てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第39回てつがくカフェ@ふくしま報告―「公共性とは何か?」

2016年09月26日 08時11分37秒 | 定例てつがくカフェ記録
さて、9月24日(土)に39回目の定例てつがくカフェが、「イヴのもり」にて開催されました。
参加者は23名。
「〈公共性〉とは何か?」という、おカタいテーマであるにもかかわらず、23名の参加者に恵まれました。
今回は、4月に行われた議論の継続であることを踏まえましたが、そこに参加されていない方もいらっしゃるため、その継続にとらわれずに話し合うことを確認しました。
とはいえ、遠隔地で今回の議論に参加できない方のコメントを紹介しつつ、それを話のとっかかりとして始めることにいたしました。
そのコメントとは、これです。

「多様性といえば、公共性には必須の条件だと思っています。
多様性がない状態は公共ではないとも思っています。
公共は、社会集団とか色々と定義はあると思いますが、個人が組み合ってる状態、みんなのことですかね。
公共が皆のことなら、個人が窒息しては皆と組み合おうとは思わないと考えます。
目的がはっきりしている小集団、例えば会社は、目的が同じ個人が集っています、目的を達成するために個人は何をするのかに帰結していくと思います。
そういった状態では、個人間に差をもうけて、例えば待遇とか、目的達成を推進します。
僕の中では、これは公共ではありません。
少し分かりにくいかもしれませんが、皆のことを考える場面が公共で実行するのは公共ではないという整理です。
公共性とは個人が公平であり、尊重された上で、公共の話しが可能なことだと思います。抑圧されることがなく、公平にものが言える、存在できる事と言い換えられます。
このようなことが約束されていることは、公共性の大事な要だと思います。否定があると力関係が発生しますし、力関係が前提となればものが言えなくなることにも繋がります。
言いたいことが言えない、存在が認められない、窒息します。窒息すると公共のことなんて考えなくなります。
公共性のためには、公平であることを追及する必要はあると思います。
誰でも生理的に受け入れられない主張はあると思いますが、主張を封じ込めては公共性は成り立たないと考えます。
居心地が悪いかも知れませんね、公共は・・修行の場ですね、一体になることはないんでしょうからね。
雑多であるし、画一化されていない。僕が考える公共性とはこんな感じです。」


ちなみに、この方も4月の哲カフェには参加されていません。
これをもとにしてまずは、公共性を「公園」のような場であることからとらえる次の意見が出されました。
「多様性が公共であると出ていたが、主婦で子育てをしてきて、ポスターの公園を見て、公共ってこういうことかなあ。公園には多様性がある。サッカーで遊んでいる子が広がってくると、ちょっとこっちまでは来ないでくれると言いたいことを言って、それぞれを尊重できる場。身近な公共を感じられる多様性を尊重できる場であった。」

これに対して「公共のためには公平性を追求しなくてはならないとあったが、公平ではなく平等ではないか」としながら、「必要な人と必要でない人が折り合いをつけながら、お互いに別の目的をもつ人たちが対話をして公共性を追求していく」イメージを上げる意見も挙げられます。

さらに「みんなに開かれていることが公共性なんだろう」という意見が出されます。
ただし、ここで「みんな」と言っても、税金を使って作るもののように、「みんな」のお金を使ってやることは「みんなのもの」でなければならないということを「みんなが了解をしている」ことが必要であるといいます。
その了解が広がっているいれば、「公共性」の高い社会といえるのではないか。
逆に、その了解がないと、閉じられると集団だけになってしまうのだろうということです。

議論は「公園」から、一気に「社会」のレベルにまで引き上げられたため、いったん「社会」のレベルと「公園」のレベルの公共性とを区別した上で議論することがファシリテーターより指摘されました。。
そのうえで、「公共性」に共通するものが「みんなに開かれている」という点で一致していることが確認されました。

