80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

語学番組(1)

2012-10-30 17:18:47 | 教育
 ♪Come、 come、 everybody, how do you do

and how are you? ♪

終戦後のNHKの語学番組は松本亨先生のラジオを流れる

この音楽から始まった。 

時代に遅れまじと、猫も杓子も聞いていたものだった。



 今では、ただ、英語番組といっても、何種類ある

のだか見当もつかないくらい、時事英語から、

幼児のためのものやら、日本の伝統的な言葉に

関するものとか、高校講座だの、ストーリイが面白

くて、はまってしまうものから、美しく楽しいもの

が数え切れないほど、いっぱいある。

英語のみならず、中国語、韓国語、スペイン語、

アラビア語、フランス語、ドイツ語、などなど

本当にいろいろテレビで無料で勉強ができる。


しかも一流の先生方からのお講義、それに、

ハンサムな、男優さんや、美しい女優さんとか

お笑いタレントさんが生徒として出演されていて、

それも嬉しい。



語学番組は年々研究され、工夫されて楽しいもの

になってきた。 特に、最近はとても進化して

きて、本当に楽しく見ていられるし、いろいろ

な国の言葉が、勉強できるだけでなく、風景を

楽しんだり、風習やら、お料理やら、本当に

さまざまなことを楽しませてもらえるので、

大好きな番組である。

 朝のニュース番組の中で、殺人事件だの

強盗事件だの、あまり知りたくもないことを

長々と、薇に入り細を穿つというか、くどくど

と説明されていると、嫌になってきて、教育

テレビに変えてしまうと、面白い語学番組が

みられるようになっていたのだが、ここ一年

あまりだろうか、語学番組の時間帯が変わって

きて、この楽しみがなくなった。



先日久しぶりに見た、ドイツ語の番組が面白

かったので、次回ご披露させていただくことに。

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学童保育

2012-10-29 20:31:21 | 最近のできごと
NHK テレビ、あさいち "学童保育が

見つからない”よりの抜粋



学童保育の現状

きつつき学童クラブには、三箇所の学校区から来る

子供たちが87人も利用している。

放課後、子供たちは30分も歩いて建設会社の事務所

を借りて作ったきつつき学童クラブへ通っていく。

この場所の広さはわずか100平米。狭いし、トイレが

一個なので、おやつを食べたら、まず、近くの公園

のトイレに行くという。

NHKの取材の日には60人が利用していた。

子供たちはここで、おやつを食べたり、宿題をしたり

遊んだりして、5時半まで過ごす。

お天気のいい日はできるだけ近くの公園へ行って

遊ぶ。

指導員 湯浅美緒さんの話

 "全体を見るのが、大変です。全体を見ながら

 個人の子を見なければいけないので大変です”

原口裕司さん

 ”30人、40人規模だと子供たちが落ち着いて

  くるが、いまだと、無法地帯 わー、わー

 しちゃっている。まあ、ベストじゃないのは

 確かですね。”



学童保育の運営には年間2、100万円かかる。

家賃、指導員の人件費で、国や市の補助金は

700万円しかないので、低学年の子供一人あたり

一ヶ月 14,500円の保育料を払ってもらっているとか。

人件費として出ている補助金は500万円、指導員二人

分にも足りない。さらに、アルバイトで頼んでスタッフ

は全部で5人いる。

運営はお父さんお母さんだが、今の学童保育の悩みは

施設が手狭であるということで、働くお母さんが増えて

昨年より13人も、子供の数が増えたとかで、ますます

手狭になってきたのだそうで、何とか来年のオープン

を目指して、物件を捜し歩いているという。

もう一箇所増やすことによって、分散させることで、

子供を落ち着かせ、怪我を防ぐという狙いだ、

父母会会長小田祐さんの話

"なかなかお値段でも折り合いがつかないし、

マンションの中だと入居者に迷惑がかかるし、広くて

少々騒いでも近隣の人に迷惑をかけない・・・・。

音の問題で学童保育に家を貸すことを渋る大家さんが

少なくない。この界隈に20箇所ぐらい不動産屋さんを

回ったが、そもそもお子様の施設として貸してくれる

というところは二つあるか三つあるかしかない。

こういう元気な子供たちだから、そう、貸してくれる

不動産屋さんがあるわけがない。”

(つづく)



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政治家と任期

2012-10-26 10:37:15 | 政治
昨日、東京都知事、石原慎太郎知事が

都庁で緊急記者会見を開き、

 "今日をもって都知事を辞任する。

 国会に復帰しようと思っている。”

 とのご発言があったとか。


つい何年か前に横浜でも多額の借金を残し

任期終了を待たずに辞められた市長が

おられたが、政治家にとって任期とはどの

ような重みがあるのだろうか?

