去る3月7日(土)に〈3.11〉特別編5―「小さき声のカノン」―が開催されましたことは、すでにブログで報告させていただいております。
今回はその際にお書きいただいた感想文の中から、特に印象的だったものを一つ紹介させていただきます。
僕は埼玉県に住む中学生ですが、理科の授業でエネルギーのことについてやって、先生が原発を推進するかしないか私たち生徒に質問したのですが、賛成が10人くらい、反対派1人、無回答が20人くらいでした。
賛成なのも問題ですが、無回答なのは、日本人らしいというか、未来のことを何も考えていないのか、と思いました。
未来を支えていくぼくたち若い世代こそこういうことを考えていくべきだと思います。
このようなものは中学校や高校でもやるべきだと思います。
「無回答」が「日本人らしい」というのは、大人社会においてもあてはまる実態でしょう。
考えていないからなのか、関心を持たないからなのか、はたまた自分の意見を公にする勇気がないのか。
判断を示せない態度がいつのまにかこの社会の雰囲気となっている気がします。
そのことがいかに危機的なことであるかを、この若い参加者の方は鋭く見抜いているのではないでしょうか。
再び鎌仲監督がご紹介くださった、詩人・まどみちおのエピソードが想い起されます。
彼が戦時中に詠んでいた戦争高揚詩を、彼の詩集に載せることになった際、解説文に「戦争を翼賛せよと誰からも強制された覚えがないけれど、僕はこれを書きました。もし戦争になったら、やっぱり書くでしょう」との説明が付されたそうです。
重要なのは「誰からも強制された覚えがないけれど」という部分でしょう。
誰からも強制されたわけでもないにもかかわらず、なぜか、時代の風潮に自分の意見が合ってしまっている。
逆に言えば、時代の風潮に合ってなければ、無意識に自分の言葉を抑え込んでいるということではないでしょうか。
鎌仲さんに言わせれば、それくらい人間一人ひとりは弱い存在なのだ、ということです。
もし、今、私たちの日常の場で、自分の意見を示しにくくなっているのだとすれば、もしかしたら、それは戦争状態に私たちの社会が半分足を突っ込んでいるということなのかもしれません。
戦争状態とは、必ずしも戦場で戦闘行為に巻き込まれている状態だけをさすものではないからです。
山田洋二監督の映画『小さいおうち』は、戦争経験世代の祖母に孫が当時の状況をインタビューするという形で物語が展開されますが、戦争を知らない世代の孫が、祖母の語る戦時中の平和な日常に違和感を訴えるシーンがとても印象的です。
戦争はもっと悲惨なはずだよ、おばあちゃんの記憶違いだよ、と。
でも、くり返すように、戦争状態とは外部で起きる凄惨な出来事と平和な日常とが併存しながら同時的に進行する事態です。
そして、突如、身近に起きた悲惨な出来事だけがセンセーショナルに記録に刻まれ、それまで併存していた平穏な日常性は社会的な記憶から後退するわけです。
さらにいえば、その平穏な日常性の中で、いつのまにか自分たちの声は沈黙していったのではないでしょうか。
主体的に。
そのような時代認識が、にわかに現実味を帯びる中で、先に紹介した感想文に、大人世代は答えないわけにはいかないでしょう。
とりわけワタクシは職業柄、彼の訴えを肝に銘じなければならないと、あらためて気持ちを引き締めさせられました。
まだまだ闘いの日々は続きます。
あきらめずにこの時代社会を生き抜きましょう。
ご参加いただき、ご感想をいただきました皆様には、あらためて感謝申し上げます。
今回はその際にお書きいただいた感想文の中から、特に印象的だったものを一つ紹介させていただきます。
僕は埼玉県に住む中学生ですが、理科の授業でエネルギーのことについてやって、先生が原発を推進するかしないか私たち生徒に質問したのですが、賛成が10人くらい、反対派1人、無回答が20人くらいでした。
賛成なのも問題ですが、無回答なのは、日本人らしいというか、未来のことを何も考えていないのか、と思いました。
未来を支えていくぼくたち若い世代こそこういうことを考えていくべきだと思います。
このようなものは中学校や高校でもやるべきだと思います。
「無回答」が「日本人らしい」というのは、大人社会においてもあてはまる実態でしょう。
考えていないからなのか、関心を持たないからなのか、はたまた自分の意見を公にする勇気がないのか。
判断を示せない態度がいつのまにかこの社会の雰囲気となっている気がします。
そのことがいかに危機的なことであるかを、この若い参加者の方は鋭く見抜いているのではないでしょうか。
再び鎌仲監督がご紹介くださった、詩人・まどみちおのエピソードが想い起されます。
彼が戦時中に詠んでいた戦争高揚詩を、彼の詩集に載せることになった際、解説文に「戦争を翼賛せよと誰からも強制された覚えがないけれど、僕はこれを書きました。もし戦争になったら、やっぱり書くでしょう」との説明が付されたそうです。
重要なのは「誰からも強制された覚えがないけれど」という部分でしょう。
誰からも強制されたわけでもないにもかかわらず、なぜか、時代の風潮に自分の意見が合ってしまっている。
逆に言えば、時代の風潮に合ってなければ、無意識に自分の言葉を抑え込んでいるということではないでしょうか。
鎌仲さんに言わせれば、それくらい人間一人ひとりは弱い存在なのだ、ということです。
もし、今、私たちの日常の場で、自分の意見を示しにくくなっているのだとすれば、もしかしたら、それは戦争状態に私たちの社会が半分足を突っ込んでいるということなのかもしれません。
戦争状態とは、必ずしも戦場で戦闘行為に巻き込まれている状態だけをさすものではないからです。
山田洋二監督の映画『小さいおうち』は、戦争経験世代の祖母に孫が当時の状況をインタビューするという形で物語が展開されますが、戦争を知らない世代の孫が、祖母の語る戦時中の平和な日常に違和感を訴えるシーンがとても印象的です。
戦争はもっと悲惨なはずだよ、おばあちゃんの記憶違いだよ、と。
でも、くり返すように、戦争状態とは外部で起きる凄惨な出来事と平和な日常とが併存しながら同時的に進行する事態です。
そして、突如、身近に起きた悲惨な出来事だけがセンセーショナルに記録に刻まれ、それまで併存していた平穏な日常性は社会的な記憶から後退するわけです。
さらにいえば、その平穏な日常性の中で、いつのまにか自分たちの声は沈黙していったのではないでしょうか。
主体的に。
そのような時代認識が、にわかに現実味を帯びる中で、先に紹介した感想文に、大人世代は答えないわけにはいかないでしょう。
とりわけワタクシは職業柄、彼の訴えを肝に銘じなければならないと、あらためて気持ちを引き締めさせられました。
まだまだ闘いの日々は続きます。
あきらめずにこの時代社会を生き抜きましょう。
ご参加いただき、ご感想をいただきました皆様には、あらためて感謝申し上げます。
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