すると、「ひとりで生活していれば公共性を考えなくていいけれど、公共性を考えなくちゃならないのは利害の対立があるからではないか」という意見が挙げられます。
逆に、利害対立のないような状態においては、「みんなのもの」なんて考える必要もないわけです。
そのように考えれば、「公共性は創り上げていくもの」にほかならず、しかも、それはいろいろな集団や文化のなかで公共性は創られていくものである以上、一言で「公共性」と括れることはできないのではないかとの指摘がなされました。

ここまで議論したところで、「そもそも「公共」と「公共性」は何が違うのか?」という疑問が投げかけられました。
果たして、「性」が付くと意味はどのように変わるのか?
可能と可能性、現実と現実性、人間と人間性…
さしあたり、「性」には性質を意味しながら、「らしさ」とか「っぽさ」という言葉を当てはめることができるでしょう。
ということは、「公共性」とは「公共らしさ」とか「公共っぽさ」ということになりましょうか。

これに関して「公共」は制度、システムを指し、「公共性」は対話が発生してその間、対話のなかに含まれているものであり、そこに生まれる差異結びつけるなかに公共性が生まれるとの意見が出されます。
「場」として固定されたものではなく、そこにいる人たちの「あいだ」に現れるもの、すなわち「関係」において公共性が現れるという意見は、これまでの「公共性」観とは異質なものでしたが、とても興味深くかつ斬新な見方の提示でありました。
ただし、その発言者は、そのあいだをつなぐものを「情」と表現し、感性的なものに根拠を求めます。
近代的な意味で言えば、「情」は果たして公共性の基盤となるのか、むしろ同質性の塊になるだけではないのかという疑いも生じますが、むしろここでの「情」や「感性」はそれとは別種のものを言い表そうとしているように思われました。

すると、あらためて「公共性」とは何か整理するところに議論は立ち戻ります。
「どういうところを公共の場というのか。駅も公共の場。2人でカフェで話しているときも公共の場。そこでは相手に殴りかかったりしないし、いきなり歌ったりしないで、お互いに公共性を担保する」という意見には、そこになにがしかのルールや決まりが共有されているところに、公共性が成立することを言い表しています。

それに対して、「哲学カフェにおいてはいろいろな意見、対立する意見が出るけれど、そのテーマのいろいろな側面が見えるので、哲学カフェではまったく違う意見が出ても暴力ではない。暴力的な言い方をされたら違うけれど、意見の対立は否定ではない」という意見や、「誰かの意見に対して否定するとは公共性を壊すことではない。違う意見を出し合うことは否定ではない」という意見が出されます。
一方、「会社など一般の場では必ず対立がある。負けない工夫して臨んでいる。でも、それは公共ではない。公共はあるものが満たされたとき、その前提のもとで成り立つ。否定をしないとか、他人を罵倒しないとか。でもそういうのはなかなか成り立たない」という意見も出されます。
どうも、生活全般にわたって秩序を保ちながら自由に物事を言い合える場というのは、実に少ないというのが共有されているようです。

ところで、「否定があると公共性は担保されない」とは、冒頭のコメントにも合った主張ですが、そこでいう「否定」は暴力的なものではなく、一定程度決まり事を守ったうえで交わされる異論・反論とは異なるということです。
さらに、「異論はいくらでも出していい。国会の論戦など高いところを目指しての議論はあまり見たことがないが、哲学カフェでの議論は理解を深めるものである。決めつけたり排除したりするといけない。あくまでも食い下がって議論するのはあり」という意見も挙げられます。
そこには「言い方」を問題にする意見も付け加えられました。
「私道には植木鉢を置いておいてもいいが、公道に置かれると邪魔になる。でもここに置いちゃダメだろうと否定されると話し合いが壊れる。公共の場では、○○だから~してください、と言葉の使い方、言い方によって分かち合っていくようにしなければならない。」

けれど、公共性は言い方の問題に収斂されるものなのでしょうか?
そこに公共性を求めてしまっては、それこそ「気性の激しい人」や「言葉の荒い性質の人」などは排除されないでしょうか。

「第三者がどう見るかをどう意識するかによって変わってくる。都会では干渉しないという公共性。村社会では村のために望ましいことをするのが公共性。てつカフェでは意見を出し合うのが公共性。」という意見には、やはり、その社会や場、文化によって「公共性」の意味合いは異なることを示されています。
けれど、「ムラ社会」に公共性なんてあるのでしょうか?
「世間体」が支配するような、狭い範囲で暗黙のルールを強制される社会を公共性とは言わないのではないでしょうか。

