monologue
夜明けに向けて
 



 1991年11月29日午後三時、その日、わたしは自宅で自作の歌を何度も録音し直してヘトヘトになった。これだけ歌っても満足できるものが録れないのは早い話が歌が下手なのだ、という簡単な結論にたどり着いて熱い風呂に入った。

 長くつかり過ぎていたらしい。湯あたりでボーとしてきた。風呂からあがろうとしても立ち上がれなくなっていた。どうしたことか足が風呂桶の高さを越えない。否応なく腿上げ運動を果てしなく続ける羽目に陥った。このとき、わたしの心臓はフル回転していたことだろう。まわりのありとあらゆるものにすがりつきもがいた。それまで蟻地獄に堕ちた蟻の気持ちを察してやるほどのやさしさはもちあわせてなかったが、今は少しは察してやることができそうだ。頭がのぼせて足で風呂桶をまたぐのはもう無理になっていた。そのまま洗い場に倒れ込んで脱出した。

「鳥人ブブカでさえ棒高跳びの予選のバーが越えられない日もあるのだ」と尺取虫のように壁際まで進んで湯気の中でのびていた。そのとき、息子が学校から帰ってきて風呂場に倒れているわたしを見つけた。わたしは頭が痛いと訴えたという。痛かったかどうか、はっきりしない。ソファベッドに横たえられてそのまま寝入った。

 翌朝、妻と息子はいつも朝早く起きるわたしがいつまでも寝たままなので不審に思った。
わたしの顔を覗き込むと白眼をむいている。息子はわたしが冗談でやっているのか、と怪しんだという。普段、そのくらいのことはしかねないと思われている。それはこんなとき、まずい。

 それでも、尿失禁に気づいたとき、いくらなんでもそこまでは冗談をしないと思ったことだろう。妻が住所を教えて受話器を置く前に救急車のサイレンが聞こえた、という。
救急車の中で妻はなるべく費用の掛からない病院を探してくれ、と頼んだ。救急隊員はそんな余裕はない、脈が弱まってとぎれかかっている、とあせって応えた。それで運び込まれた最寄りの病院が東川口病院であった。

 医師が頭を開くと血液が脳全体にまわっていた。脳内出血だった。妻はその血の量に愕然とした。出血後、二三時間置いておいても危ないのに一晩寝ていたので広範囲に血がまわってしまったらしい。息子は子供だということでわたしの脳を見せてもらえなかったことを悔しがっていた。人の脳の内部を眼にする機会というのはそうはないだろう。別にそんなもの見たところでどうということはないと思うがかれの無念さがある程度理解できなくもない。

 医師は脳手術の腕のいい友達を東京の病院から喚んで手術にかかった。脳の手術中、息子は妻に不安そうに尋ねた。「お父さん、レナードみたいになるの?」
レナードとは、少し前に観た映画「レナードの朝」の主人公のことだった。ロバート・デニーロが脳の機能がうまくはたらかない人を好演していたので息子にはその姿が衝撃的に焼き付いていた。妻は答えに困った。ふたりで不安を抱えて手術の終わるのを待った。
手術後の回復期、わたしは大暴れして人々に迷惑をかけたという。点滴に鎮静剤を入れられておとなしくさせられた。幸い都合の悪いことはなにも憶えていない。「退院したら、ぼくは崇凰(すうおう)という名前で龍神として勞(はたら)く」と見舞いに来た妻に宣言したことは憶えている。妻は、とりたてて驚くでもなく、ああそう、とあっさり受け流した。それだけでしまいだった。それで充分だった。結局、退院後もそんな名前は使用したことがないのだから…。一時の気の迷いだったのか。

 脳の中身が治るまでの間、右脚の太腿に貯蔵のために埋めてあった頭の骨を元の切り取った箇所に填(は)め込む手術はクリスマスの日に行われた。切り取られた骨は冷蔵庫などに保存するより自分の体にしまっておく方が腐敗などしにくいので太腿に埋めて保存してあったのだ。将来いつの時代にかわたしの頭蓋骨が土から掘り出されるようなことがあればこの時代にもこれだけの脳手術をするだけの技術があったとの見本にされるだろう。
それとも、やはり二十世紀にはこんな野蛮な方法で頭の骨を切っていたと思われるか。

 今でもあの時、麻酔が効くまでの間に見つめた無影灯が眼に浮かぶ。この世で最後に見る灯かりかも知れないとなんとはなしに不安を感じたのだ。時折、今もあのまま目覚めていないのではないか、とフト思う。
fumio

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