どんな方でも当選されたときには任期満了

の日まで、頑張ってくださるおつもりだった

だろうし、皆さん、途中で政治を放り出す

なんて噯(おくび)にも出されてはいな

かったようである。



選挙には多額の費用がかかっているそうで

あるし、その人に投票した選挙民に対して

責任を全うしたと言えるのであろうか?



もっとも総理大臣まで勤められた方でさえ

なんとも説明しがたい理由で、自主的に

辞任されたお方さまもあったこの国である

からして、大したことではないのだろうか?


それでも、私には、来るべき選挙において

そういう輩を選んで欲しくないとは切実に

思えるのだが、如何?


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尖閣諸島問題(5)

2012-10-18 18:41:36 | 戦争体験
NHK テレビ”日中国交はこうして始まった”

よりの抜粋


第三回首脳会談。

日中間で話合わないことにしていた尖閣諸島問題

について発言があったことが明らかになりました。

最近公開された外務省の記録です。

田中総理

 ”尖閣諸島について、どう思うか?

 私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。”

周恩来首相

 "尖閣諸島問題について、今回は話したくない。

 全く、これを話すのはよくない。石油が出るから

 これが問題になった。石油が出なければ、台湾も

 米国も問題にしない。”

大平外相の秘書、森田一さん

 ”中国は問題にしない。日本も問題にしないと

 思っていたのに、角さんが急に言い出したから、

 日本にとって驚きで、大平も予測していなかった。

 竹入メモにあったように日本側にはないし、中国

 側にもないと言うことで通すのだと思っていたら、

 田中さんが急に言い出した。”

当時、外務省中国課課長橋本恕さんは

 ”なぜ田中さんがあの時に言い出したのか、それ

  は確かにおかしい。疑問がないなら、そこで

  きっぱり否定すれば何ちゅうことはなかったの

  に、もしこういうことが出てきたとすれば、

  何かあったのかと、私でさえ思うんだから、どう

  考えても解らないのは、国交正常化交渉まさに、

  72年、四泊五日で非常に限られた日数の中で

  出ている。何で突如として持ち出されたかと

  当時も、今も、疑問なんです。”

  当時周恩来さんの通訳を務めた王効賢さん

  "確かに、そういう話はありました。

  中国では尖閣諸島とは言わないで、

  ”釣魚島等島嶼”と言うのです。

  中国は国交正常化の時は尖閣はやりとりは

  なかった。ただ、田中さんが、ちょっと

  言いかけたら、周恩来先生が、今回はその

  話はしないことにしますとおっしゃった。”

 
  中国側は、このときの周恩来の発言は尖閣の

  問題を一時棚上げにしたものだとしています。

  しかし日本政府は尖閣諸島は日本固有の領土

  であり、領有権の問題は存在しないと一貫して

  言っています。

  1972年9月29日(昭和47年)両国の

  首脳は日中共同に調印、日本と中国は国交正常

  化にいたりました。

  日中共同声明です。

  日本側は

  "日本は過去において、中国に重大な損害を

  与えたことについての責任を痛感し、深く反省

  する。

  中国は日本に対して、戦争賠償の請求を放棄

  する。

  高碕との出会いから17年、周恩来は日中国交

  正常化への道を求め続けてきました。

  そしてLT貿易から生まれた人と人の繋がりを

  生かした大平正芳、二人が日中の未来について

  残した言葉です。

  周恩来

  ”小異を残して大同に就く”

  大平正芳 (著書 旦暮芥考より)
  
  ”われわれの持つ可能性は、最大限にアジアの

  ために絞り出さねばならない。 それこそは単に

  我々のアジアに対する過去の贖罪にとどまらず、

  これからのアジア平和と安定に不可欠の礎である。

  それこそが、日本自体の生存と安全に通ずる大道

  であるからだ。”

 鎌倉千秋アナウンサー

 ”今夜は日中国交正常化にいたるまでの道程を見て

 おりますけれども、改めてLT貿易時代10年に 

 亘って培ってきた人脈、これがあったからこそ、

 その後、短期間で国交正常化が可能になったという

 ことが解りますね。”

 五十嵐公利(元、NHK解説委員長)

 "そうですね。米中和解こそ、頭越しにやられたん

 ですが、正常化という点ではアメリカよりも早く

 実現したというわけですよね、ただ、そのプロセス

 が、一気呵成という言葉が出てきたんですが、

 ちょっと早すぎたんですね。ひとつは戦争責任から

 の歴史認識問題、もうひとつは尖閣の領土問題、

 この二つは非常に複雑に絡んで、今に至っていると

 思うわけですけども・・・。”

鎌倉千秋アナウンサー

 "実は私、中国で一年ほど勉強していたんですが、

 今、中国の若い世代、日本文化が好きだという若者

 がどんどん増えているんですが、その同じ若者が

 尖閣の話、歴史認識の話になると、態度が急変する

 と言うことを何度も目の当たりにしてきました。

 改めて、日中国交正常化までの長い困難な道程から

 汲み取れることって何なんでしょうか?”

