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1700年代、ドイツバロック音楽期、ゾフィー教会のオルガニストや宮廷室内楽団奏者を勤めたクリスティアン・ペツォールト(Christian Petzold)はト長調のメヌエット(BWV Anh.II/114)を書いた。その曲をヨハン・セバスチャン・バッハが「アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帖」に作者名なしに記した。以来この曲は「バッハのメヌエット」として知られることになった。
そして約百年を経て1870年、オペラの改革者、56才のリヒャルト・ ワーグナーに待望の長男、ジークフリートが誕生する。それは作曲家、フランツ・リストの娘、コジマとのダブル不倫スキャンダルに世間の非難を浴び蹂躙された末につかんだ夫婦の幸せであった。かれはその喜びを「バッハのメヌエット」の初めのモチーフ「シー、ミ、ファ#、ソ#、ラ、シ」に託し『ジークフリート牧歌』を書く。そのモチーフは「ワルキューレの騎行のモチーフ」で有名な歌劇「ニーベルングの指輪」でも使用され「平和のモチーフ」と呼ばれている。
それからそのまた百年後「ラヴァーズ・コンチェルト」が全米1位になった時、わたしたちは「バッハのメヌエット」が現代風に編曲されてヒットしていると思っていた。ところが実は元を正せば「クリスティアン・ペツォールトのメヌエット」であったのだ。名曲は時空を超えて甦り続ける。ペツォールトとは、ほとんど人口に膾炙しない名前だったが近年やっと認められてホッとしているだろう。
fumio
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1870年12月25日午前7時30分、スイス、トリープシェンの作曲家リヒャルト・ワーグナー邸でかれの愛妻、コジマの33才の誕生日の翌日、集まった管弦楽団員たちは階段に並び、のちに『ジークフリート牧歌』 と呼ばれる曲『交響楽による誕生日の挨拶』を静かに演奏し始めた。睡眠中のコジマはクリスマスの朝その音色に込められた夫ワーグナーの愛によって幸せに目覚める。
そして約百年後、1965年October 23付けキャッシュボックス誌でToys の A Lover’s Concerto という曲が首位に就いた。その曲の歌い出しに用いられているのは『ジークフリート牧歌』にワーグナーが使用した「平和のモチーフ」と呼ばれる「シー、ミ、ファ#、ソ#、ラ、シ」の旋律であった。ワーグナーの愛が時代を超えて現代に甦ったのである。あなたの耳もその旋律を聴き分けワーグナーの妻への思いを量(はか)ることができるだろうか。
fumio
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ビートルズもまたそんな時代の潮流に呑み込まれ薬物(LSDなど)による意識の拡張経験を経てアルバム「リボルバー」の一曲 Tomorrow Never Knows で音楽的実験を行った。
ジョン・レノンは山頂のダライ・ラマの祈りをイメージして作り、ポール・マッカートニーは自宅で録音したリュートその他の楽器や歌声のテープを持ってきてループにしてスタジオの調整卓のフェーダーで雑多な音を混ぜてコントロールした。それはライヴバンド「ビートルズ」が、そしてロック音楽がつぎのステージに進むターニングポイントになった。演奏したものをそのまま録音しレコード化するという基本から進化し深化してゆく。この曲でかれらの示した新たな方向性が歴史的アルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「アビー・ロード」を産むことにつながるのである。音楽制作のノウハウはかれら、ザ・ビートルズによって変革された。現代の音楽制作現場ではその遺産が生き続けているのである。
fumio
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問題、「ジェファーソン・エアプレイン」とはなんのこと?
解答、「マリファナタバコの端を持つのに使われる縦に割ったマッチ棒」
マリファナタバコは吸って短くなると持つ指が焦げて熱いのでそんな方法がとられた。
そのマリファナタバコを支えもつ形が飛行機のようなので冗談めかして命名されたらしい。
そんな名前をつけてデビューするとは「ジェファーソン・エアプレイン」はカウンターカルチャー、ドラッグカルチャーの申し子とみなされるのは当然だったのである。
fumio
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ビートルズとボブ・ディランの邂逅の頃、時代は60年代カウンターカルチャーと呼ばれる反体制運動、薬物文化へとうねっていた。
そんな中、出てきたのは60年代カウンターカルチャーの旗手とみられるサイケデリック・ロックバンド、ジェファーソン・エアプレインだった。かれらはボーカルにカリスマ性溢れる女性歌手グレィス・スリックを擁しSomebody to love
でヒットパレードに登場してきた。つぎにリリースした White rabbit は映画テレビで今もことあれば時代を表現するために流されるアシッドロックの定番となった。
ここで問題、「ジェファーソン・エアプレイン」とはなんのこと?
