80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

サッカー アジア杯

2011-01-30 18:11:55 | スポーツ・趣味
 サッカーアジア杯優勝おめでとうございます。

皆様もさぞやお喜びでしょうね。私も今朝は興奮しました。

今回の快挙、本当に、いろいろなことがありましたが、それを乗り

越えてアジア一を獲得してくれた選手の方々は、もちろん、ザッケ

ローニ監督は、さぞや大変なご苦労があったことでしょうね。

今回のことは多くの人に感動と勇気を与えてくれたと言われていま

すが、海外で活躍されておられたサッカー選手たちが、あれだけ

活躍されたことで、日本から海外に留学される方が増えてくれること

を望みたいですね。


 
 今日はふれあいの丘で地区の卓球大会があって出かけてきたのですが、

最後にあった茶話会ではもっぱらサッカーの話になりました。

私の斜め前に坐られた男性が、元フジテレビの社員だったとかで、すぐ

テレビ局へ電話をされて、視聴率を聞かれたようですが、なんと深夜

にも係わらず48%だったそうです。これはNHKの紅白歌合戦に匹敵

すると言う話です。 さしずめ、お二人に一人は観戦されたという

勘定になりますね。

私の周りで、テレビをご覧にならなかった方々も卓球の試合があった

から見なかったといっておられましたから、サッカー熱はすごいもの

がありますね。

ベストプレイヤー賞に本田圭介選手が選ばれたそうですが、いつも彼が

最後に他の選手たちにここで気を抜かないように活を入れておられるの

を拝見して、やがてはきっと大監督になられる方だろうなあと思って

いるのですが、私にはとっても見届けられるはずもありませんけれど、

皆様応援してあげてくださいね。ザッケローニ監督ではないけれど

 ”Molto molto forte!!!!!"


思い出の北京(続編16)京劇

2011-01-29 12:23:14 | 思い出の北京


三日目の夜は、かねてから、息子たちに京劇を見てもらいたいと思っていたので、

 ”私はマッサージを予約しているので、夕飯はパンか何かそこらで買うから、

 あなたたちは京劇を見に行ったらどうかしら?”と薦めてみた。

 彼らも、お昼にはちょっと食べすぎだから、あまり大して食べたくないので夕飯は何か

 軽くとればいいということになって、次男が、私のために、先にパンを買いに行って

 くれたのである。

 私は以前夫と、お菓子とお茶つきの席で京劇を見たことがあったが、そのときは孫悟空

 をやっていてたのだが、なんだか日本の演劇と比べると見劣りがするなあと言う感じで、

 多分観光客用のものだったのだろうと思っていたが、今回は、まあ、写真で見ても、

 以前のものよりは、多少大掛かりだと思ったが、孫たちは行ってよかったととても

 喜んでいたのである。

 今回も前の方の席は、お茶菓子つきであったらしい。

 


  以前に私の夫の会社で働いておられた方のお母さんが、京劇の主役を演じる女優

 さんで その後、京劇の歴史を、大学の教授として、多くの方々とご一緒に研究

 されていると言うお話を聞いていた。

 お宅へ招かれたり、私の家にもおいでいただいて、横浜を 夫の車でご案内した

 こともあったし、その後、娘さんご夫婦が 日本に来られて山梨県で働いておられた

 りして、夫と山梨まで会いに行ったりしたこともあったのだが、今回は夫が亡くなっ

 てしまったし、他にもいろいろとお目にかかりたい方々もあったのだが、たった三泊

 四日では、と言う気持ちもあったし、息子たちの知らない方々ばかりなので、そのため

 に息子や孫たちが見たいところも見れないのではと思ってあきらめてしまったのである。

 どこかでひょこっとお目にかかれたらいいなあなんて思っていたのだが、残念ながら、

 そういうことはなかった。


思い出の北京(続編15-5)胡同

2011-01-27 06:18:08 | 思い出の北京
大通りへ出たらタクシーが拾えるだろうから,そこまで歩こうという

ことになったが、いわゆる小街(道幅6歩以上12歩までの道を言う)