 五十嵐公利さん

 ”私、あの、領土問題がないと、話し合いをしない

 言うだけではなくて、最低限、対話の窓口を開けて

 置くのが大事だと思うんですね。ただ、この際、

 心配なのは、日中間のパイプが、非常に細くなって

 いるんですね。日中間の国交正常化に携わった人達

 は、いざと言う時に腹を割って話し合えるようにと、

 日中間のパイプの強化を言い残していたんですが、

 こうした警告が生かされることがなかったんですね。

 それから、あの、領土問題は外交の中で、一番扱いが

 難しい問題と言われているんですね。それが、今、

 尖閣だけではなくて、竹島、北方領土と、同時発生的

 に持ち上がっているわけですね。外交と国内政治は

 コインの表裏といわれていますから、こういう困難な

 時代の外交を支えるためにも、国内政治を如何に立て

 直すか、そして、安定させるかということが今、待っ

 たなしの課題になっていると思うんですね。そう言っ

 た観点から、高碕あるいは古井といった政治家をみて、

 いくつか印象深い点があるんですね。

 一つには、どうしても関係正常化が必要だと強い信念

 を持ち続けたことです。 その信念を持ち続けるため

 に政治の壁に果敢に挑戦したこと、それから、当時、

 非常に鋭く対立していた米国と中国が何時か和解する

 だろうと予見していた、そういう意味の先見性と気骨

 に富んだ政治家であったと思いますね。”

 鎌倉千秋アナウンサー

 ”当時の大平外相の命をかけてでも国交を結ぶんだと

 言う、あの強い姿勢は、とても印象深いですね。”

 五十嵐さん

 ”やっぱり、今の世代は、この難局を乗り越える

 ために最大の知恵と努力を傾けたいと、そういう風

 に思いますね。”

 鎌倉さん

 ”今のこの状況だからこそ、改めて、お互いのこと

 をよく理解して、正面から向き合う。そういった姿勢

 が求められているんですね。”

五十嵐さん

 ”そうですね。”
 

 (完)

 

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2012-10-16 16:44:32 | 最近のできごと
創部三年目、部員15名の私たちの小さな

卓球クラブ、先月の20日、お一人の部員が、

亡くなり、今月12日、またお一人欠けて

あっという間に13人になってしまった。

お二人とも癌であった。

それも、最初に行かれた病院では癌は発見

されていなかったのである。

なんとも口惜しい。

山中教授のips細胞の実用化も待たれるが、

確実に癌が初期段階で発見されることを期待

してやまない。

お二人のご冥福を心から祈りあげます。

尖閣諸島問題(4)

2012-10-12 16:16:39 | 戦争体験
  NHK テレビ”日中国交はこうして始まった

よりの抜粋


大平は密かに、古井を中国との交渉に行かせる一方、

外務省に国交回復の準備をさせます。

その中心となった、当時、外務省中国課課長橋本恕

さん

”国交正常化をやっていくタイミングというものが

 あって、これに非常に縛られて、国内情勢との絡

 みに於いても、タイミングというものを考えてい

 た。

 ぐずぐずしないで一氣呵成に、わっとやっていき

 たいと、当時、外務省は国交回復に向かって懸案

 事項の検討を重ねていました。

 そのひとつが尖閣諸島の領有権問題です。

 日本政府が尖閣諸島を日本領土に編入することを

 閣議決定したのは1895年のことです。この年日本

 は日清戦争に勝利しました、以来、日本の領土と

 なった尖閣諸島は、太平洋戦争後、アメリカの

 施政下におかれていました。

 その後、1972年に沖縄返還協定により日本に返還

 されました。 一方60年代後半、周辺に石油が

 埋蔵されている可能性が指摘され、台湾、中国が

 尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。

 
 
 1972年外務省中国課がまとめた尖閣諸島に関する

 日本政府の見解です。

 


