昨日、初の試みである第1回哲学書deてつがくカフェが、サイトウ洋食店にて開催されました。
参加人数が読めないことは毎度のこととは言え、さすがに哲学書を読みながらのてつカフェには人がほとんど集まらないだろうと予想されました。
しかしそんな予想も杞憂に過ぎず、今回も11名の方々にお集まりいただき開催されました。
課題本は、かのデカルトの『省察』の第一省察と第二省察です。
なぜこの選書だったのと聴かれることも度々でしたが、晦渋な文章が立ち並ぶ哲学書の中でも、できるだけ読みやすい作品を選ぶことを重点において選んだものです。
とはいえ、開催前から「難しい」というご感想をいただいておりましたし、実際レジュメをまとめる過程で初めて読む方にはかなり困難が伴うだろうなぁという感触もありました。
てつカフェが毎度毎度、どう転ぶかわからない対話の展開を基本としているとはいえ、今回ばかりはどう展開させればいいかわからないという悩ましさがありました。
そもそも、いつもの本deてつがくカフェとどう違うのか?
哲学書と一般書籍の区別はそれほど明確なのか?
読書会にならないか?
哲学講義になってしまわないか?
等などの疑問は世話人のあいだでも話し合われました。
もちろん、デカルトの専門家でもない参加者同士がむやみやたらに読みあえば、誤読が生じる危険性があることは重々承知の上です。
哲学史上の基礎概念を知っておかなければ理解できないことが多々あることも承知の上です。
にもかかわらず、果たして哲学書にふれながらてつカフェを行うことは可能か、意味があるのかという実験的な試みとしてまずはやってみようということになりました。
その上で、事前に世話人のあいだで確認されたのは、哲学書の精読ではなく、その哲学書が提起している問いを共有しながら、いつもの対話を進めればいいのではないかという点でした。
中には課題本を読まずに、あるいは挫折したけれど対話には参加したいという方々がいらっしゃるかもしれないので、世話人がある程度概要を説明した上で始めようということになりました。
さて、本番はまず第一省察の中でふれられている夢と現実を区別する標識がないという点から議論が始まりました。
映画『マトリックス』のように、今現在見ている世界がひょっとしたら虚構の世界かもしれない、夢かもしれないということは十分ありうるのではないか。
こう発言された参加者によれば、世界は自分の死とともに終わるともいいます。
とすれば、世界とは自分の意識のことだ、ということになるでしょう。
同時に、現実とは意識のことだということになれば、それはコンピュータに脳内を操作されて見せられている世界を現実だと思い込んできる『マトリックス』の世界だということにもつながります。
その上で、いま見ているこの現実は夢と区別されない、というわけです。
ここから参加者の様々な夢体験が示されながら夢と現実の区別について論じられました。
夢の中でも「痛い」という感覚はあるし、夢を見ているときにはいくらはハチャメチャな状況であっても、基本的に現実だと思い込んでいる以上、その瞬間は現実なのだ。
夢の中で夢を見ることがあるけれど、てつカフェに参加している今もひょっとしたら同じ状況にあるのかもしれない。
いやいや、それでも夢から覚めるという瞬間もみんな知っているではないか。
だとすれば、その覚めるという経験がある以上、どこかでその区別はしているのではないか。
この点に関していえば、夢の中でトイレを探しているとき、現実には尿意を覚えているときの気持ち悪さがある例が挙げられました。
さらにいえば、夢の中で用を足している場面から現実に引き戻されるのは、おねしょをしてしまったときの感覚的な気持ち悪さが生じるからではないでしょうか。
すると、デカルトが『省察』で論じるような感覚のあてのならなさは、むしろ逆で感覚こそ現実に引き戻すものではないか、そんな疑問が生じます。
逆に、原発事故が起きた時のことを思い返せば、あまりに理解を超えた現実に、毎朝目が覚めるたびに「アレは夢だったのではないか」と思う日が続いたものです。
