monologue
夜明けに向けて
 



 1988年9月14日午後9時過ぎ、窓からJRを臨む渋谷の稽古場でのことだった。
その瞬間、目の前にあるはずの床が見えなくなった。おそらくまわりにいたすべての人々も一時的に視覚を失っていたことだろう。

 その劇は原発問題を扱った作品で演出家は、原発ジプシーと呼ばれる者たちに核シェルターを設計した博士が投げ捨てられる、というフィナーレの場面を構想して稽古によって煮詰めていた。
博士役のわたしを若者たちは何度も胴上げから放り投げた。そのたびにわたしは回転受け身をして立ち上がった。演出家はもっと幕切れにふさわしい、観客の網膜に残像が焼き付く方法を思いついて試した。わたしが空中に舞っている頂点で、稽古場の電灯を消すように指示したのである。猫なら突然、光を消してもうまく着地するかも知れない。闇になった途端、さっきまでのまわりの景色が消え空中での位置感覚が失せた。猫が空中で体を立て直すようにはゆかなかった。 額が床にぶつかった。勢いよく落下した全体重を受けて平気なほど首の骨は強靭ではないらしい。灯かりをつけた人々が目にしたものは倒れたまま動かないわたしの姿だった。

 そのとき、わたしはだれもがこの世で様々な形で受ける試練のひとつを体験していた。抱き起こされたとき気絶していなかったらしく受け答えはできたが首から下が動かなかった。 救急車で運ばれた北品川第三病院のICUで長時間に及ぶ手術が始まった。医師はむづかしいけれどこれまでやったことのない方法を試すということだった。リスクが大きい方法をとったことをのちに他の医師が非難したが結果的にはその新手法を使用したことが良かった。

 もし治っても一生寝たきりか良くても車椅子の生活ということだった。 しかし、そのことを自分の将来像として現実感を伴って考えることはできなかった。手術後、麻酔が醒めて、まだ手足が動かないことを再確認した。のちに医師に聞いたところでは手術中に息を引き取らなかったのは腹式呼吸で鍛えていたからだそうだ。なるほどそんなものかと思った。なにが幸いするかわからない。


 妻にとってもそれは辛い試練の始まりだった。報せを受けて倒れようとする妻を小学4年生の息子が支えて「お母さん、しっかりして」と励ました。それで妻はハッとわれにかえった。それから妻はアメリカ時代と見違えるほど強くなった。現在も日々の試練に耐えて生長を続けている。
fumio
  


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 今週のアクセ... 転院 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
コメントをするにはログインが必要になります

ログイン   新規登録