 尖閣諸島がわが国の領土であることは、議論の

 余地なき事実である。

 いかなる外国の政府とも話し合う考えはない。



 当時の中国課課長の橋本恕さんは

 ”尖閣諸島が日本領土と言う点に疑念が示され

  たことは知りません。(ない)”



 公明党委員長竹入義勝氏は、8月4日、田中首相

 を訪れた。

 中国での周恩来とのやり取りが報告された。

 (所謂竹入メモ)

 周恩来の発言が克明に示されています。

 ”毛主席は、賠償金の請求権を放棄する。

  尖閣諸島問題についても、触れる必要は

  ありませんと。”

外務省の大平の秘書、森田一も尖閣諸島の問題に

ついてふれる必要はないと、古井さんからもそう

いう風に聞いていた。

訪中の条件が整ったと大平は古井に訪中を促しま

す。

古井に与えられた使命は、首脳会談の内容をつめ

ること。

9月9日、古井は大平の密命を受けて、日本からの

初めての直行便で北京に降り立ちます。

古井さんに同行していた LT 貿易事務所の

金光貞治さんが、手にしていたのは、高碕達之助

さんの遺影でした。

金光さんの話

”高碕さんが本当に難しい時代を切り開いて来ら

れたのだから、せめて、もう、おそらく、国交

回復は大丈夫だろうからと高碕さんの遺影を持っ

て、北京空港に降り立ったわけです。

本当の目的は大平さんの依頼で国交回復の交換

文書のテニオハ、点までの詰め。”


 
 9月12日、古井は周恩来と会談、共同声明の

 内容を協議。

 
 金光さん

 ”古井先生は一生に一度の男の仕事だったん

  でしょうね。

  我々が一緒にいても気迫が違いました。 

  椅子に深くは坐らないんですよ。 

  椅子の前の方に乗り出すようにして 話を

  されるんですね。”

 
この会談で何が決まったのか古井から報告が示

されました。


それによれば、共同声明については基本的に

合意が得られました。但し、戦争状態の終結、

つまり、日中戦争が、何時終結したかについ

ては合意が得られませんでした。

戦争をめぐる認識と言う課題を残したまま、

平達はその日を迎えます。

9月25日北京の空港に降り立ちます。

周恩来が自ら空港に出迎えます。

当時、周恩来の通訳をつとめた林麗韞さん

 ”本当に周恩来総理は、晴れ晴れとした

 お顔で田中さんを迎えられたのです。”

 


 訪中初日の夜、人民大会堂で、田中を歓迎する

 晩餐会が開かれました。

 冒頭、周恩来首相が歓迎の挨拶を行い、田中が

 答えます。


 ”過去数十年にわたって日中問題は遺憾ながら

 不幸な経過を辿ってきました。この間、わが国

 が中国国民に多大なご迷惑をお掛けした事につ

 いて、私は改めて深い反省の意を示すものであ

 ります。

 田中の言葉が中国語に訳されると、会場は異様

 な雰囲気に包まれました。


通訳の林さんの話

 ”田中さんのご迷惑をおかけしましたと言うの

 を "添了麻煩"と訳したのですが、会場はざわ

 めいたんですね。 ”添了麻煩”というのは、

 うっかりして、女の人のスカートにちょっと

 水を掛けたぐらいの時の言葉なんです。 

 軽くて戦争に深刻に反省する気持ちが表れ

 ていないと・・・。”

 

翌日、周恩来は田中の発言は中国人の反感を

呼ぶと主張、日中戦争の被害に触れます。

戦争をめぐる両国の認識の違いがあらわに

なりました。



姫鵬飛外相と会談していた大平は局面を打開

するために一計を案じます。

訪中三日目の朝、9月27日、一行は万里の長城

に出かけます。

 大平は姫外相に車中の会談を持ちかけます。

 中国側の通訳を介して二人だけの会談です。

 この当時の姫外相の通訳周斌さんはただ


 一人の生存者、このときの体験を証言し続

 けておられます。

 周斌さんのお話

 ”車中会談を仕掛けたのは大平先生です

  から、 先ず、大平先生が 

  私の目で見たあの戦争は明白に中国に対

  する侵略戦争である。 深く言えば、私

  たち日本は何も弁解する理由はない。

  ただ、これは私、個人の見解に過ぎない。

  しかし、現在、私は日本の外務大臣の立場

  で問題を見、発言する必要がある。

  完全に中国側の要求を受け入れて表現する

  と、共同声明に書き入れるというのは難し

  過ぎる。 無理である。

  この点は、もし、中国側の意見が得られな

  いならば、 私たちは荷物を片付けて、

  帰るしかない。 

  (大平は戦前中国に赴任していた経験があり

  ました。 1、939年から一年間、大平

  は、大蔵省からの派遣で中国の張家口で働

  きました。このとき大平は中国での日本軍

  の実態を目にしていました。)