通ることになっていろいろと面白いものを拝見することができた。



胡同のようなビル群の建っていないところに、こういう健康にいいものが何個か

作られていて、ミニスポーツセンターとして役立っているようであった。

日本の漢字では柳蔭健身園という字に書くのだが、さしずめ、柳の木の蔭で体を

鍛えようという場所である。

お年寄りや時には子供さんがやってきて、運動していたが、最初に私が声を掛け

たおばあちゃまは83歳だとおっしゃったが、耳が遠いから、あまりおしゃべり

してもわからないと言われたので、私のバッグから金貨の形のチョコレートを

取り出して一袋差し上げたが、最初一つを私が食べて見せて差し上げたのだが、

おいしいととっても喜ばれた。

そこへ、私と同い年だと言うおじいちゃんが現れて、

 ”あんたは、60歳ぐらいにしか見えないよ。”と言われた。

お世辞200%のと思いつつも、すっかり舞い上がってしまった。

まだ、まだ修業が足りない。(笑い)


 そこで、また、チョコレートを差し上げたのだが、とっても相好をくづされて、

”日本と中国はお隣の国だから、仲良くしていかなければいけないんだ。”とおっ

しゃって、握手をしてくれた。

 ちょっとおしゃべりを楽しんだ後、最後に

 ”祝 你 身体 健康 和 幸福!”(ご健康とご幸福を祈ります)と、言う

 つもりで、 幸福(シンフー)を辛苦(シンクー)と言い間違えてしまって大慌て

 で訂正したが、彼はおかしそうに笑っていた。
 
 旅行して一番うれしいのはその国の人との交流ができたときだと私はいつも思って

いる。

思い出の北京(続編15-4)胡同

2011-01-25 17:52:45 | 思い出の北京


杭州から北京迄何代にもわたって整備されてきた京抗運河の終点が北京の前海、

后海と言う湖であるのだそうで、昔は水運業が運送の主力を成していた時代には

大いに栄えた場所である。この周りには、まだ、多くの胡同が残されている。

その一つが写真に撮った東明胡同である。

胡同(ふーとん)とは、三歩から六歩までの道幅を意味するそうだが、そこに

できているいわゆる共同住宅のこともさすようで、いわゆる壁のない共同トイレが

まだ残っているのは北京でも多分ここだけのようだ。


 科挙の試験(文官のためには文科挙の試験が、武官のためには武科挙試験があった。

 科挙とは、試験による選挙で、推薦によって試験を受けるが、試験の方が重要視

 されたそうである。

 隋の文帝の時代に始まり、清の光緒帝の光緒30年(1904年)まで続いていた。)


 の文科挙に受かった人の家の前には四角い石が門前の両脇に置かれ、これは、墨や

 硯を意味するとか、武科挙に合格した武官の家の前には丸い形の石がおかれている

 そうであった。

 胡同の家は四合院と呼ばれているが、(四合院の四の字は東西南北の四面を表して

 いるそうで、北京の四合院は伝統的な住宅として建てられたもので、大部分は清の

 時代から1930年代に建てられたものだが、元の時代から建てられ始めたそうである。

 ”合”とは中国語で取り囲むと言う意味があるようで大きさや、組み合わせに

 よって、大四合院、四合院、三合院とか呼ばれているそうで、一般に小さな窓が

 上の方にあるだけで、窓はなく、南向きの部屋から採光し、門を閉じてしまえば、

 外の世界と遮断されるそうで、天井が高く、冬は温かく、夏は涼しいようである。)

 
 そんな道を歩いていたときに、通りの奥の方から、ジャラジャラと音がしてきた。

 60に手が届くかと思うような背の高い男性が戸を開けて出てきたが、長男が、

 ”マージャン?” と声を掛けたら、と、その男性が、寄っていかないかと

 誘ってくれたが、夕暮れも近づいていたので、ご遠慮した。

  (続く)

