80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

学徒動員時代の思い出(2)

2010-08-21 18:38:57 | 戦争体験
 私たち女学校2年生は”元気食”や”航空耐寒食”の包装

に使う袋を、手で作る仕事であった。

朝礼が終わると、各自決められた位置について作業に入るのだが、

木の作業台が据え付けられていて6人が横に並んで立つ。

台の上にはそれぞれの前に元気食用の500枚一束にした白い

ハトロン紙がきちんと重ねて置かれ、その向こう側には糊と刷毛

紙の横には木型が置かれている。私たちの斜め後ろには各自が

作ったものをどんどん投げ入れていくための大きな竹篭が置かれ

ていた。

紙の大きさはA6(105x148)ぐらいで、短い方を横にして

置かれてあり、それを約20枚ぐらい手元に持ってきて、木型の

端でしごいて1センチ幅の糊代を作る。

糊代に糊をつけたら、木型を紙の真ん中に合わせて置き、木型の端端

に折り目をつけながら巻いていくと四角い筒ができる。

その筒の下側を綺麗に三角になるように折り曲げて箱の底を作っていく。

ちょっと糊で留めて、木型からはずし、竹の篭の中へ抛り込むという

仕組みだった。

初日には900袋ぐらいしか作れなかったが、だんだん早くできるよう

になって1200袋ぐらいできるようになった頃、私は”航空耐寒食”

の方に回された。

私たちが作業をしている時に女工さんたちが入ってくる事がよくあって

何をしているのかと思ってみていると、元気食の材料であるハトロン紙

の500枚づつの束を重ねてある材料台のところへ行って、その紙を適当

に取ってポケットにいれている様子であった。

友達にそのことを話したら、トイレットペーパーがなくて困っていた頃

だから、それをトイレットペーパー代わりに使っているらしいと言う事

だった。

そのうち学生たちの作るものは数が足りないと言われているのを耳にして

びっくりした。

私たちはただ、ひたすら、サイパン島の兵隊さんたちのことを思いながら

一生懸命に作っていたのに・・・。

(つづく)

学徒動員時代の思い出(1)

2010-08-20 20:24:15 | 戦争体験
 私が工場へ動員されたのは二回で、第一回めは1944年の

森永の鶴見工場行きで、二年生だった。

この事は以前にもチラッと触れた事があったが、そのとき

のいろいろな事を少し詳しく書いてみたいと思う。

当時、私の女学校では一学年約300人が6クラスに分かれていたの

だが、学校の方針で、私たち生徒にできるだけ公平に動員の

作業をさせたいと言う事で、1組と4組を12月18日から翌年の1月31日

まで、2組と5組を2月一杯、3組と6組を3月一杯と言う風に順番に、

動員先へ送り出す事に決めたようであった。

私は1組だったので、最初に動員されたのだが、朝8時に工場へ出勤

すると、年のころは、50代後半かと思われる半分白髪の湯元主任

(男性)さんの朝礼での訓示があって、それからバケツに入ったお湯

が数箇所に置かれる。

暖房もない部屋のなかでの手作業なので、みんな手がかじかんで

作業がやりにくいので、最初にバケツの中のお湯で手を温めてから

作業が始まるのであった。

私たちの仕事は”元気食””航空耐寒食”の包装に関する仕事で、

下級生の私たちにはそれを入れる入れ物を作る仕事であって、

どんなものが”元気食”なのか、”航空耐寒食”なのか見たことも

なかった。

一日中立ってする作業だったので、なれていない私たちには大変な仕事

に思えたが、湯元主任は、女性は立っているのが一番健康によいと言わ

れたのである。


その頃すでにアッツ島の日本軍が玉砕した後で、サイパン島の兵隊

さんたちのために、一袋でも多くの食料を送らなければならないので、

頑張ってくださいと訓示された記憶がある。

(つづく)

三回のお誕生日(3)

2010-08-19 16:06:21 | 最近のできごと
三回目は8月15日の日曜日東京に住んでいる長男一家が、お墓参りの

後に寄ってくれた。

いろいろ便利そうなものや健康によさそうなものが一杯入った袋と

孫がアルバイト先の本屋さんで選んでくれたと言うこの写真のケーキ

「紙製)を持ってきてくれた。もちろん浜自慢の本物のケーキがあっ

たが、この方はうっかりお腹に入れてしまったので、写真はない。

この写真のものは折りたたみ式で、後ろ側にメッセージが書き込める

ようになっているもので、私のお気に入りになった。

そうそう嫁さんが選んでくれたパジャマ「私のリクエストでもあった。)

はMPと言うサイズだそうで、小さくて小太りのものにぴったりと言う

事らしかったが、着てみたらなかなか具合がよかった。

その後は長男一家と次男一家とみんなで焼肉やさんで楽しいひと時に

なったのだが、もしかして三回のお誕生日で、いっぺんに三年分年を取る

って事はないでしょうかね?