  我が方は、私と田中は、最大の譲歩はする

  つもりである。こういった心構えがなけれ

  ば私と彼は中国へは来ません。

  来た上は、私と彼は政治生命をかけて必要

  ならば、肉体生命をかけてこれをやり通す。

  これは是非、周恩来総理に伝えてください。”

  私の言ったことをそれをそのまま報告して

  ください。

  これは、私の印象ですが、大平さんはこう

  言った主旨の言葉を述べる時には、少し涙。 

  聞いていた、私も感動したし、姫鵬飛外相も

  感動したんです。”



  万里の長城を見学を終えた一行は再び首脳

  会談に向かい、この日の夜、交渉は、共同

  声明の最大の山場を迎えます。

  このとき大平外相がかつての戦争に対する

  反省の念を盛り込むことを提案。中国側も

  同意しました。

  最後に残ったのは、古井がつめ切れなかった

  戦争状態の終結の問題でした。

  それまで日本は台湾との間で日華平和条約

  を結んだ際に戦争が終結したと、戦後の

  両国関係は不自然な状態であると主張して

  いたが、これに対し、中国側は、日華平和

  条約は無効であり、日中の戦争状態は続い

  ていたが、日中共同声明が発出された日に

  終ると主張。

  大平と中国側が協議を重ねた結果、次の

  ように纏まりました。



  両国間の不正常な状態は共同声明が発出

  した日に終了する。



  当時、大平外相秘書だった森田一は

  ”日中間に存在した不正常な関係に終止符

   を打つ。 だから、中国側は、日中国交

   正常化によって、戦争は終結したと国内

   に説明するし、日本側は日華平和条約で

   戦争状態は終結しているが、不正常な

   関係がずっと続いていたんで、日中国交

   正常化交渉によって不正常でなくなる。 

   その結果、日華平和条約は存在意義を

   失った。

  (つづく)

尖閣諸島問題(3)

2012-10-10 11:13:42 | 戦争体験
NHKテレビ”日中交渉はこうして始まった”

よりの抜粋


1971年世界の冷戦構造は劇的に変化した。

アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し

たのである。

当時、総理大臣を目指した田中角栄たちに

は、日中国交回復への大きな障害がなくな

ったと言える。



1972年「昭和47年7月田中角栄内閣が誕生。

大平正芳が外相に就任、田中を支えて、

日中国交回復に、大きな力を尽くすことに

なっていった。

当時、自民党の議員の中には台湾を支持し

中国との国交回復に反対するものが多かった

中で、大平は積極的に動き始めた。

大平さんは

 ”中国側の対日認識が漸次進んで参って

 いるように受け取れるのでございます。

 政府としては時期が熟したと、、、、。”

  と、演説している。

大平正芳さんのお孫さん大平知範さんによって

公開された大平さんの12冊のメモ帳をNHKが

特別に撮影を許されたそうである。

1972年の首脳会談までの大平さんの動きが克明

に記されていました。

左側には一週間の予定が、右側には、検討課題

がびっしり書きこまれていました。



7月16日のメモ

 この日大平は田中首相の自宅を訪ねています。

 二人は中国側との交渉ルートを話し合ってい

 ます。

 その結果、竹入公明党委員長と、LT 貿易の

 中心である古井喜実氏を交渉に当てることに

 しました。

 1960年代から古井氏と親交を温めていた大平

 は、古井に自らの決意を伝えます。

 ”政府首脳の訪中より始まる。率直、且つ、

  真剣にやりたい。”

 古井は、このときすでに、周恩来から重要な

 情報を入手していました。

 中国は国交正常化に当たって賠償を請求しな

 いという方針です。

 当時、大平外相の秘書を勤めていた森田一

 さん

 ”もし賠償をするんだったら、東南アジアの

  金額から言って膨大なものになるんだから、

  もし賠償があるんだったら、とても財政

  負担に耐え切れない。正常化交渉は無理で

  あると大平は考えていたから、先に賠償が

  あるかないかを確認して中国との交渉の準備

  をしていった。

  毛沢東は、何故、賠償を放棄したのか、

  当時、中国外交部だった丁民さんは

 ”毛沢東はドイツの例を挙げ、第一次世界大戦

  後、ドイツは多額の賠償金に苦しんだ挙句、

  復讐心から、ヒトラーが出てきた。

  また、中国も日清戦争後、大きな賠償を背追

  わされて、中国民が苦労した。

  日本が賠償をすると、政府が払うけれど、結果

  国民に同じ苦労をさせることになるからいけな

  いという考えであった。”と言われた。

  




