てつがくカフェ@ふくしま

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第5回本deてつがくカフェ報告―高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』―

2013年05月19日 05時46分55秒 | 本deてつがくカフェ記録
福コンで街なかが賑わう中、昨日、第5回本deてつがくカフェがサイトウ洋食店にて開催されました。
参加者は9名。
これまでの本deてつがくカフェでは、漫画や小説といった物語性の強い本を課題図書としてきましたが、今回は哲学的テーマを扱った新書を選びました。
しかも、著者である高橋哲哉氏は福島出身の哲学者です。
この一冊を福島のてつがくカフェで扱うというのは、ことさら意味深いのではないでしょうか。

さて、議論はいつもどおり読後の感想を挙げていただくことから始まりました。
まず、この震災・原発事故をめぐっては「人々がこれまで気づかなかった問題が暴露された出来事であり、その点で意識の変化をもたらされた」と積極的な意味を見出す意見が挙げられます。
さらに、福島へが差別されている現実やこれまで沖縄の問題などが身近に感じるようになったし、自分がこの時代に生まれた役割を引き受けることを自覚させられたとのことでした。
ただし、その一方でその方は高橋氏の言う「犠牲」という言葉の意味はしっくりこないとも言います。
ふつう「犠牲」とは私利をかなぐり捨ててでも、ある行為を選択する際に用いるのではないか。
しかし、この本で語られる「犠牲」とは、支配する側と支配される側、利益を得る側と搾取される側との関係において用いられており、私利私欲とが存在しています。
すると、そこにはあえて「私」を捨てて選んだ場合の犠牲、つまり「自己犠牲」という意味での犠牲が見出せません。
そこに違和感が生じるというわけです。

これは最初の論点になりました。
本書において「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」(27頁)と定義されてあります。
たしかに、これを読む限り「犠牲」とは、たとえば親が我が子のために臓器を供するケースなど私利を省みずに為される自己犠牲とは異なり、支配/被支配といった服従関係において用いられているように思われます。
言い換えれば、相手を目的としてではなく手段として用いる関係性における「犠牲」とも言えるでしょう。
では、両者区別されるものでしょうか。

これに対しては別の参加者から、たしかに本書での犠牲は「自己犠牲」という意味とは異なるけれども、しかしそもそも「犠牲」とは、「生贄」のように本人の意志とは無関係に支配者や共同体が強いたというのが歴史的にまずあって、そこから派生的に生じたのが「自己犠牲」なのではないかとの意見が出されました。
むしろ、「犠牲」とはあたかも自分の意志による主体的選択であるかのように見えながら、実は何かのシステムや支配構造を維持するものとして作用するものなのかもしれません。
「Subject=服従=主体」的犠牲とは、まさにその意味においてのことでしょう。

また、別の参加者からは「犠牲にされていたというのは、原発事故の後になってはじめて認識できた。うまくわからないようにしていたんだなぁと感じた」という意見が挙げられました。
つまり、「犠牲」というのは「後からの思考」によって認識されるものであり、その点で高橋氏の言う、「通常、隠されている」ということが証明されたということでしょう。
さらに言えば、これについて筆者(渡部)は、高校の授業で原発事故を扱った際の生徒たちの反応を想い起こしました。
それは、少なからぬ生徒たちから「自分たちの被災が後世の役に立つと思えば無駄ではなかったと思える」との意見が挙げられたというものです。
つまり、「自分は犠牲に供されていた」と気づいた後もなお、実はそれが犬死だったと受け入れられないという、自分の存在意義に関わる反応でした。
それゆえ、犠牲は美化されたり歴史の中に意味づけてみることで、単なる犠牲=犬死ではないことを確認しながら、自分の存在を保持しようとするわけです。
しかし、それは「犠牲のシステム」を強固なものにしてしまうという皮肉な結果を招くものではないでしょうか。

この「後からの思考」によって犠牲は気づかれるという点については、さらに別の参加者から「ほんとうに犠牲だと気づいたのだろうか」との疑問が付されました。
つまり、あれだけの原発事故の被害にあってなお、この国のシステムは原発を存続させようとする政権を選択したし、何も変わっていないではないかというわけです。
なるほど、犠牲のシステムは暴露されたものの、相変わらずその構造を保持しようとする連日の報道を見るにつけ、苛立ち以上の失望を感じないわけにはいきません。
しかし、この意見に対しては、さらに別の参加者から「そうはいっても、原発事故以前には100の内に1しかなかった脱原発派が、10くらいにはふえたと思う。そう考えれば、劇的に変化はしていないかもしれないけれど、歴史は少しずつ変わっているのだと希望できるのではないか」との意見が出されました。

一方、この「犠牲とは何か」を問う論点とは別に、今回のカフェでは「犠牲にする立場と犠牲にされる立場の関係性」が中心的に問われました。
これは、ある参加者の「犠牲にする立場と犠牲にされる立場はどのように関われるのかが気になる」という感想がきっかけです。
とりわけ、そのことと関連する箇所として、本書181-182頁にある野村浩也著『無意識の植民地主義』から引用された日本人と沖縄人の対話が印象深いといいます。

