monologue
夜明けに向けて
 



 1964年はビートルズ出現に揺れたがもうひとつの大きい噴火があった。それがモータウンレコードの台頭であった。オーナーのベリー・ゴーディ・ジュニア(Berry Gordy, Jr.)はウィキペディアには銀行から600ドルと書いてあるが、家族に800ドル(ダイアナ・ロスのインタビューによれば700ドル)借りて二つの葬儀社に挟まれた小さなレコード会社を1959年に発足した。

 ベリー・ゴーディは伝説の歌手ジャッキー・ウィルソンに - Lonely teardrops などを提供して認められ、そしてかれがプロデュースしたバレット・ストロング(Barrett Strong)の-Money (That's What I Want) のかなりのヒットによってこのインディペンダントレーベルはなんとか航海を続けられた。時代を読み、フィル・スペクターのウォールサウンドの発展系のようにビートをうちだし音を重ね黒人層だけでなく万人受けするキラキラと明るいソウルサウンドを構築したのである。

 1960年には初期モータウンの中心であった副社長スモーキー・ロビンソンは大活躍して自身のグループ「ミラクルズ」で「ショップ・アラウンド」 のミリオンセラーヒットをはなった。そしてスモーキーが書いたメリー・ウエルズの My Guy が1964年May 30付けキャッシュボックス誌でトップに立ったのを皮切りにAugust 29にはいよいよスプリームス(Supremes) のWhere Did Our Love Go が首位に躍り出た。

 それからNovember 14 Baby Love - Supremes
November 21 Baby Love - Supremes
December 26 Come See About Me - Supremes
1965 March 27 Stop! In The Name Of Love - Supremes
June 5Back In My Arms Again - Supremes
November 20 I Hear A Symphony - Supremesとリリースする曲が次から次へと1位を奪いスプリームスは女ビートルズと呼ばれたものであった。

 この年はビートルズ出現だけでも十分な衝撃だったのにスプリームスを筆頭とするモータウンサウンドの全世界へ噴出する奔流は完全に洋楽界の様相を変えてしまった。スプリームスのリードシンガー、ダイアナ・ロスは初めのオーディションでは若すぎるからとはねられ、タイプも打てないのに社長、ベリー・ゴーディ・ジュニアの机の整理をする秘書として雇われていた。ベリー・ゴーディはホーランド=ドジャー=ホーランドという才能溢れる三人組ソングライター/プロデューサー・チームに曲作りをまかせ、時が来るのを待って引き絞っていた弓にダイアナ・ロスというダイアモンドの鏃(やじり)をもつスプリームスを黄金の矢として時代を射たのだ。そのサウンドはやはりフィル・スペクターの「ビー・マイ・ベイビー」に端を発するビートを継承するものとみられている。
fumio



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