80ばあちゃんのメモ

  ありがたいことに中国は日本に賠償金を請求され

  なかったので日本の今日があり、これは忘れては

  ならないことだと私は思っております。

  日本と日本人の外国にあった資産は凍結後、とり

  あげられたそうです。「中国も含む)

  また、日本の機械は戦争の関係国に分けられたが、

  (中国も含む)そのことに関しては後日書きたい

  と思っております。

(つづく)



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尖閣諸島問題(2)

2012-10-09 18:05:30 | 戦争体験
NHK テレビ、日中外交はこうして始まったよりの

抜粋



当時、世界はアメリカとソビエトの東西陣営が激しく

対立。アメリカとの関係を重視していた外務省は

中国との交渉を自粛した。

日本は台湾を中国とみなし、日華平和条約を締結。

一方中国との関係は回復していなかった。

1960年、岸信介首相が日米安保条約の改定にのり

出した。「1月)岸の反共外交は中国の反発をくらい、

天安門100万人集会をはじめ、中国各地での反対運動

が起こり、日中関係は完全に断絶した。

こうした中、経済界から日中貿易を求める声が高まり

1960年7月池田内閣が誕生。

中国との関係は政治と経済を切り離して貿易拡大を

目指した。

高碕は周恩来との二度目の会談に乗り出す。

(1960年10月)



高碕は、まず、中国は日米安保条約について、あまりに

神経過敏になっていると主張。

この時の周恩来さんの通訳は,劉徳有さんは

 "高碕先生は、お国の政治制度、つまり共産主義には、

 私は賛同しませんと言いました。 私は引き続き、

 これからも私の資本主義をやっていきます。

 アメリカが寛大な措置をとって日本を援助してくれた

 ので、日本は今のような生活ができるようになった。

 だから、アメリカを敵視するようなわけにはいかない

 と、言われました。

 この見方は、私としても勿論、中国としても賛同でき

 ません。 でも、高碕先生はづけづけと言われた。”




 
 高碕は会談の合間に中国東北部、旧満州を訪づれます。

 ここは、かつて、日本軍が進出し、満州国が建国された

 地です。

 太平洋戦争のさなか、高碕は満州重工業開発総裁であった。

 高碕は赴任する前、満州は"王道楽土"であると、聞かされ

 ていた。

 しかし、高碕は後に次のように記している。

 "不潔な宿舎、食堂、浴室、それに、粗衣粗食は私の想像

 以上のものであった。そこには"王道楽土"もなかった。

 力を持ってする支配、ただ、それだけであった。


 
 高碕が視察に訪づれたのは、鞍山鉄工所。ここはかつて

 高碕が経営していた製鉄所でした。 

 高碕は戦前を上回る製産量に目を見張りました。

 一方で技術的な遅れも見抜きました。 高碕は周恩来に

 対し、積極的なアドバイスをしました。

 ”鞍山の鉄工所が僅かな間に「数年)生産量が5倍にも

 上がったのはこれは大変な成果である。それから、子供

 の目が輝いている。 しかし、経済的に見た場合、自分

 にも意見がある。 長春自動車工場は、すべて機械を

 ガソリンで動かしている。  どうしてガソリンをデイー

 ゼルエンジンに替えないのか? その方が経済的である。

 何もかも全部自給と言うのは難しいのではないか”

 通訳の劉さんの話

 ”周恩来は、経済的に明るい方が、これだけのことを率直に

 積極的にありのままを話してくれたこと、非常に役立つ

 意見を言ってくれたことに感謝していた。”


 
 忌憚なく助言を行う高碕に中国外交部は

 ”高碕は日中関係を打開したいと述べているので、岸など

 とは区別し、自民党内部の”有識の士”としてとり扱う。

 その背後には毛沢東の冷徹な戦略が秘められていた。

 ”高碕など親中派を利用して日本政府の分断を深めるように

 と周恩来に、命じている。


 高碕は当時、中国と鋭く対立してたアメリカにも働きかけた。

 当時高碕に同行した中曽根康弘さんは

 ”高碕さんは、うまくアメリカと中国を仲良くさせよう。

  それをやるのは日本だし、それをやるのは俺だ。高碕さん

  は非常にスケールの大きい方で、米中関係を仲良くさせ

  なければ駄目だと、自分の体験を下に、後に大統領になる

  ケネディや、民主党下院議員のジョン W マコーミックを

  説得します。日本は中国を過去30年圧迫した。中国は建設

  途上であり、食料が足りない。これをかつての加害者であ

  り、隣国である日本が放っておけるだろうか? アメリカも

  この考えを理解してほしい。”