思い出の北京(続編15-3)胡同

2011-01-25 01:14:27 | 思い出の北京
 氷の張った湖なんて、孫たちはあまり見るチャンスがなかったのか

とっても氷の上に乗りたがって、近くのあまり氷が厚くないところ

から湖面に降りようとしていたので、危険だと思って声をかけた。

 ”そこはまだ氷が張っている所と水のところとあるから、あまり

 氷だって厚くないから、そんなところから降りたら、危ないわよ。”と。
 
 ”いや、木の枝か何かで氷をつついて,確かめて見るから。”

 ”そんな。あなたたちの力でつついたぐらいでは、あなたたちの体重を

 支えきれるのかどうか、わからないわよ。”

 孫たちは早く氷の上に降りたくて、うずうずしていた。

 ”そこの桟橋から降りるよ。”

 ”だめよ。もっと氷の厚いところで、大勢人がいるところへ行ったらどう

  なの。”私は、はらはらして、いた。

 私の後ろから、長男が孫たちに声を掛けた。

 ”おい。お前たち。カメラ持ってるか?”

 ”ああ、カメラは持っているよ。”

 ”水中カメラ 持っているか?”

 孫たちはぎくりとしたらしい。

 暫く声がなかったが、そのうち孫の一人が、小さな声で、

 ”大勢いるところだって、氷が大きく割れることだってないとは

 限らないし・・・。”

 と言った。

 それでも、水中には入る気持ちはなかったようで、氷の厚いところまで

 歩いていったのであった。


思い出の北京(続編15-2)胡同

2011-01-24 11:37:18 | 思い出の北京


前海から后海につながるところにある銀錠橋のところには多くの人力

自転車が客待ちをしていて、私の顔を見ると、いいかもだとばかりに

寄ってきたが、私が相手にせずに、すまして歩いていったら、次男の方

に近づいて、お金の交渉をしていたが、次男も取り合わなかったのだが、


本当に根気がいいと思うほど、ずいぶん何回も言ってきたので、ついに

三組に分かれて乗ることになってしまった。

 最初に孫たち二人が乗った車は一番軽いので、すいすいと行って

しまった。

次に長男と一緒に私が乗ることになったが、座席が高いので、私が

なかなか乗れずにもたもたしている間に、次男が次の車に一人で乗って、

これもお先へとばかりにさっさと消えていった。

長男が、私の手を引っ張って、どうやら、乗せてくれてたのだが、

おんぼろ車であったし、なんとなく乗り心地が悪くて、坐りなおしたり

していたので、出発も大分遅くなってしまった。

長男は5人の中では、一番重量級だし、私も60キロ近くあって、道も

あまりよくないので、自転車を漕ぐ人は大変だとは思っていたのだが、

がたがた、がたがた、とっても乗り心地が悪かったのである。

私たちが、やっと、目的地について下ろされたときには、運転手から、

 "チップを弾んでくれ。”と言われ、チップを渡しても、渡しても、

 もっともっとと、何度も要求されてしまった。 

 よっぽど大変だったのだろう。


 ”とっても乗り心地が悪かったわ。”と言ったら、孫たちは、

 "そんなことなかったよ。快適だったよね。”と、のたまわった。



 后海の中ほどの手前側には氷のないところがあって、寒中水泳が

 行われていた。

 長男が、

 ”多分舟があるから、凍らないように、あのあたりは時々氷を
 
  割っているのだろう。”

 と、言っていたのだが、たくさんの氷のかけらと一緒に木の葉や

 ごみが浮かんでいた。

 見るだけでも凍りつきそうであった。

思い出の北京(続編15-1)胡同(フートン)