かれらは「ジェファーソン・エアプレイン」「ジェファーソン・スターシップ」「スターシップ」と名前やメンバー、サウンドを変えてきたが現在の 「スターシップ」の元々の名前「ジェファーソン・エアプレイン」とはなにを意味するのか?デビュー当時はその意味は有名だったが今では覚えている人も少なくなったかも。記憶の良い人には簡単な問題だけど生まれてなかった人には推理がむづかしい。
答えは明日。当たったときの賞品は自尊心の満足。
fumio
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1964 July 25付けキャッシュボクス誌で映画 A Hard Day’s Night の主題歌が首位になったビートルズはその1964年のアメリカ・ツアー中8月28日、ニューヨークのデルモニコ・ホテルに滞在していた。そこにジャーナリスト、アル・アロノウィッツがボブ・ディランを連れてやって来た。かれらは旧友のように語り合い盛り上がり楽しい時を過ごした。やがてディランは「きみたちの歌には主張がないね」などと本音をいいながら持参したマリファナをかれらにまわした。そのころアメリカではドラッグカルチャーが台頭していたのでそれは自然な行為だったがビートルズにとっては初めての体験だった。
その後、ビートルズの歌詞はそれまでの「きみ、ぼく、かの女、好いた、はれた」の世界から脱皮する。
1966年4月28日、29日、6月9日にわたって、アビー・ロード・スタジオでポールのビバルディ風にという注文で弦楽八重奏団まで用いて録音された「Eleanor Rigby」 の歌詞は詩人アレン・ギンズバーグも「バブルガムミュージックがこんな深い詞になるとは文化の進歩だ、と評している。ビートポップバンド、ビートルズはこのような大がかりな曲のライブパフォーマンスでの再現が無理になり以来、ライヴをやめてしまう。
一方ディランはロックを導入した音作りをするようになり名曲「Like a Rolling Stone」 を産みフォークから脱皮して自身の道を歩む。ビートルズとディランは互いに大きな影響を与えあった。天才達の邂逅はそのときは気付かれなくとも歴史を動かす大きな力となるのだ。
fumio
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「愛なき世界」でヒットしたピーターとゴードンに I Go to Pieces というヒット曲がある。わたしは良い曲だと思ってアメリカでもよく弾き語りしていたのだがその作者に気をとめたことがなかった。
ある時、ラジオのジョッキーが I Go To Piecesはデル・シャノン(Del Shannon)の曲だという。そのかれが1990年2月8日、22口径ライフルにより56才で自殺したと言ったので驚いた。
デル・シャノンといえば、わたしが洋楽に興味をもつすこし前のスターで、「悲しき街角 (RUNAWAY )」、「花咲く街角 (HATS OFF TO LARRY )」などがヒットして「街角男」と呼ばれた歌手である。先見性もあってビートルズが発売先契約問題で揉めているFROM ME TO YOU を歌ってヒットさせたこともあった。ブリティッシュ・インヴェィジョンの最中である1965年にはアメリカ勢として「太陽を探せ」KEEP SEARCHIN' のヒットを飛ばして立ち向かっていた。 時代を走るロック系歌手で大好きだった。歌手としてだけでなく作者としても立派なアーチストだったことを知って、自殺とはすごく惜しく残念な気がする。ミュージシャンには夭折の天才が多いので"I Go to Pieces" 「ぼくはばらばらになる」なんていわないで辛くとも落ち込んでも最後の1秒まで生ききってほしかった。多くの名曲ありがとう…デル。
fumio