これはまさに原発事故という信じがたい現実を受け入れられない心理が、まさに現実を夢と区別できなかった状況を生んだのかもしれません。
しかし、ニュースを見るたびに「やっぱり現実だったんだ」と現実に引き戻されたものです。
もちろん、現実と真実が同じではないのですが、私たちは現実に引き戻されたり夢から覚めるという瞬間は、明証的とはいえなくてもたしかに持ちうるのではないのでしょうか。
別の意見からは、現実と夢の区別は他者の存在なのではないかという考え方が示されます。
それによれば、あの現実とは思えない3.11の出来事に直面したとき、それが現実だと確信させられたのは自分以外の他者の死によってだったといいます。
あるいは、他者に「アレは現実だよね」といわれたときに、初めて現実を認識できるともいいます。
なるほど、自分自身だけで確信しているあいだは、むしろ妄想かもしれません。
他者と世界を共有できたときに世界があることを確信し、むしろ自分の意識だけの世界は何かぼんやりとした、それこそ夢のような世界、あるいは現実のレベルにとどまっている感があるというのはわかる気がします。
デカルトに言わせれば、その他者が確実にそこにいるなんてどうやって証明できるんだ、ということになるかもしません。
それでも、夢の中でさえも他者とケンカしているときなどは、とりわけ夢とは思えない現実的な瞬間だということを思い起こせば、感覚などよりも他者との関係性こそが強い現実性を生じさせるのかもしれないという意見も挙げられます。
さらに、カントを引き合いに現実と夢を区別するのは時間という要素があることも示されました。
つまり、夢は断片的で一貫性がないのに対し、現実は昨日も今日も明日も一つながりで起きているものと認識できるものだというわけです。
さらにいえば、これは記憶ということも関係するでしょう。
しかし、そうだとすれば認知症患者にとって現実とは何かという問いが生じます。
認知症患者がしばしば「夢の中にいるようだ」と語った体験談も示されましたが、それはまさに記憶と時間の一貫性を失われたことが、現実の喪失を表しているように思われます。
では、デカルト的にいえば、そうした妄想を見ている私は存在しているということになるのでしょうか?
デカルトは感覚する私も、想像する私も、意欲する私も、考える私も同一の私ではあるけれど、「感覚や想像する私」を考えているあいだは、確実に「考えている私」が存在しているといいます。
しかし、記憶や時間性を失っていると自覚できない、つまり考える対象とできない人間は存在しているとはいえない、ということになるのはないでしょうか。
デカルトは倫理的な観点から真に存在するものを考え抜こうとしたわけではありません。
ましてや、夢と現実の区別を主眼にしたわけではなく、あくまで「疑いを少しでも差し挟めるもの」は真理と判断しないで考えようと提案したわけです。
その意味でいうと、議論で交わされた現実に目覚めるという論点は、デカルトに言わせれば「だから~、現実は真理ではなくてむしろ欺かれて見せられているという疑いを限りなく払拭できないものなんだって!」と突っ込まれる話だったかもしれません。
しかし、ではデカルトが疑いようなく確実に存在する「考える私」というのは本当なのか?
1時間ほど経ったところで、途中から参加された方から、「そもそも皆さんはデカルトの考え方に賛成したのか?」という問いが投げかけられました。
ここから、第二省察が主題とするところの「考える私」と真理の関係についての議論が始まります。
この点に関して、ある参加者から「あれだけ疑うことを徹底しようとしたデカルトが、どうして〈考える私〉も疑わなかったのだろうか?」という問いが投げかけられました。
さらにその発言者は、今ここにいる私ですら存在するかどうか判明とは思えないとも言います。
別の参加者からは、「考える作用」の存在は自明にあるという点では了解するとの意見が挙げられました。
これは「考える私は存在する」ということとは別のことです。
考えるための理性の「作用」が、なぜ「私」とイコールになるのか?