これに対しては、「公共性は「みんな」が大事。公共の場で大声を出さないという暗黙のルールを守るのが公共性。ルールを守っている、ルールが大事。」という意見があらためて挙げられます。
「公共性にも影と光がある。ルールを守る人たちにとっては有益なものになるけれど、ルールを守らない人は淘汰、排除、村八分にされる。それが闇。公共は過激になれば悪いものにもなりかねないのではないか。」
「民主制社会のなかでの公共性という条件がつく。暗黙の了解というよりは共通認識とか「いい意味での」常識によって保証されるのが公共性である。」

なるほど、「ルール」や「いい意味での常識」、「話し方」も含め、それらを守ったうえで対話が成立することが「公共性」に値するというのが、全体として共有されたことです。
 
すると、「公共性は限りなく自由がある状態と思っていたが、ここまで話してきてどうも違うような気がしてきた。ある社会的集団のなかでルールが守られた秩序が保たれた状態のことを意味するということらしい」という感想を漏らした方がいらっしゃいました。
これも大変興味深い意見です。
「公共性」は「自由」と関連すると思われていたものが、どうも「ルール」や「言い方」、「常識」に規定されるのだとしたら、むしろ「秩序」に依るものらしいということです。
これに対しては、「秩序が保たれて、でも異論が言える空間。それは公共性の自由ではないのか」という意見が挙げられます。
「自由がどれだけ実現されているか、民主主義の成熟度を左右するのが公共性。感性というのはその実践能力としての感性を指しているのではないか。」
なるほど、「常識的」な理解では「公共性」はそのように定義できるのかもしれません。
でも、それと「ムラ社会」とはどこまで違いがあるのでしょう?
民主的な「ムラ社会」というのも当然あるでしょうし、その社会のルールを共有するとか決まりを守るというのは、「郷に入れば郷に従え」という閉鎖性とどう異なるのか、その違いを明らかにしなければならないでしょう。
公共性が「みんなに開かれた場」を基準とすれば、その「みんな」とは、果たして誰のことなのか?

こうした疑問が頭の中に浮かぶ中、突然、「人間同士のなかでしか公共性は成立しないのか? 動物との間でも公共性は成り立たないのか? 人間だけは公共的だけれど動物が抑圧されている社会は公共性と言えるのか?」という、別の角度からの問題提起がなされます。
「生き物の群れがもっている距離感が公共性ではないか。部屋のなかにムシや生き物が入ってきて、それを放っておくのは公共性か?」
「動物と人間の公共性を考えれば、飼い犬どうしが噛み合わないのは人間がそういう公共性を作ったからだろう。人が正しいと思うものを動物に当てはめているだけで、動物の公共性は人間が作ったものに過ぎない。」
動物と人間の共生という意味で「公共性」を用いるのであれば、たしかに人間中心主義という意味において成り立つでしょう。
これに対して、「赤ん坊が電車のなかでギャーギャー泣いていたらどうするか。人間と動物を同じ目線で語ることはできない」との意見も挙げられます。
とはいえ、「躾」という意味では、やはり「赤ん坊」という自然状態を公共性に適応させるために矯正する営みが教育にはあるとも言えます。

さらに、その問題提起者は、「宇宙は公共のもの。地球は人類のものなので公共と言えないかもしれないけれど。何かしらの条件付けがあって、何かしらの対立が出てきてそうなってしまう。来るもの拒まず、去る者追わずが公共性という意味に尽きる。税金を使ってトキを保護しているけれど、あれは人間のためにやっているのではないか。牛や豚が絶滅すると人間は困るがトキは絶滅しても困らない」と言います。
話題が宇宙―地球レベルの「公共性」に至り、、ますますどこまで「みんな」を広げられるのか、議論は混迷を深めます。
「自然をどれだけ壊してきたかという罪の意識が芽生えてきた。贖罪の意識で守っているだけ。公共性はあくまでも人間の文化的な産物だ」