「大笑い)


三回のお誕生日(2)

2010-08-18 10:33:46 | 最近のできごと
ニ回目は、翌日、本当の誕生日に嫁さんが孫たちと一緒に

レストランで祝ってくれた。

近頃の方なら、きっと写真を撮られるところなのだろうが、

私は如何してもなかなか写真をとろうという気が出ないの

である。

なぜかと言うと、私の父は無類の写真好きで、私の生まれた頃から

写真をずっと撮ってくれていて、部厚い立派な写真帖に、綺麗に貼って、

エスプリの効いたコメントなどを書き添えてくれたいた私たちにとって

は貴重な財産だったものがあの戦災にあった日、一瞬にして灰燼に帰し

てしまったので、その悔しさ、むなしさが、いまだに私の心に傷となっ

ているのかと思う。

 家族それぞれの写真帖が何冊ずつか溜まっていたのを一時は防空壕に

入れていたのだが、その頃は絵本も手に入らない時代だったので、母が

まだ小さかった弟に見せるのだといって防空壕から持ち出していたのだ

が、それが仇になってなくなってしまったのだ。

あんなにいつもいつも一生懸命に写真を撮って、夜遅くまで整理してい

た父の事を思うと、本当に残念でたまらなかった。

そんなわけで、写真はない。

 (つづく)

三回のお誕生日

2010-08-17 15:52:06 | 最近のできごと
 とうとう、望むと望まないに関わらず、当世風の数え方で80歳になって

しまった。

この年まで生きているなんて考えもしなかったのにである。

この80年の間には満州事変(これは一才の頃だから覚えていないが)

小学校一年生の時には、日支事変と言う中国との戦争が起き、小学校

5年生の12月8日には、米英との戦争が始まった。

戦争のお蔭で、家が焼け出されて、あちこち転々としたり,焼夷弾の

恐ろしさだけでなく爆弾と言うものの怖さも知った。

機銃掃射にもあったり、学徒動員で、勉強すらできない状態に置かれて

いたりで、女学校3年生の夏には終戦となったが、成長盛りに食べる物

さえなくて、その頃の子供は長くは生きられないと言われてきた。

その後、終戦で、アメリカ軍が進駐して来て、米兵に追いかけられたり

する恐い目にもあってきた。

1950年に朝鮮戦争が起こり、それから、世界中で戦争がな

い時はなかったし、平和憲法ができ、戦争を放棄していたはずなのに、

いつも間にか自衛隊ができ、名目はともかくどこかの国まで派遣されたり

して、いったいどうなってしまうのだろうかと、いつもはらはらしながら

生活してきた。

その上、地震も関東大地震が今年は来ると言う風に深刻に騒がれた年も

あったりで、この年まで生きるなんて考えてもいなかったのだ。


それが今年は正真正銘の80才になってしまったのである。

 ”正月や,冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし”

と言う句が浮かんできたが、本人は、頭や体の衰えの方が身に沁みて

いるので、めでたい気は全くないのだが、嫁さんたちがいろいろと気

を使ってくれて三回のお誕生のお祝いが実現した感じなのだ。

この写真のケーキは一緒に暮らしてくれている次男一家のお祝いで、

嫁さんの心のこもったおいしい手料理の後、孫娘がアルバイトをして

いるアイスクリーム屋さんのアイスクリームケーキに孫の手でちえこ

おばあちゃんと書いてくれたものだ。

これが第一回目のお祝いで、一日前の8月8日の日曜日にしてもらった。




原子爆弾被曝者への認識と対応

2010-08-16 07:34:23 | 戦争体験
 日本は世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国