別の言い方では「考える意識」は存在するということです。
では、「私」とは理性の作用のことなのか、意識のことなのか。
たしかに、それらは「私」の一部ではあるかもしれないけれど、「私」そのものでもないし、「私」とはそのようなものに縮減されるようなものではない、ということになります。
別の意見によれば、この「私」がもし「人間」と言い換えるならば、つまり「人間は考える、ゆえに人間は存在する」という命題になるのであれば、(正しいかどうかは別として)哲学の体系内に収まるだろうと言います。
さらには、もし「疑う」や「考える」ことができるロボットができたのだとしたら、そこに「私」は成立してしまうのか、多重人格者の場合は複数の「私」が存在するというこになるのか等などの疑問が挙げられます。
これらの意見には、おそらく「考える」という一般性が個別特異な「私」の存在を規定できてしまうのか、という疑問があるのではないでしょうか。
つまり、ここでいうデカルトの言う「私」とは「考えている私」は存在するけれども、「考えていないときの私」の存在までは含めていません。
もっとも、「考えているあいだは私は存在する」だけであって、「私」なるものが考察の対象ではないといえばそれまでですが、ではその確実性を証明するために、存在そのものが疑わしい「考える私」以外の「他者」の承認に向けて、デカルト自身が『省察』を書き送った事実をどのように考えればよいのでしょうか。
デカルト自身、『省察』の冒頭にある「ソルボンヌ宛書簡」において、自分の無知や誤りやすさを自覚しながら、読者の批判により完全な内容を完成させたいと述べています。
なぜ、「考える私」だけが確実に存在するのだとすれば、それに訴えるだけで真の存在は証明できるのだ、とはしなかったのでしょうか。
これとは別の観点から、デカルトの考えに反対するという立場の参加者から、「疑う」や「理解する」というのが言葉である以上、その言葉を超えた「真理」を言い表すということが無理なのだ、という批判が出されました。
デカルトはしばしば幾何学のように演繹的に真理を証明できる方法を、神の存在論証明のモデルにします。
しかし、数学的真理も数学という閉じた言語体系内での証明でしかありません。
同様に哲学は言語で語られるものですが、言語によってしか思考できないし、その言語体系内でのみ言い表せるに過ぎない。
その自覚があれば、認識も言語も越えた「真理」や「神」の存在を証明できるというのは語義矛盾だ、というわけです。
このことを、脳を解明しようとする研究の大本は、脳それ自体である以上、脳の能力の限界を超えて脳の真理に迫ることは不可能だというアナロジーで言い換えた発言もありました。
その脳にせよ言語にせよ、その守備範囲の限界を超えて証明できると言い放ったとき、空想や妄言に至るものです。
デカルトは「疑う」という言葉そのものを疑っていないのです。
さて、議論は最後に「精神と身体は区別できるか」とい論点に移ります。
デカルトも述べているように、物体というものが自分では動けないことを本性とするにもかかわらず、物体である手や足は自ら動かすことができますが、これは精神や魂なるものが物体内に行き渡ることで可能にさせるというイメージがあります。
いわゆる心身二元論ですが、この心身観によって脳死臓器移植は可能になったわけです。
この問題は、「脳死は人の死か?」というテーマを扱った前回のてつがくカフェとも関係するでしょう。
これに関して脳死臓器移植の際に、味覚が変わるといった事例から記憶や意識が物質的なものと関係している以上、それらは区別できないのではないかとの意見が出されました。
物質と精神がどこまで関連しているのかという問いは科学的な知識も必要になりますが、これは古今東西問われてきたものではないでしょうか。