すると、宇宙の話題から、今度は一気に御町内の話題に移ります。
「近所に猫屋敷があってあちこちに猫が糞をしたので、申し入れをした。猫にとってはどこだって公共の場だけど、ご近所のみんなにとっては困りものだった。その飼い主は猫に関しては自由というスタンスの人なのですが、ご近所の皆さんはお金をかけて猫排除対策をしなければならなかった。その人の問題は猫問題だけでそれ以外の面では尊敬できる人だったので、じっくりと対話したがなかなか解決しなくて、公共性のつらさというか弱さというか。その人を全否定はできない。うまくやっていけるものならうまくやっていきたい。けれど、そこで忍耐しなければいけないというう点では公共性はつらい時もある。」

ご近所トラブルは、一般に「常識」のないご近所さんによって周囲が迷惑するという構図が成り立ちます。
では、その対話も通じない「非常識」な相手にどう対処すべきか。
哲カフェのような時限的な場はよいとして、町内のような空間はなかなか移転などできません。
暗黙のルールが共有されているなかで秩序が成り立って多様性を認めあえて公共性が成り立つというのがこれまでの議論音主流でしたが、ここでは、「いい意味での常識」を共有していない人は排除しなければならないのか、という疑問が生じます。
これは、今後日本社会に移民が増えると常識どころか言語も共有されなくなる事態が増加するだろうという想定を踏まえれば、さらに深刻でリアルな問題を指摘するものでしょう。
果たして、そこにおいて公共性はどう成り立つのか。

「掃除、犬猫の問題は辛抱強く呼びかけ続けなけばならない。あの人公共性なくて困るとは思っているけれども、その人相手に辛抱強く対話をしている。」
「ゴミの集積所問題。ゴミ捨てのルールはなかなか守られない。」
「ゴミは排他性の先鋭的問題。他者が来た時に真っ先に問題になる。」
「避難の人が増えてゴミのルールを守らない人が増えた」という言い方をする人が現実にいることを考えると、まさに常識や決まりを共有できない「他者」との間に「対立」が生じた時にこそ、「公共性」の真価が問われるとも言えるでしょう。
その点では、「ゲーテッド・コミュニティ」がある種の階層の人々が、自分たちの公共性を保つために排他的なコミュニティを作っているという問題についても考えなければならないでしょう。

「ルールを破るのは通りすがりの人。コミュニティのなかの人ではない。するとだんだん監視社会になっていく。監視社会になるのはやめようとがんばっている。」
定住しない、いわゆる「流れ者」は公共性を無視するというのも常識的な解釈の一つでしょう。
それに過剰に反応することが監視社会を招くのではないか、というのは重要な指摘です。
一方、「夜働いている人もいるので前の日に出す人がいるということがわかった。出したあとにネコや鳥が荒らすことがあるが、そのときはゴミ集積所に一番近い人が片付けてくれたり、正しいゴミの日まで保管してくれたりしている。辛抱強く公共性が育つように待つ。きちんとした公共性というよりは柔軟なゆるさのある動的公共性であったらいいのかなあ」という意見も出されます。
この発言者は「辛抱強さ」や「ゆるさ」という表現を用いますが、これは社会的には「寛容」という問題に接続します。
「不寛容」な社会が移民排斥や差別的暴力に結びつくことは、つとに問題にされています。
では、この「寛容」をどう理解すべきなのでしょうか。

「公共性と民主主義は似通っている。権利と義務。いいことと悪いこと。公共性にもいいことと悪いことがある。自由と責任。自分がゴミを保管したり道を掃いたりしてくれる人、公共に奉仕する人がいることによって公共性は保たれている。」
「気持ちにゆとりがあるから辛抱強く受け止めてくれる。日常に溶け込んでいけるのが公共性。」
これらの意見には、どうしても勝手なことをする人間がいるのだけれど、社会はそこを埋め合わせる人々が必ず存在する。
その存在の割合に応じて、その社会の「公共性」や「寛容」の尺度が決まるのではないか。
それを「割り勘」や「動的平衡」という言葉で解釈する参加者もいました。

