戦後、政府からの配給品はどんどん少なくなって、一週間から一ヶ月に及ぶ遅配,
欠配が当たり前のようになって、配給品ではとても暮らせない状態が続いていた。
代替品として、イモ類やかぼちゃなどが配給されるとお米が減らされるといった
風であったが、これは地方によって配給品の中身もやり方も大分違っていたようで、
お米の配給は、成人一人当たり二合1勺〔約300グラム)と決まっていても
何の意味も持たなかった。300グラムというと多いと思われるかもしれないが、
全く副食品や、調味料も、お出汁も全く無いし、それから全栄養をとらなければ
いけなかったかったので、とても足りるわけはなかった。それもなかなか配給
がきちんとなかったのだ。
米軍からの放出品のお砂糖だとか、卵の黄身ばかりの乾燥した黄色の粉だけが
お米の代わりに配給されたり、三日間で6人家庭への配給がおねぎが二本という
場合もあったりで、必然的に、庶民は闇米や、闇の食料に頼らざるを得なかった
が、お値段は勿論とても高く、米一升標準価格53銭のものが、闇値では、
70円、砂糖一貫匁3円75銭が1000円もしたこともあったそうである。
最初は人通りの多そうなところに人々が少しばかりの物を持ち寄って、売ったり
物々交換したりしていたようであったが、だんだん、ござや、敷物を敷くように
なり、台が出来るようになって、露店の構えが出来上がっていった。
闇市では、食品だけでなく、本当にいろいろの物が売られていた。
ふかしたサツマイモだとか、サツマイモの粉を熱湯でとき、丸めてふかした
芋団子や、お芋の粉の混じった蒸しぱん、いろいろ雑穀やお芋の入ったお雑炊
そして、わたしがもっとも敗戦の悲哀を深く感じたのは進駐軍の食べ残しを
集めて、ごった煮のようなというか、いろいろな物が入ったスープが売られて
いたことだ。 家ではそんな物を買った事が無かったが、時には中に、タバコ
の吸殻が入っていたというのを聞いた覚えがある。
古着屋、ろうそくや、電気でパンを作る道具だとか、その他の生活用品も出て
きて、だんだん品数も多く、店の構えも台が出きて変化していったが、
それに伴ってやくざが場所代を取ったりするようになったようである。
売っていたのは、汚れたカーキー色の軍服を着ている帰還兵が多かったが、
女子供もいて、其の側には傷病兵の着る白い服を着た男たちが、箱を持って
物乞いをしたりしていたが、 中にはハーモニカや手風琴で音楽を奏でて客の
目を引こうとしている者たちもいた。
其のうちだんだんどこがお悪いのかと思うような偽傷病兵らしきものがでてきた。
横濱の黄金町辺りでは朝鮮人の方々が、お米や小麦などを売っていたようで、
買いに行くのは父の仕事だったが、時には ”ふすま”と呼ばれる小麦の粉を作る
ときに出来る小麦の皮とでも言うのだろうか、それを買ってきていたが、家では、
さらに細かく挽いて、小麦粉に混ぜ、”すいとん”や蒸しパンに入れていた。
たまには近くの農家の人が、粟や粟餅を売りに来られたこともあった。
ある時、両親と死別したという7、8歳くらいの男の戦災孤児たちが家に来て
”何か食べるものをくれ”というので、ありあわせのパンにマーガリンをぬって
出したら、
”なんだバターか”
といってお礼も言わずに出ていった。 今、思い出しても、あまり痩せていたという
記憶ではない。 やさしい人が多かったのだろうか?
(つづく)
欠配が当たり前のようになって、配給品ではとても暮らせない状態が続いていた。
代替品として、イモ類やかぼちゃなどが配給されるとお米が減らされるといった
風であったが、これは地方によって配給品の中身もやり方も大分違っていたようで、
お米の配給は、成人一人当たり二合1勺〔約300グラム)と決まっていても
何の意味も持たなかった。300グラムというと多いと思われるかもしれないが、
全く副食品や、調味料も、お出汁も全く無いし、それから全栄養をとらなければ
いけなかったかったので、とても足りるわけはなかった。それもなかなか配給
がきちんとなかったのだ。
米軍からの放出品のお砂糖だとか、卵の黄身ばかりの乾燥した黄色の粉だけが
お米の代わりに配給されたり、三日間で6人家庭への配給がおねぎが二本という
場合もあったりで、必然的に、庶民は闇米や、闇の食料に頼らざるを得なかった
が、お値段は勿論とても高く、米一升標準価格53銭のものが、闇値では、
70円、砂糖一貫匁3円75銭が1000円もしたこともあったそうである。
最初は人通りの多そうなところに人々が少しばかりの物を持ち寄って、売ったり
物々交換したりしていたようであったが、だんだん、ござや、敷物を敷くように
なり、台が出来るようになって、露店の構えが出来上がっていった。
闇市では、食品だけでなく、本当にいろいろの物が売られていた。
ふかしたサツマイモだとか、サツマイモの粉を熱湯でとき、丸めてふかした
芋団子や、お芋の粉の混じった蒸しぱん、いろいろ雑穀やお芋の入ったお雑炊
そして、わたしがもっとも敗戦の悲哀を深く感じたのは進駐軍の食べ残しを
集めて、ごった煮のようなというか、いろいろな物が入ったスープが売られて
いたことだ。 家ではそんな物を買った事が無かったが、時には中に、タバコ
の吸殻が入っていたというのを聞いた覚えがある。
古着屋、ろうそくや、電気でパンを作る道具だとか、その他の生活用品も出て
きて、だんだん品数も多く、店の構えも台が出きて変化していったが、
それに伴ってやくざが場所代を取ったりするようになったようである。
売っていたのは、汚れたカーキー色の軍服を着ている帰還兵が多かったが、
女子供もいて、其の側には傷病兵の着る白い服を着た男たちが、箱を持って
物乞いをしたりしていたが、 中にはハーモニカや手風琴で音楽を奏でて客の
目を引こうとしている者たちもいた。
其のうちだんだんどこがお悪いのかと思うような偽傷病兵らしきものがでてきた。
横濱の黄金町辺りでは朝鮮人の方々が、お米や小麦などを売っていたようで、
買いに行くのは父の仕事だったが、時には ”ふすま”と呼ばれる小麦の粉を作る
ときに出来る小麦の皮とでも言うのだろうか、それを買ってきていたが、家では、
さらに細かく挽いて、小麦粉に混ぜ、”すいとん”や蒸しパンに入れていた。
たまには近くの農家の人が、粟や粟餅を売りに来られたこともあった。
ある時、両親と死別したという7、8歳くらいの男の戦災孤児たちが家に来て
”何か食べるものをくれ”というので、ありあわせのパンにマーガリンをぬって
出したら、
”なんだバターか”
といってお礼も言わずに出ていった。 今、思い出しても、あまり痩せていたという
記憶ではない。 やさしい人が多かったのだろうか?
(つづく)
和―家虫エムし得
あんたの旦那今おならしたよ
超くさーーーーーーーーーーイ
コメントありがとうございます
お疲れ様です。
これからも頑張ってください。
こめんとありがとうございました。