たしかに物質的な脳はどれをとっても微妙な量的差異しか見出せないにもかかわらず、一人ひとりのユニークネスはその物質的な要因にのみ還元できない不思議さがあります。
すると、物質とは異なる何がしかを想定せずにはいられなくなります。
たしかに、脳がなければ思考することができない以上、脳という物質的な要素は精神にとっての必要条件ではあるでしょう。
デカルトはそれに規定されて終わるのではない「永遠不滅の精神」の在り処を探ろうとしたわけですが、しかし、それはまさに脳という物質に規定された精神、理性によってどこまで証明可能なものなのでしょうか。
今回はここでタイムアップとなりましたが、世話人としては終わった後も、今回の哲学書を用いたてつがくカフェが果たして成功したのか、今後とも取り上げていってみてよいものなのか、非常に気に懸かっているところです。
2次会(という名の飲み会)では何人かの方にご感想をいただきましたが、わりとデカルトの哲学に関心をもったし、その思想背景を知りたいや、もっと突っ込んだ内容理解をしたいといったご要望、デカルトはもういいけれど別の哲学者を取り上げてほしいといった肯定的なご意見をいただきました。
たしかに、今回の方法はデカルト研究の専門家の方からすれば、かなり乱暴な扱い方に見えるでしょうし、その意味で哲学書を扱うのであれば、しっかりとした精読をする勉強会スタイルの方がよいのだとは思います。
しかし、てつがくカフェとしては、そうしたスタイルではなく、あくまで哲学者との対話を媒介に参加者との対話を重視していきたいと思います。
もし、今回のカフェを通じてデカルト哲学に関心をもたれたとすれば、それだけで成功といえますし、それならば別の読書会なり勉強会という場を設けて取り組んでいくことは吝かではありません。
むしろ、心配するところは、難解な哲学書を読まないと参加できない、難しくて足が遠のくといったことを払拭しながらこの企画がうまくいくとしたらどのような形がありうるのか、ぜひご参加いただいた皆様にはこのブログにコメントをお寄せいいただければ、とてもありがたいところです。
そして今回、興味はあったけれど参加しにくかったという方にも、そのお考えをお聞かせいただければ幸いです。
今回はそもそも本も読まずに参加された方が何名かいらっしゃいました。
その中のお一人に、哲学することには関心があるけれど哲学書を読むのは嫌いなので、今回のてつがくカフェでそのイメージが変わるかどうか試しに参加してみたという方がいらっしゃいました。
結論としては何も変わらなかったとのことでしたが、この方のように課題図書の哲学書を読まなくても対話に参加しやすいてつがくカフェの可能性を今後とも探求していきたいと思います。
参加人数が読めないことは毎度のこととは言え、さすがに哲学書を読みながらのてつカフェには人がほとんど集まらないだろうと予想されました。
しかしそんな予想も杞憂に過ぎず、今回も11名の方々にお集まりいただき開催されました。
課題本は、かのデカルトの『省察』の第一省察と第二省察です。
なぜこの選書だったのと聴かれることも度々でしたが、晦渋な文章が立ち並ぶ哲学書の中でも、できるだけ読みやすい作品を選ぶことを重点において選んだものです。
とはいえ、開催前から「難しい」というご感想をいただいておりましたし、実際レジュメをまとめる過程で初めて読む方にはかなり困難が伴うだろうなぁという感触もありました。
てつカフェが毎度毎度、どう転ぶかわからない対話の展開を基本としているとはいえ、今回ばかりはどう展開させればいいかわからないという悩ましさがありました。
そもそも、いつもの本deてつがくカフェとどう違うのか?
哲学書と一般書籍の区別はそれほど明確なのか?
読書会にならないか?
哲学講義になってしまわないか?