しかし、こうした公共性が成立したとしても、さらにそこに困難や問題があることが指摘されます。
「公共性は共存関係と言い換えることができる。共存関係を乱すものに対して排除することになり、監視社会になってしまう。弱者が共存できうるような形が望ましい公共性であるとすれば、動物も社会的弱者として共存する。けれど、その対話が社会的弱者を排除してしまう側面を持ってしまうこともあるのではないか。福島の放射線を恐れているお母さんたちが声を抑え込んでしまうというのは、まさにその問題だと思う。」
「言葉を発することそのものに暴力を受けるのではないかと感じてしまう人たちがいる。そういう人たちを排除しないのが公共性ではないか。」
福島の復興を声高に叫ぶ、ある種の「常識」が別の少数者の声を封じてしまう。
そのマイノリティを排除する言説空間を「公共性」と名指すわけにはいかないでしょう。
この夏、「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を観ましたが、まさに社会の無法者ですらも法の下において平等に扱うのが、憲法の両義的な公共性です。
対話の「場」としての公共性においても、なおこうした声なき声を排除しないことを志向することは多様性を保証する上で必須条件です。

最後に年配の参加者から、貴重な問題提起を受けます。
「公共性はよくわからないが、キーワードは対話。飯舘村の自分の属していた行政区は対話ができなくてバラバラだったが、他の行政区では80%の集会参加率。親戚の血筋のつながりがものすごく強くて、腹を割って話していない。総会で意見を言っても、行政府が勝手にやってしまう。ディスカッションの時間が短縮され、議長がなるべく発言しないでくださいと進めていく。放射性物質の仮仮置き場も地権者が勝手に決めてしまう。対話がなくて公共性が成り立たない。私道と市道が入り組んでいる場所で対話ができない。公共性の認識が対話する以前から崩れてしまっている。対話しようとしても対話できない。対話がちゃんと成立して腹を割って話し合いみんなで理解し合って成立させていくものである。それが哲カフェのようにきちんと議論できる条件がない。だから公共性以前の問題がある。」

職場や地域社会の会議などで対話が成り立たないというのは、ある意味で日本社会全体が抱えている深刻な問題ではないでしょうか。
お任せ民主主義。
公共性が対話に基づくというのが、今回の哲カフェの一つの知見であるとすれば、そもそもその条件である「対話」の仕方を共有できなくなっているのが日本社会の根本的な問題なのではないか。
いや、そもそも日本社会に「公共性」など果たしてあったためしがあるのだろうか?
「公共性の認識は未熟。みんなで話し合って決めていくことが日本にも福島にも浸透していない。」
「公共性がある場や公共性のある人というのは? 個人として自立している人が多ければ多いほど気持ちのいい公共性が成り立つ。」
「公共性が保たれている場は参加して楽しい、そこに行きたいと思える。参加するためにはその場のルールを守るという意識がある。」
これらの意見には、これからの「公共性」の可能性が示されていると思われます。

最後に、個人的に最近知り合った若者から投げかけられた印象的な言葉を紹介します。
「激しい議論の末に破綻してしまうような場を公共性があるとは言えないでしょう。」
今回の哲カフェでは、そのことが「言い方」や「ルール」の共有を主眼に置かれてきたように思われますが、むしろ彼の言葉は、いかに「言い方」が激しかろうが、対話のルールを無視した発言であろうが、それを許容できない公共性など公共性に値しないというわけです。
愛知県在住の哲学カフェウォッチャーの方は、@ふくしまは参加者が安心して対話ができる場として成り立っていることが最大の特徴と称賛して下さいました。
それはとてもありがたい評価ですが、一方で「多様性」を本気で尊重する場を「公共性」の基準であるのだとすれば、そこに安住するだけでは不十分な気がします。
「公共性は創られるもの」という今回の知見一つに依るならば、まさにそれは「不可能な公共性」を目指してこそのもののはずです。
まだまだ哲学カフェでの「公共性」は発展途上なのだと考えさせられる時間でした。