日本人:「沖縄だーい好き!」
沖縄人:「そんなに沖縄が隙だったら基地ぐらいもって帰れるだろう。」
日本人:「……(権力的沈黙)」
……(以下続く)

ここにある「権力的沈黙」という言葉は印象的です。
別の参加者からは、本書について「これまで沖縄や原発の問題を知らないわけではなかったけれども、それを自分が直視せずにきてしまったことを見せつけられた一冊だった」との感想が示されましたが、筆者も含めて、もしかするとそれは「権力的沈黙」を無自覚に行使していたのかもしれません。
もちろん、高校では沖縄へ修学旅行へいくことがります。
ということは沖縄について事前学習を高校生にさせるわけです。
そこでは沖縄の米軍基地問題を当然に扱うものです。
しかし、それは平和学習の一題材として手段化してしまっていただけではないか。
その守備範囲を超えた応答はまさに「権力的沈黙」によって見てみぬふりをしてきた結果ではないか。
この日本人と沖縄人の対話は、そんな筆者に痛烈な自己批判を迫る場面なのです。

一方で、この問題提起に対して別の参加者からは、「沖縄の知人と沖縄について対話すると、必ずといっていいほど外部の人間である私(発言者)のモノローグになってしまう」との意見が出されました。
つまり、その沖縄の知人は沖縄問題になるとほとんど何も語らなくなるというのです。
その知人の姿に発言者は、大江健三郎の『沖縄ノート』にある沖縄の人々の「絶対的な優しさと絶対的な拒絶」という言葉を引用しながら、福島に生きる自分の思いと重ね合わせながらこうも言います。
「県外の知人に『福島は大丈夫ですか?』と聞かれると、『大丈夫じゃないですよ』と応えながらそれ以上何も語らない自分がいる」。

犠牲にする側が「権力的沈黙」を行使する一方、犠牲にされる側もまた自らの犠牲について多くを語りたがらないものです。
これについては、さらに別の参加者から
「福島県外の人々から「ガンバレ!」といわれるとシラける自分がいるし、「温度差」ということを思い出す」や、
「7,8年前に高橋哲哉さんの講演を聴きにいった際、震災前から沖縄について『沖縄の空気は現地に行かないとわからない』と熱心に語っていたことが印象的だったけれど、この原発事故を経験した後になってはじめて当事者意識とはこういうことかとわかった」との感想が挙げられました。
ここで挙げられた「温度差」や「当事者」という言葉は、しばしば震災・原発事故を語る際のキーワードとして、これまで幾度となく取り沙汰されてきたものですが、今回はこれらが「犠牲にする側/犠牲にされる側」との関係において興味深い議論に発展しました。

こうした意見に対しては、そもそも「犠牲にする立場/犠牲にされる立場」は分けられないのではないか、との意見が挙げられました。
この発言者によれば、震災直後の2011年には原発事故の犠牲になったという意識を強く持っており、そうであるがゆえに首都圏で行われる反原発運動の姿を見るにつけ、強い反発を覚えたといいます。
しかし、そのような状況の中、首都圏に住む知人から「あなたはどれだけ福島のことを知っているのか」と問われた際、自分が福島について何も知らなかったことに気づかされたというのです。
出来事の内部にいれば、その意味がもっともよく理解できているかといえば、そんなことはまったくないでしょう。
外部にしか見えないことなどいくらでもあります。
また、原発事故の被災県とはいえ、そこには浜通り・中通り・会津地方、さらに浜通りの中にも警戒区域や計画的避難区域など、細かく見れば、事故の当事者とは誰かなど単純に見分けられません。
そこにおいて犠牲を強いられた側が、その内部において犠牲を強いる側になっていることさえありえます。
あるいは被害者であると同時に加害者であり、負担者であると同時に受益者という立場にもなるでしょう。
事実、原発事故の被害者である一方で、構造的には原発の廃炉作業に作業員を従事させる側にある人々は県内でも多数派なのです。

このように犠牲者が自らの立場を反省的に思考することは必要です。
しかし、こうした思考はどこか危うさも孕みます。
つまり、犠牲にされたことと犠牲にしたことがない交ぜになった結果、自分にも原発事故の責任があるとして、根本的な責任追及を自己抑制しかねない危うさがあるのではないでしょうか。