2011-01-23 16:41:55 | 思い出の北京
 昼食後二手に分かれて、胡同へ行くために前海と后海の間の銀錠橋

で待ち合わせをするつもりで、長男組と、次男たちと私の二組に分かれ

て、タクシーに乗ろうとしたが、長男たちは、北京飯店の前迄歩いて

行ってタクシーを拾うと言って出たが、私たちは私がいるので、なるべく

近いところで乗ろうと言って、北京飯店の表玄関から乗ることにした

のだが、距離が近いからか、どんどん来るのに、どのタクシーにも乗車

拒否をされて、なかなか乗せてもらえなかった。

ホテルのボーイさんたちが、”乗せろ”と大きな声で言っても、お客を

下ろして、私たちの行く先を聞くと、すぐ行ってしまうのである。

中には”メーターを使わないなら行く”と言ったタクシーもあったが、

それではいくらぼられるかわからないと言うことで、こちらが乗ること

を渋ったので、10台ぐらいも乗れなかったかと思うが、そのうち、

やっと若くておとなしそうな運転手が乗せてくれた。

次男が ”よかったなあ。いくらか上乗せをしてやろうか?”と言った

ので、私も、すぐ、同意してしまったのだが、私たちが、感謝、感謝で

降ろしてもらったところは、私たちが、降りる予定のところよりずっと

手前のところであった。

私は、持って行ったキャンデイをいくつもあげてしまったのだが、

次男が "あれ、おかしいなあ、変だなあ。どうなっているんだ?”

と言い出した。

目の前に門のようなものがあり、右手に湖が見え、そこに氷が張って

いて、大勢の人たちが、氷すべりを楽しんでいたのである。

 地図を出して見ていた次男が、

 "ああ、わかった、手前で降ろされてしまったのだ。兄貴たちと

 待ち合わせると約束したところの手前で降ろされてしまったら

しい。”

 次男が地図上で示した地点は前海の手前側で、予定の位置は、

その前海の周りを半周ほど行かなければならなかった。

 "おばあちゃん 大丈夫?”

 と次男が聞いてくれたが、ここで駄目だと言っても、近すぎて

 どうしようもないので、頑張るしかないと思って、私は、

 ”大丈夫よ。”と、明るく言って見せたが、あの地図の前海の

 周囲を半周して、さらに后海へ行って、それから、胡同を行くと

 するとどのくらい歩くことになるのかなあと、内心心配になっ

 たが、平気な顔で、次男と孫の間に挟まって歩いていった。

 私たちがタクシーを降ろされた所は、徒歩ルートのスタート

 地点で、約束の場所は人力車ルートのスタート地点だったのだ。

 きっと長男たちが心配しているだろうと思って急いでいったのだが、

 私たちが余りに遅いので長男たちに大分心配させてしまった。

  日本の内地であれば、携帯電話という便利なものがあるのだが、

 中国では高くかかるので、使わないことにしていたので、ともかく、

 お互いに探すしかなかったのである。

 やっと橋の袂で会うことができた。

 この前海と后海には氷が張っていて、前海には写真のような椅子を

 貸し出している業者がいて、その椅子に大人も子供も二人ペアで、

 その椅子を借りて、氷すべりを楽しんでいた。

  (づづく)