等などの疑問は世話人のあいだでも話し合われました。
もちろん、デカルトの専門家でもない参加者同士がむやみやたらに読みあえば、誤読が生じる危険性があることは重々承知の上です。
哲学史上の基礎概念を知っておかなければ理解できないことが多々あることも承知の上です。
にもかかわらず、果たして哲学書にふれながらてつカフェを行うことは可能か、意味があるのかという実験的な試みとしてまずはやってみようということになりました。
その上で、事前に世話人のあいだで確認されたのは、哲学書の精読ではなく、その哲学書が提起している問いを共有しながら、いつもの対話を進めればいいのではないかという点でした。
中には課題本を読まずに、あるいは挫折したけれど対話には参加したいという方々がいらっしゃるかもしれないので、世話人がある程度概要を説明した上で始めようということになりました。
さて、本番はまず第一省察の中でふれられている夢と現実を区別する標識がないという点から議論が始まりました。
映画『マトリックス』のように、今現在見ている世界がひょっとしたら虚構の世界かもしれない、夢かもしれないということは十分ありうるのではないか。
こう発言された参加者によれば、世界は自分の死とともに終わるともいいます。
とすれば、世界とは自分の意識のことだ、ということになるでしょう。
同時に、現実とは意識のことだということになれば、それはコンピュータに脳内を操作されて見せられている世界を現実だと思い込んできる『マトリックス』の世界だということにもつながります。
その上で、いま見ているこの現実は夢と区別されない、というわけです。
ここから参加者の様々な夢体験が示されながら夢と現実の区別について論じられました。
夢の中でも「痛い」という感覚はあるし、夢を見ているときにはいくらはハチャメチャな状況であっても、基本的に現実だと思い込んでいる以上、その瞬間は現実なのだ。
夢の中で夢を見ることがあるけれど、てつカフェに参加している今もひょっとしたら同じ状況にあるのかもしれない。
いやいや、それでも夢から覚めるという瞬間もみんな知っているではないか。
だとすれば、その覚めるという経験がある以上、どこかでその区別はしているのではないか。
この点に関していえば、夢の中でトイレを探しているとき、現実には尿意を覚えているときの気持ち悪さがある例が挙げられました。
さらにいえば、夢の中で用を足している場面から現実に引き戻されるのは、おねしょをしてしまったときの感覚的な気持ち悪さが生じるからではないでしょうか。
すると、デカルトが『省察』で論じるような感覚のあてのならなさは、むしろ逆で感覚こそ現実に引き戻すものではないか、そんな疑問が生じます。
逆に、原発事故が起きた時のことを思い返せば、あまりに理解を超えた現実に、毎朝目が覚めるたびに「アレは夢だったのではないか」と思う日が続いたものです。
これはまさに原発事故という信じがたい現実を受け入れられない心理が、まさに現実を夢と区別できなかった状況を生んだのかもしれません。
しかし、ニュースを見るたびに「やっぱり現実だったんだ」と現実に引き戻されたものです。
もちろん、現実と真実が同じではないのですが、私たちは現実に引き戻されたり夢から覚めるという瞬間は、明証的とはいえなくてもたしかに持ちうるのではないのでしょうか。
別の意見からは、現実と夢の区別は他者の存在なのではないかという考え方が示されます。
それによれば、あの現実とは思えない3.11の出来事に直面したとき、それが現実だと確信させられたのは自分以外の他者の死によってだったといいます。
あるいは、他者に「アレは現実だよね」といわれたときに、初めて現実を認識できるともいいます。
なるほど、自分自身だけで確信しているあいだは、むしろ妄想かもしれません。
他者と世界を共有できたときに世界があることを確信し、むしろ自分の意識だけの世界は何かぼんやりとした、それこそ夢のような世界、あるいは現実のレベルにとどまっている感があるというのはわかる気がします。
デカルトに言わせれば、その他者が確実にそこにいるなんてどうやって証明できるんだ、ということになるかもしません。
それでも、夢の中でさえも他者とケンカしているときなどは、とりわけ夢とは思えない現実的な瞬間だということを思い起こせば、感覚などよりも他者との関係性こそが強い現実性を生じさせるのかもしれないという意見も挙げられます。
さらに、カントを引き合いに現実と夢を区別するのは時間という要素があることも示されました。
つまり、夢は断片的で一貫性がないのに対し、現実は昨日も今日も明日も一つながりで起きているものと認識できるものだというわけです。
さらにいえば、これは記憶ということも関係するでしょう。
しかし、そうだとすれば認知症患者にとって現実とは何かという問いが生じます。
認知症患者がしばしば「夢の中にいるようだ」と語った体験談も示されましたが、それはまさに記憶と時間の一貫性を失われたことが、現実の喪失を表しているように思われます。
では、デカルト的にいえば、そうした妄想を見ている私は存在しているということになるのでしょうか?