そのことを、仕事上、原発事故関連のクレームを受け付けながら「東電や国の責任なのに」と腑に落ちないエピソードを紹介してくださった参加者がいました。
その意見によれば、なるほど構造的には自分も某かの責任はあるのかもしれないけれど、しかしこの腑に落ちない理由は、まずこの原発事故を引き起こした第一義的な責任の追及が果たされていないことにあるというわけです。
たしかに、いまだ原発事故の責任について東電も国も責任追及されていません。
その刑事責任をめぐっては福島県では原発事故告訴団が福島地検へ起訴を訴えかけていますが、いまだ動きがありません。
その第一義的な責任が明らかにされていないのに、その犠牲になったものの責任を問うというのは順序とその責任のレベルからして転倒しているというわけです。
すると、第一義的な責任をめぐっては東電や国だけに止まらず、天皇制を基盤とした近代日本の国家形成そのものを当必要があるとの意見も挙げられました。
なるほど、内田樹氏は自身のブログにおいて原発立地が戊辰戦争や西南戦争における賊軍の地域に立地されているとも言います(「東北論」参照)。
つまり、いまこそ近代日本の形成期における責任も含めて問い直しが為されなければならないというわけです。

しかし、その一方、この原発事故の責任をめぐっては「いったい誰と闘っているのかわからない」といった戸惑いも訴えられました。
「復興」という言葉は、元に戻すことを求めますが、それは裏返せば、何事もなかったかのようにいつのまにか原発という犠牲のシステムが修復されているということです。
学校現場でも同じだったとの意見も出されます。
とにかく日常に戻そうとする。
非日常の不安から逃れるためにそれは必要な部分もありますが、しかし見てみぬふりをするという意味での復旧は破滅への道を選ぶことになりかねません。
この元に戻そうとする同調圧力の強さにウンザリするという感想も洩れました。
もちろん既得権益者がそれを望むのでしょうが、それにしてもそれがいったい誰なのか顔が見えない。
No man rule無人支配。
もしかすると、この現状を変えたくないという人のほうが多数派なのではないか。
石原慎太郎氏は、元東京都知事時代に起きた震災直後に、震災は日本人の我欲に対する天罰だと発言し物議を醸しましたが、こうした発言はひょっとしたら首都圏の人々の潜在的な無意識にある罪悪感なのかもしれないとの意見も出されました。
しかし、それをなぜ東北の人間が贖わなければならないのか。
その点を本書の第3章では明快な批判がなされてあります。
あるいはまた、本書の「日本イデオロギー」に関して、参加者からは「日本人はお上の言うことが正しいと思い込みやすい」との批判も出されました。
本書に即して言えば、福島県の放射線アドバイザーとして県立医大副学長(現在は退任)に就任した山下俊一氏が、「私は日本国民の一人として、国の指針に従う義務があります」(95頁)と県民に訴えた発言はその典型でしょう。
ここには科学の真偽を問う以前に、国家に服従する義務が国民の前提であることを示しています。

それにしても、この鵺(ぬえ)のようなこの犠牲のシステムを、果たして変えることなどできるのでしょうか?
これについてはカフェの終盤、「犠牲のない世界はありうるのか?」との論点で議論が交わされます。
これについて石垣りんの詩「食う」を引用された方がいました。
生きることは何かを犠牲にしなくてはいけない。
たとえ親兄弟といえど。
つまり犠牲のない世界などありえないということです。
すると、これを前提にどのようなことが考えられるのでしょうか。

ある参加者に寄れば、サイジングの問題を考える必要があるだろうといいます。
地理的規模や人口規模、そして政体についてサイズが大きくなればなるほど犠牲が大きくなる。
たしかに犠牲をゼロにすることはできないけれど、サイズを小さくすることで犠牲を小さくするという発想が必要ではないかというわけです。
エネルギーの地産地消という考え方もそうでしょう。
産出できるエネルギー量が小さければ、自ずとライフスタイルもそれに応じたものにせざるを得ません。
これは興味深い意見ですし、筆者はダグラス・ラミス氏の『ガンジーの危険な憲法』を想い起こしました。
成長や膨張を前提にしか考えられない政治観の転換を迫る意見です。

また別の参加者からは、「原発事故が起きてしまった以上、自己犠牲をしながら進まざるを得ないけれど、自分で許容できる自己犠牲の程度で済む社会にするしかないのではないか」との意見が提起されました。
ここいう許容できる自己犠牲とは自律した判断の下に選択されるものを指します。
廃炉作業に携わるにせよ、高線量地域下に留まるにせよ、何かを犠牲にして選択する以上、それは誰からも押しつけられるべきではありません。
そのかわり、自律的判断を最重視するわけですから、その選択に関する情報はすべて開示されて知った上で、自己責任の下に為される条件が整備されなければならないでしょう。

犠牲のない世界はない、しかし犠牲を必要とする世界に積極的に生きたいとは思わないのではないでしょうか。
すると、限りなく犠牲を減らす努力、あるいは犠牲を前提としない社会システムを望むことは否定されたり諦められるべきではないでしょう。
本書はその解答ではなく、その賭場口に我々を立たせ、ともに考えよう誘おうとのメッセージが込められています。
今回の本deてつがくカフェはあっという間に時間が過ぎてしまいました。
まだまだ語り尽くせぬ題材に満ちた一冊です。
ぜひ、今後ともこの犠牲のシステムを突破できる可能性をてつがくカフェ@ふくしまでは探求していきたいと思います。
ご参会いただきました皆様には心より御礼申し上げます。