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1979年夏、ロサンジェルスタイムス紙の日曜版、別刷「calendar」に「Apocalypse Now」と いう文字が載った。なんのことかと思うとフランシス・フォード・コッポラ 監督 の新作映画のようだった。封切り日に夫婦で劇場に駆けつけるとドアーズの The endに始まる映画冒頭から重苦しい雰囲気に包まれた。途中、精神に異常をきたしていると思われるキルゴア( Kilgore)中佐の戦闘ヘリコプター部隊が「ワルキューレの騎行」 をバックミュージックに村落を攻撃する場面は観客のだれもが見るのが辛かっただろう。映画が終わってもすぐに立つ者はいない。しばらく立てないのだ。駐車場に出てくる人々の足取りは重く虚しさやりきれなさの中だれかと顔を見合わせて微笑むこともなかった。実際にベトナム戦争を戦った国で封切りの日にこの映画『地獄の黙示録』を見た人々の反応はあまりに重いもので鉛でも呑んだようという表現に近いものがあった。わたしたち夫婦は異邦人なので部外者といえるけれどそれでも十分重く、帰りの車中でもあまり話しができなかった。映画を見てあれほど影響されがっくりしたことはない。
そして数十年が経って日本で暮らしているわたしの家にバプテスト派の宣教師ジェームズ・ラッセル師が何度かやってきた。若い頃流行った歌の話しで盛り上がった時、わたしが「ドアーズのジ・エンドはどう思う」と訊くとかれは「あれは最悪」と評した。
わたしはかれの反応が面白くなって「じゃあEve of Destruction 、は?」とたたみかけて訊くとラッセル師はやはり「あの歌も最低」と語気を強めて答えた。やはりこの二曲はキリスト者にとっては相容れない内容なのだと妙に納得したものだった。
fumio
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1963年8月に人種差別撤廃をスローガンに掲げた公民権運動のシンボルソングを提供し社会派フォークの旗手と見られたボブ・ディランは人々の期待とは裏腹に自分自身の道を歩んだ。ロックバンドで臨んだ1965年7月25日の第5回ニューポート・フォークフェスティバルでは「ユダ!」とののしられ、訣別のためにアコースティックギターで涙ながらに
It's All Over Now,Baby Blue を歌った。
ところがそのフォークファンに攻撃を受けた曲Like A Rolling Stone がその1965年September 18付けキャッシュボックス誌でトップに立っている。
そしてその次の週、September 25には バリ-・マクガイア(Barry McGuire)の Eve Of Destruction が入れ替わりに首位になった。これまたディランの作風を継ぐような歌だった。63年からビートルズ出現の64年65年へと時代は大きくうねり混沌としていたのだ。
fumio
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1966年、February 26付けキャシュボックス誌の首位はナンシー・シナトラの These Boots Are Made For Walkin’ だった。男性に隷属する立場から脱却する女性の自立を歌い当時の時代の空気を表していた。ナンシー・シナトラのなげやりなようなコケティッシュな魅力と相俟って半音ずつ下がる特徴あるベースラインが受けていた。
わたしはこの歌が好きでアメリカのクラブのバンドでベースを弾く時、指慣らしによくこのフレイズを弾いた。すると日系二世のギタープレイヤーが嫌がった。かれは離婚して慰謝料を毎月払っていたのだ。(歌の内容のように奥さんに出て行かれたのだろうか?)
わたしにとっては面白いベースラインフレイズもかれにはその現実をまじまじ思い出させるものだったのだ。日本人なら歌の内容と楽器のフレイズがそんなに強く結びついていないだろうし、歌に対する思いはずいぶん違うものだと思わされた。以来、ベースの指慣らしにこのフレイズは封印したものであった。
fumio
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問題、以下の1960年代を代表するガールグループ「クリスタルズ」の有名ヒット曲中本当のクリスタルズではないものはどれ?
