオケセットがあった。太田先生は一曲、餞(はなむけ)に歌を歌い、わたしもお返しに一曲歌った。かれは普段もこわい顔をこわばらせて怒ったような表情で別れの言葉を息子にかけてくれた。かれは感情がこみあげるとそんな顔になるようだった。
 

 そして1976年に昇ったわたしの「カリフォルニア・サンシャイン」は十年の間輝き続け数え切れない思い出を抱いてマリブの海に沈んでいった。やがてそれは日本の東の空に昇る日となりわたしは今度は日本からその旭を見上げることになるのである。

 「続カリフォルニア・サンシャイン」了。
fumio


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