monologue
夜明けに向けて
 



  1989年、1月7日に昭和天皇が崩御して元号も平成に変わって人々がその新しい呼び方にまだ慣れない桜の咲く頃、武蔵村山病院の玄関に真新しい軽自動車が停まった。それがその日退院するわたしを迎えにきた妻が運転する車だった。

 この病院ではずいぶん勉強させてもらった。隣のベッドの老人が痰がノドに詰まって自分でナースコールが押せずに夜が明けると死んでいたり、毎日のように昨日まで挨拶しただれか顔見知りが亡くなる。奥さんに離婚届に判子を捺せと迫られて泣きながら捺す男性や様々な人生を映画のように見せてもらった。ここにいると一般世間の人々の悩みや苦労は根本的なものではなく自分がどれだけ恵まれているかに気付かないで自分はとにかく他より恵まれなければいけない、もっと恵まれたいと思うことから派生してくるものでしかないよう思えた。しかしながら目には見えなくとも本当に世のため人のためを思うゆえの根本的な悩みや苦労を背負って生きている人々もあるのだ。

 作業療法室で革細工「彷徨(さすら)うヴィーナス」と「 風の中の北京家鴨ダック)」を保存したワープロ「書院」のフロッピーディスクをもらって、お世話になった方々に妻と一緒に挨拶をすませて新車の助手席にわたしが乗り込むと妻はカセットテープをかけてくれた。それはボン・ジョヴィのアルバム『Slippery When Wet 邦題ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』だった。You Give Love A Bad Name Livin' On A Prayer などの演奏の素晴らしさに圧倒された。ヴォコーダーの使い方のうまさに感心した。

 妻はアメリカでわたしに出会うまで洋楽にそれほど興味がなかった。しかし朝から晩までレコードやラジオで音楽をかけているわたしのそばにいて自然にわかるようになっていった。それで妻はアメリカに在住した70年代後半から80年代の洋楽が今でも一番好きなのである。そんな妻が自分で選択したのがボン・ジョヴィだった。わたしはそれがすごくいいバンドなのでなんだかうれしかった。

 遠い帰り道をわたしは助手席でナビゲート役に徹して地図を見ながら分岐点の標識で方向を確かめた。それまでアメリカでも日本でも妻の運転する車の助手席に乗ることはほとんどなかったので新鮮なようなすこし落ち着かないような気持ちでボン・ジョヴィの演奏をバックミュージックにゆっくりウロウロと長い道のりをわが家に帰っていった。

 前年の秋9月の朝からこの春の夜まで半年以上の長い不在だった。わたしにとってそれは朝から夜までの一日のことのようだったがその間に元号まで変わってしまった。これから未来に向かってリスタートを切らねばならない。わたしたちの新たなステージが始まるのである。
fumio


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