Uptown - The Crystals
He's A Rebel - The Crystals
Da Doo Ron Ron - The Crystals
Then He Kissed Me - The Crystals
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1960年代初頭、 バーバラ・アルストン(Barbara Alston), メリー・トーマス(Mary Thomas),ドロレス・ディーディー・ケニーブルー( Dolores "Dee Dee" Kenniebrew),マイルナ・ジラード( Myrna Girard) そしてパトリシア・ライト( Patricia "Patsy" Wright) の五名の女性がクリスタルズ(The Crystals)というガールグループを結成しフィル・スペクターのレーベル、フィレス・レコード(Philles Records)と契約した。
そして「アップタウン」などのヒットを飛ばし活躍中のある日「クリスタルズ」のメンバーはラジオでジョッキーが「クリスタルズの新曲He's A Rebel」と紹介するのを聴いて口をあんぐりと開けた。なぜならかの女たちはそんな歌を知らなかったから。自分達がそんな歌をレコーディングした覚えがなかったのだ。
"He's a Rebel"はジーン・ピットニーがシュレルズのために書いたのだが合わないからと拒否された。フィル・スペクターはこの曲がすごく気に入ったのだがリバテイレコードがヴィッキー・カーのデビューシングルとしてレコーディングするという情報をつかんで、あわててダーレン・ラヴに歌わせバックコーラスにブロッサムズを起用してレコーディングした。スペクターはそのレコードになんと「クリスタルズ」とクレジットしてしまったのだ。名前が通っている方が売れるという判断だったらしい。
"He's a Rebel"は全米1位まで駆け昇り、それでクリスタルズはライヴパフォーマンスで"He's a Rebel" をやらなければいけなくなったがリードシンガーのバーバラ・アルストンの声質はダーレン・ラヴとかなり違うので15才の新人ドロレス・ララ・ブルックスをリードシンガーに抜擢することにした。Da Doo Ron Ron とThen He Kissed Me はドロレスがリードヴォーカルを歌っている。
ということで問題の答えは「He's A Rebel」でアーチスト名はダーレン・ラヴ&ブロッサムズであった。残念ながらレコードは名前がクレジットされていてもあまり信用できない。
fumio
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1964年はビートルズ出現に揺れたがもうひとつの大きい噴火があった。それがモータウンレコードの台頭であった。オーナーのベリー・ゴーディ・ジュニア(Berry Gordy, Jr.)はウィキペディアには銀行から600ドルと書いてあるが、家族に800ドル(ダイアナ・ロスのインタビューによれば700ドル)借りて二つの葬儀社に挟まれた小さなレコード会社を1959年に発足した。
ベリー・ゴーディは伝説の歌手ジャッキー・ウィルソンに - Lonely teardrops などを提供して認められ、そしてかれがプロデュースしたバレット・ストロング(Barrett Strong)の-Money (That's What I Want) のかなりのヒットによってこのインディペンダントレーベルはなんとか航海を続けられた。時代を読み、フィル・スペクターのウォールサウンドの発展系のようにビートをうちだし音を重ね黒人層だけでなく万人受けするキラキラと明るいソウルサウンドを構築したのである。
1960年には初期モータウンの中心であった副社長スモーキー・ロビンソンは大活躍して自身のグループ「ミラクルズ」で「ショップ・アラウンド」 のミリオンセラーヒットをはなった。そしてスモーキーが書いたメリー・ウエルズの My Guy が1964年May 30付けキャッシュボックス誌でトップに立ったのを皮切りにAugust 29にはいよいよスプリームス(Supremes) のWhere Did Our Love Go が首位に躍り出た。
それからNovember 14 Baby Love - Supremes
November 21 Baby Love - Supremes
December 26 Come See About Me - Supremes
1965 March 27 Stop! In The Name Of Love - Supremes
June 5Back In My Arms Again - Supremes
November 20 I Hear A Symphony - Supremesとリリースする曲が次から次へと1位を奪いスプリームスは女ビートルズと呼ばれたものであった。
この年はビートルズ出現だけでも十分な衝撃だったのにスプリームスを筆頭とするモータウンサウンドの全世界へ噴出する奔流は完全に洋楽界の様相を変えてしまった。スプリームスのリードシンガー、ダイアナ・ロスは初めのオーディションでは若すぎるからとはねられ、タイプも打てないのに社長、ベリー・ゴーディ・ジュニアの机の整理をする秘書として雇われていた。ベリー・ゴーディはホーランド=ドジャー=ホーランドという才能溢れる三人組ソングライター/プロデューサー・チームに曲作りをまかせ、時が来るのを待って引き絞っていた弓にダイアナ・ロスというダイアモンドの鏃(やじり)をもつスプリームスを黄金の矢として時代を射たのだ。そのサウンドはやはりフィル・スペクターの「ビー・マイ・ベイビー」に端を発するビートを継承するものとみられている。
fumio
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