デカルトは感覚する私も、想像する私も、意欲する私も、考える私も同一の私ではあるけれど、「感覚や想像する私」を考えているあいだは、確実に「考えている私」が存在しているといいます。
しかし、記憶や時間性を失っていると自覚できない、つまり考える対象とできない人間は存在しているとはいえない、ということになるのはないでしょうか。
デカルトは倫理的な観点から真に存在するものを考え抜こうとしたわけではありません。
ましてや、夢と現実の区別を主眼にしたわけではなく、あくまで「疑いを少しでも差し挟めるもの」は真理と判断しないで考えようと提案したわけです。
その意味でいうと、議論で交わされた現実に目覚めるという論点は、デカルトに言わせれば「だから~、現実は真理ではなくてむしろ欺かれて見せられているという疑いを限りなく払拭できないものなんだって!」と突っ込まれる話だったかもしれません。
しかし、ではデカルトが疑いようなく確実に存在する「考える私」というのは本当なのか?
1時間ほど経ったところで、途中から参加された方から、「そもそも皆さんはデカルトの考え方に賛成したのか?」という問いが投げかけられました。
ここから、第二省察が主題とするところの「考える私」と真理の関係についての議論が始まります。
この点に関して、ある参加者から「あれだけ疑うことを徹底しようとしたデカルトが、どうして〈考える私〉も疑わなかったのだろうか?」という問いが投げかけられました。
さらにその発言者は、今ここにいる私ですら存在するかどうか判明とは思えないとも言います。
別の参加者からは、「考える作用」の存在は自明にあるという点では了解するとの意見が挙げられました。
これは「考える私は存在する」ということとは別のことです。
考えるための理性の「作用」が、なぜ「私」とイコールになるのか?
別の言い方では「考える意識」は存在するということです。
では、「私」とは理性の作用のことなのか、意識のことなのか。
たしかに、それらは「私」の一部ではあるかもしれないけれど、「私」そのものでもないし、「私」とはそのようなものに縮減されるようなものではない、ということになります。
別の意見によれば、この「私」がもし「人間」と言い換えるならば、つまり「人間は考える、ゆえに人間は存在する」という命題になるのであれば、(正しいかどうかは別として)哲学の体系内に収まるだろうと言います。
さらには、もし「疑う」や「考える」ことができるロボットができたのだとしたら、そこに「私」は成立してしまうのか、多重人格者の場合は複数の「私」が存在するというこになるのか等などの疑問が挙げられます。
これらの意見には、おそらく「考える」という一般性が個別特異な「私」の存在を規定できてしまうのか、という疑問があるのではないでしょうか。
つまり、ここでいうデカルトの言う「私」とは「考えている私」は存在するけれども、「考えていないときの私」の存在までは含めていません。
もっとも、「考えているあいだは私は存在する」だけであって、「私」なるものが考察の対象ではないといえばそれまでですが、ではその確実性を証明するために、存在そのものが疑わしい「考える私」以外の「他者」の承認に向けて、デカルト自身が『省察』を書き送った事実をどのように考えればよいのでしょうか。
デカルト自身、『省察』の冒頭にある「ソルボンヌ宛書簡」において、自分の無知や誤りやすさを自覚しながら、読者の批判により完全な内容を完成させたいと述べています。
なぜ、「考える私」だけが確実に存在するのだとすれば、それに訴えるだけで真の存在は証明できるのだ、とはしなかったのでしょうか。
これとは別の観点から、デカルトの考えに反対するという立場の参加者から、「疑う」や「理解する」というのが言葉である以上、その言葉を超えた「真理」を言い表すということが無理なのだ、という批判が出されました。
デカルトはしばしば幾何学のように演繹的に真理を証明できる方法を、神の存在論証明のモデルにします。
しかし、数学的真理も数学という閉じた言語体系内での証明でしかありません。
同様に哲学は言語で語られるものですが、言語によってしか思考できないし、その言語体系内でのみ言い表せるに過ぎない。