  マコーミックは

 ”アメリカはソ連や中国を地球上から消そうとは思わない。

  ただ、共産主義が我々の自由と、平和を脅かすのを許すわけ

  にはいかない。 君も、その年になって、赤になるのを気を

  つけろ。”


 その後、ケネディ新政権が誕生。 高碕は再び訪米。 当時の

 アメリカは中国に対して全く関心がなく、耳を貸さなかった。

 

 同じころ、中国では、毛沢東が掲げた大躍進政策が失敗。

 餓死者 2000万人以上と、言われる未曾有の大飢饉に見舞われ

 ていた。

 ソビエトとの関係が悪化、技術支援も途絶えた。

 周恩来にはこの危機を乗り越える道は日本の経済協力しかなか

 った。

 アメリカの理解が得られぬまま、高碕は日中貿易を実現する好機

 ととらえ、再び、中国を訪問。周恩来との会談「1962年11月9日

 LT 貿易協定調印) 大戦後初めての協定が結ばれた。

 国交がない中、互いに事務所を設置し、政府の保証のもと,半官

 半民の貿易が始まった。この代表は高碕と中国の寥承志氏。二人

 の頭文字を取って、LT 貿易と名づけられた。LT 貿易で高碕が

 もっとも力を入れたのは、日本の工業技術を移転するプラント

 輸出だった。

 

 福建省のビニロン工場、化学繊維、ビニロンを生産する技術も

 LT貿易で中国に輸出されました。

 もと、工場の労働者、陳国泉さんは

 ”日本の設備は耐久性に優れていて、性能がすばらしい。

 プラントは大きな意味がありました。

 福建省2000万人の衣料問題を解決することができました。

 当時人々は歓迎していました。”

 高碕は経済協力を、そして、日本と中国がともに豊かに

 なる国交正常化することを願っていました。

 しかし、高碕は1964年、正常化の前に亡くなったのです。

 周恩来の通訳劉さんは、

 ”日中貿易ができたと言うことは、1972年の国交回復実現

 のための ワン ステップ、基礎を築いた。”

 高碕の死の直後、北京と東京にはLT貿易の事務所ができま

 した。

もと、東京の事務所に勤めていた金光貞治さん

 ”このビルの二階が隠れ大使館でフロアの半分が中国、

 半分が日本の事務所でした。

一方中国から記者団も来日し「1964年9月)互いの情報量

が増え互いの理解が深まっていった。

当時、中国外交部丁民さんは周恩来のために情報を集めて

いたが、

”量的だけでなく質的にも変化があったと思う。出先が

 きたので、接触する範囲が広くなり、適時に、人と接触

 できた。

 古井喜実先生は緊密に連絡を取っておられた。”

 
自民党の衆議院議員だった古井喜実は、高碕の跡を継ぎ、

LT貿易の中心となって働いたLT貿易政治顧問で毎年中国

を訪問し、周恩来の信頼を得ていた。



金光さんは

”古井さんは国交を回復しなければいけない。

 現実に考えてみれば、中国はいやだから

 どこかへ引っ越すと言うわけにはいかんの

 だからと、高碕さんと同じようなことを

 おっしゃっていたとか。

 

 

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(つづく)

尖閣諸島問題(1)