思い出の北京続編14)回転寿司

2011-01-22 18:21:23 | 思い出の北京


息子たちと北京飯店の一階で出会えたので、そのまま、お昼を食べに

行こうということになって、王府井へ行くエレベーターで外へ出て、

すぐ前の食堂街へ行った。

回転しているものを見るとあまり日本で見ないようなものとか、スイーツ

などが多くて、はて、これはなんだろうかと首をひねるものばかり。

 みんなで、これはなんだろうかと言いながら、お皿を取ってみたりして

いたのだが、サーモンにアナゴのたれがかけてあるようなものだとか、

まあ、食べられなくはないのだが、何で中国くんだりまで来て、こんな

お寿司を食べなければならないのかと思っていたら、長男が、端の方で

お鮨を握っている男たちを見つけ、何やら言っているようだったが、

さまざまな生もののお鮨らしきものがどんどん出てきた。

まあ、普通においしいというのだろうか、何とか日本の物とあまり変わら

ないものが食べられたのであるが、私はこの二、三日の長男の食事の量の

多さにあきれてしまっていた。

帰ったら何とかしないと、これはえらいことになると心ひそかに考えて

いたので、ウエイトレスのかわいいお嬢さんに、私は帰りがけに

 "おいしいことはおいしいけれど、太ってしまいそうだわ。"と言って

しまった。

 彼女はにやっと笑って、それでも、楽しそうに手を振ってくれ

たのである。
  

つづく



思い出の北京(続編13)故宮

2011-01-21 10:28:15 | 思い出の北京


息子たちの行った故宮と天安門広場






この日は丸一日使えるのは最後だから、何とか息子たちに満足して

もらえるような日にしたいと思って、みんなで話し合いをしたのだが、

高校生の孫が、

 "おばあちゃんが行きたいといっていたのは胡同(ふーとん)だから、

そこへ行こうと言い出してくれた。

 それでも私は長男の息子が紫禁城(故宮)へ言って見たいと言って

いたし、歴史的にも、明清時代192年間21人の皇帝が暮らした

 お城で、現存する中で世界一の大きなお城であるし、世界遺産でも

あるので、見せておきたいと言う気持ちがあった。私は以前、雪の中

の紫禁城を拝見したこともあり、あの広大な故宮の中で、途中で歩け

なくなっても、車を呼べないし、息子たちに迷惑をかけるだけである

と思ったので、今日は疲れたから少し休むと言ったのである。

私は、ホテルの中からは出ないからと言うことで、やっと息子たちは

4人で故宮行きを決定した。ゆっくり行っておいで、帰ってきたら、

お昼を食べて、それからみんなで胡同へ行けたら行こうということに

したのである。

みんなが出かけた後、私は中国のテレビはどうなのかと思っていたの

で、一人で、誰にも気兼ねなくゆっくりと電視(テレビ)を楽しんだ

のだが、中国では、民放はなく、北京、上海、天津、深圳、重慶など

とそれぞれの都市でテレビ局を作っているらしかったし、内容によって

チャンネルが分かれているようで、北京では、北京総合、公共新聞、

青少、生活、体育、財経、影視、科教(魔術)文芸、電影、中文国○

(○の所に書いてあった漢字が日篇に示と書いてあったのだが、

画数で調べてもなかった)、綜芸などに分かれていて、生活では餃子

の作り方をやって、誰の餃子が、おいしいかとかやっていたが、次に

チャンネルを戻した時には同じ生活でも、結婚問題で、"裸婚”という

話で、結婚式をしないで、生活をともにしているが、とっても幸せで

あると言っているカップルを何組か取り上げていた。多分、裸婚が、

そういう意味なのだろうかと思ったのだが?

天気予報では北京の空気指数は83%と言っていたが、空気指数とは

環境汚染の関係する指数だろうかと思った。

日本の民放のある番組をそっくり変えたようなものもあったのである

が、世界どこでも人間のやることは、あまり変らないと言うことなの

だろうか?

 お掃除の人がやってきたので、ホテル内を探検(?)することにした。

テーブルテニスと書いてあったのと、長男がプールがあったと言っていた

ので、どんなものかとそれらを見に行ったのだが、二階に卓球場があると

聞いて行って見たのだが、卓球場はなく、20メートルプールがあった。

 卓球場は、お掃除の人たちに聞いて見たり、フロントで聞いたりしたの

だが、結局わからず、散々歩き回ったが、卓球の音のようなカタカタ音が

したかと思って行って見たら、中国料理店の仕込の音だったのである。

二階に日本のお寿司屋さんの”京樽”が出店していたが、開店前で中の

様子は見られなかったが、なかなか感じのよい店構えであった。

卓球とはご縁がなかったようで、見つけられずに部屋に引き帰えそうと

したら、息子たちと出会ったのであった。