その自覚があれば、認識も言語も越えた「真理」や「神」の存在を証明できるというのは語義矛盾だ、というわけです。
このことを、脳を解明しようとする研究の大本は、脳それ自体である以上、脳の能力の限界を超えて脳の真理に迫ることは不可能だというアナロジーで言い換えた発言もありました。
その脳にせよ言語にせよ、その守備範囲の限界を超えて証明できると言い放ったとき、空想や妄言に至るものです。
デカルトは「疑う」という言葉そのものを疑っていないのです。
さて、議論は最後に「精神と身体は区別できるか」とい論点に移ります。
デカルトも述べているように、物体というものが自分では動けないことを本性とするにもかかわらず、物体である手や足は自ら動かすことができますが、これは精神や魂なるものが物体内に行き渡ることで可能にさせるというイメージがあります。
いわゆる心身二元論ですが、この心身観によって脳死臓器移植は可能になったわけです。
この問題は、「脳死は人の死か?」というテーマを扱った前回のてつがくカフェとも関係するでしょう。
これに関して脳死臓器移植の際に、味覚が変わるといった事例から記憶や意識が物質的なものと関係している以上、それらは区別できないのではないかとの意見が出されました。
物質と精神がどこまで関連しているのかという問いは科学的な知識も必要になりますが、これは古今東西問われてきたものではないでしょうか。
たしかに物質的な脳はどれをとっても微妙な量的差異しか見出せないにもかかわらず、一人ひとりのユニークネスはその物質的な要因にのみ還元できない不思議さがあります。
すると、物質とは異なる何がしかを想定せずにはいられなくなります。
たしかに、脳がなければ思考することができない以上、脳という物質的な要素は精神にとっての必要条件ではあるでしょう。
デカルトはそれに規定されて終わるのではない「永遠不滅の精神」の在り処を探ろうとしたわけですが、しかし、それはまさに脳という物質に規定された精神、理性によってどこまで証明可能なものなのでしょうか。
今回はここでタイムアップとなりましたが、世話人としては終わった後も、今回の哲学書を用いたてつがくカフェが果たして成功したのか、今後とも取り上げていってみてよいものなのか、非常に気に懸かっているところです。
2次会(という名の飲み会)では何人かの方にご感想をいただきましたが、わりとデカルトの哲学に関心をもったし、その思想背景を知りたいや、もっと突っ込んだ内容理解をしたいといったご要望、デカルトはもういいけれど別の哲学者を取り上げてほしいといった肯定的なご意見をいただきました。
たしかに、今回の方法はデカルト研究の専門家の方からすれば、かなり乱暴な扱い方に見えるでしょうし、その意味で哲学書を扱うのであれば、しっかりとした精読をする勉強会スタイルの方がよいのだとは思います。
しかし、てつがくカフェとしては、そうしたスタイルではなく、あくまで哲学者との対話を媒介に参加者との対話を重視していきたいと思います。
もし、今回のカフェを通じてデカルト哲学に関心をもたれたとすれば、それだけで成功といえますし、それならば別の読書会なり勉強会という場を設けて取り組んでいくことは吝かではありません。
むしろ、心配するところは、難解な哲学書を読まないと参加できない、難しくて足が遠のくといったことを払拭しながらこの企画がうまくいくとしたらどのような形がありうるのか、ぜひご参加いただいた皆様にはこのブログにコメントをお寄せいいただければ、とてもありがたいところです。
そして今回、興味はあったけれど参加しにくかったという方にも、そのお考えをお聞かせいただければ幸いです。
今回はそもそも本も読まずに参加された方が何名かいらっしゃいました。
その中のお一人に、哲学することには関心があるけれど哲学書を読むのは嫌いなので、今回のてつがくカフェでそのイメージが変わるかどうか試しに参加してみたという方がいらっしゃいました。
結論としては何も変わらなかったとのことでしたが、この方のように課題図書の哲学書を読まなくても対話に参加しやすいてつがくカフェの可能性を今後とも探求していきたいと思います。