であるが、この経験は太平洋戦争終結直後から、日本国民の反米感情

や報復意識にはつながっていない。

1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果に

よると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者

のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。

また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆関係記事では、おおむね

原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんど

ないという。

救護を目的としない被爆者の詳細な健康被害調査は原爆投下直後から

日本側により開始された。この日本側調査報告書は戦後直ちに米国側

に全て英訳されて渡された。

これは米国の提出命令によるものではなく、自主的なものであり、

戦後も日本側は米国の調査に積極的に協力していたことが、米国公文書

公開によって明らかになっている。

これらの調査は詳細かつ執拗で、被爆者に治療とは関係のない薬物を

投与し、その反応を観るといったものまでなされていた。

調査結果は米国核戦略上の資料となり、永く被爆者の救済に用いられる

ことはなかった。

放射能・放射線に対する日本国民の意識は「恐怖」となり、それは戦後

しばらくの間、被爆者に直接、向けられた。

新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは

重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者

に対する偏見・差別は多くあった。

このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすように

なっていった。

今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち

正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線

の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に

蔓延したためであったと分析・公表している。

また、ラジオ中国の記者であった秋信利彦は、当時の被爆者の報道機関に

対する強い反感と反発の実態について証言している。


被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、

何の公的支援もなされない状況が長く続いた。

国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する

法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」

が創設されて以降である。

しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね

充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」

(被爆者援護法)の施行以降である。


東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、

日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また

同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべき

は立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した。

以降、今日に至るまで、日本国内の被爆者関連の施策あるいは裁判において、

この基本的な考え方が準用され続けている。

今日、日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんど

いない。

長年にわたり初等教育すなわち小学校より、社会科・地歴のほか、国語の

説明文など、学校教育で扱われていること、毎夏、テレビ・ラジオの

ドキュメンタリー番組や平和祈念式典中継、あるいは新聞などで報じられ

ることなどによる。

しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心はなく、具体的に参加したことも

ない」とする人が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の

希薄化が進行している。

終戦直後はともかく、こういった今日に至るも原爆投下に関してアメリカ

の加害責任を問うことなく、その原因と責任の全てを、おおむね日本の

軍部などに求め「過去のものにする」世論は、やはり戦後のGHQによる言論

統制によって形成されたものだとする意見もあるが、これについては他に

も類似の、あるいは全く異なる意見があり、本稿では控える。

ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、2009年現在においてもなお終結しているもの

とはいえない。

他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や

放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含

む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を

強いるものとなっている。

これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。

さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子

(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されている

ことから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も行われている

 以上wikipedia調べによる

敗戦の日

2010-08-15 08:07:33 | 戦争体験
65年前の終戦の日、否、敗戦の日も暑い日であった。

ところで、何故この日を終戦の日とされて、敗戦の日としなかったのか

私は疑問を持っている。

我々はあの日を”敗戦の日”として、戦争を起こし、敗戦するまでの

すべての事をきちんと見つめなおし、今後の生き方を決めなければ

いけなかったのではないだろうか?

どうも日本人の習性なのか、ひどいことをオブラートで包んで、

やんわりとしてしまうのがお得意のようだあるが、私は合点が

いかない。

敗戦の日、多くの韓国人たちが、トラックで、勝った勝ったと

横浜市内を大騒ぎをして回っていたのが忘れられない。

゛狂喜乱舞”しておられるご様子から、日本に”併合”されてから、

どんなにお辛かったのだろうかと子供心に考えて胸が痛んだ。


私には、日韓併合なんて言う事も、言葉でごまかしているように

思えるのだが、韓国の方々のご苦労をもっとよく勉強して、これからの

私たちの生き方に生かしていかなければいけないと思うし、又、台湾や

沖縄の方々も日本の領土にされたからこそのご苦労があったわけで

今なお、沖縄の方々が基地問題で、ご苦労をされているのは本当に

申し訳ないと思っている。

私の住んでいる神奈川県だってあちこちに基地を残しているようなもの

だが、他の県の方々はどう思っておられるのだろうか?

沖縄が位置的に都合がよいと言うのは私には全くわからない。

先日も広島の原爆の日の式典で、75カ国の国々の代表者が核をなくそう

としておられる中で”核抑止力”に触れられたわが国の総理の

場違いともいえる発言にびっくりもし、がっかりもしたが、もうこれから

は核爆弾を落とされたら、核爆弾で返せなどといっていたら世界中が、否、

地球が破滅してしまうだろう。

もし世界中から軍事費と言うものがなくなったら、どんなに生活が安定する

であろうかと思うのだが、これは80ばあちゃんの戯言だろうか?








第五福竜丸

2010-08-14 05:33:06 | 戦争体験

原子爆弾の惨禍といえば、広島長崎だけと思われがちであるが、忘れて

ならないのは第五福竜丸事件である。

 (以下wikipedia 調べによる)

第五福竜丸は1954年3月1日、米国の水爆実験によって発生した

多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船の船名

である。

無線長であった久保山愛吉さんがこの半年後の9月23日に血清肝炎

で死亡した。

第五福竜丸は1954年3月1日、マーシャル諸島近海において操業中に

ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー

(BRAVO)、1954年3月1日、3時42分実施)に遭遇し船体、

船員、捕獲した魚類が放射性降下物に被爆した。

実験当時第五福竜丸は、米国が設定した危険水域の外で操業していた。

危険を察知して海域からの脱出を計ったが、延縄の収容に時間がかかり、

数時間に渡って、放射性降下物の降灰を受け続ける事になり第五福竜丸

の船員23名は全員被爆した。

後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの

漁船が操業していた事が明らかとなった。

この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼると見られ、

被曝者は二万人を超えると見られている。

予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初、米国がこの爆弾の威力を

4~8Mtと見積もり危険区域を狭く設定したことにある。

爆弾の実際の威力はその予想をはるかに超える15Mtであった為、安全

区域にいたはずの多くの人々が被曝することとなった。

 第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山無線長)当時40歳が(原爆に

よる犠牲者は私で最後にして欲しい」と遺言を残して息を引き取った事)

は当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が

反米運動へと移行することを恐れた米国は、日本政府との間で被曝者補償

の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と(米国の責任を追及しない事)

の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。又時間が報道されると

(放射能マグロ)の大量廃棄や残留放射線に対する危惧から魚肉の消費が

急激に落ち込むなど、社会的に大きな影響を与えた。

これに対してアメリカは第五福竜丸の被害を矮小化するために、4月22日

の時点でアメリカ国家安全保障会議作戦調整委員会(OCB)は(水爆や

関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動

リストを起草し、科学的対策として(日本人患者の発病の原因は放射能より

もむしろサンゴのちりの化学的影響とする」と明記し、(放射能を受けた

日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因について共同声明の

発表準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。

実際、同年九月に久保山無線長が死亡した際に日本人医師団は死因を

(放射能症」と発表したが、米国は現在まで(放射線が直接の原因ではない)

との見解を取り続けている。

 第五福竜丸の被曝により、日本国民は原子爆弾、水素爆弾と両核爆弾の

被爆〔被曝〕体験を持つ国民となった。

 第五福竜丸は被爆後救難信号を(SOS)を発することなく自力で焼津港

に帰港した。

これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈され

る事を恐れていたためであるともいわれている。


原子爆弾投下予定地(8)

2010-08-13 09:03:07 | 戦争体験
第三の原子爆弾投下準備

長崎市への原子爆弾投下後、テニアン島に原子爆弾はなかったが、

プルトニウム以外の原子爆弾の部品は用意されており、プルトニウム

をアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾をすぐに組み立てて完成

させることができる状態であった。

8月14日にロスアラモス基地からプルトニウムが出荷され、8月20日

前後には第三の原子爆弾を投下することが可能であったが、8月14日に

日本から降伏通告が来たため、第三の原子爆弾が日本に投下されるこ

とはなかった。

第三の原子爆弾投下候補地は小倉市、京都市、東京など諸説あるが、

1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は、

3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都

上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾

の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。

    以上wikipedia 調べより


            (つづく)

原子爆弾投下予定地(7)

2010-08-12 07:18:52 | 戦争体験
日本の対応

当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン方面の

B-29部隊について主に電波傍受によりその動向を24時間体制で監視して

いた。

大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に

回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、

進出してきたB-29の中の一機が長文の電報をワシントンに向けて打電した

こと、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的に

V400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり

第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、新部隊

の進出を察知していた。

その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し

始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出し

ては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情

部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投

下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領

の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に

察知することはできなかった。

そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど

把握しておらず、およそ特情部においては「7月16日ニューメキシコ州で

新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった。

もちろんこれはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験

直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る

術はなかった。

それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」

と語っている。

また特情部では、当時スウェーデンを経由して入手した米国海軍の

M-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読

作業において「nuclear」の文字列が現れたのが8月11日[12]の

ことであった。

当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や

長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を

解除。

11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅

させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の

写真入りで被害状況を詳細に報道した。

これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた

原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知った

のである。

なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟

市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出

した。

これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報

が流れたからである。

原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機

で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と

誤認することもあった。

8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説

を行った。

8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送

(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ

無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに

残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、

その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」

と詔があった。

正確な犠牲者数等は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)

占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて

報道された。

 (つづく)

  以上wikipedia 調べより