2012-10-07 11:30:13 | 戦争体験
今、日本の内政は乱れに乱れているといっても過言

ではないというくらいちゃんと政治のことを考えて

いる政治家はなかなか目に入りません。

政治やさんたちの頭にあるのは、どうしたら

政権を守れるか、どうしたら一刻も早く政権を取れる

かだけのような氣さえします。

内政が乱れるときに周囲の国から領土問題が出てくる

そうですが、今、まさに日本は四面楚歌、尖閣諸島、

竹島と北方領土問題など問題山積です。

日中国交回復のために尽くされた人々の中に、

中国には毛沢東さんや周恩来さんのような、多くの

ご立派な政治家がおられ、我が国にも高碕達之助さん、

古井喜実さん、大平正芳さんなどの政治家が命を賭して

世界の恒久の平和のために頑張ってこられた史実がある

のです。

今この時期に小異を捨てて大同につくという考え方を

しっかり持って、これからの世界平和の礎を築いていか

なければいけないと思います。



少し前になりますが、NHKがとてもすばらしい番組を

放映されていました。 長い長いものになるので、

なかなか、書き出せなかったのですが、今、私は、

その番組をご覧になれなかった方々のためにNHKの

方々の思いをお伝えしたいとしっかり覚悟を決めて

書き始めることにいたしました。

老人のこととて、どこまでちゃんと書けるかどうか

わかりませんが、お終いまでお付き合いを願いたいと

思います。 m(__)m



さて、それは NHK テレビ NHK スペシャル 

"日中外交はこうして始まった"というもので、

今の状況をどのように打開したらいいかということ

を念頭に置きながら日中外交が、どのように始まった

かということを振り返りたいというものでした。

日中国交回復は1972年ですが、実は1955年

のアジア・アフリカ会議から始まっています。

そして、その重要なターニング ポイントを迎えた

のは1962年の LT貿易協定でした。

これはまず経済を中心にして両国の関係改善をはか

ろうと言うものだったのですが、結果的に国交正常

化への地ならしをすると言う役割を担ったのです。

このプロセスを見る中で事態を打開する何らかの

ヒントなり、教訓を見出すことができるのか再検証

してみたいと言うことで始まっています。

その中心となられたのは周恩来さんと高碕達之助さん

でした。


その番組からの抜粋です。





1,949年中華人民共和国が成立。

1955年4月18日、インドネシアのバンドンで

行われたアジア・アフリカ会議(欧米の植民地主義に

反対するもの)に29カ国が集まり、その中でもっと

も注目を集めたのが中国代表の周恩来さんでした。

日本の主席代表は実業界から政界入りされた経済審議

庁長官の高碕達之助さん。

当時、鳩山一郎総理の下、高碕さんも自主外交の関係

改善をを目指しておられたのですが、アメリカは日本が

中国との国交を回復したり貿易したりすることに反対

していたのですが、それでも、高碕さんは

"戦後、日本の復興は、アジアの国々との貿易でしか

成し得ない”

という考えで、反対を押し切る覚悟をされていたのでした。

その4日後、周恩来さんと高碕さんの初めての出会いが

ありました。

早朝、華僑の別荘に、周恩来さんを訪て、高碕さんと通訳

の岡田晃さんが出向いて、極秘の会談が始まりました。

立ち会ったのは僅か5人。

周さん

 "もうお互いに戦争中のことは忘れましょう。我々は長期

 的な立場に立って、日中両国の友好関係についてよく考え

 るべきだと思います。”

高碕さん

 ”現在、日本は米国によって指導されているので、日本

 政府は、必ずしも、貴国の希望されるようにはいかない

 かもしれない。そこでちょっとでも改善するために、まず

 貿易を行いたいと思っている。”

二人は再会を約して別れた。



ところが通訳の岡田晃さんによると

"帰ってきたら外務省が僕に、今日の話はどうだった

と聞くから、これこれこうで、明日また話す予定があると

言ったら、怒って

”そんなわけにはいかない。断って来い”というので、

断りに行った。

代表団の一員、外務省顧問の谷正之さんは、その動向

を察知して、4月20日、米国国務省宛に事前に電報

を打っていた。

 "周恩来と高碕の会談について、貿易問題や政治関係

 の変更に関しては話し合うことはない”と確約して

 いたのである。

(つづく)

電気コード火災

2012-10-05 15:38:40 | 最近のできごと
NHKテレビ"あさいち"よりの抜粋


最近電気コードからの火災がよく発生しているそう

である。

壁についているひとつのコンセントから延長コード

などをつけて一度に何種類かの電気器具を使用す

るのはとても危険なことだそうで、延長コードには

それぞれに使用可能なワット数が表示されているが、

明示されていないものもあるそうで、大体ひとつの

壁についている差込口から一度に使う電気器具は

1000ワットぐらいまでと思っていた方がよい

そうで、大体の消費電力の目安としては、アイロン

1000ワット、ドライヤー1200ワット、電子

レンジ1200ワット、炊飯器800ワット

(NITE・製品安全センター調べ)

たとえば、電子レンジなどの通常ワット数の高い物は

専用のコンセントを使う方がよく、例えば延長コード

差込口が3個あっても、同時にいくつもの電気器具を

使うのは危険だそうで、トータルで1000ワット

ぐらいにとどめておくのがよいとか。

差込口に塵が溜まって、火災になることもあるそうで、

よく掃除をすること。上向きに口があることが多いので、

埃がたまらないようにすることと、コンセントを束ね

たり丸めたりしないことが大切で、コードが接触して

いないようにすること。中の細い線が束ねた

りすることによって、そのうち何本か折れたりするそう

で、火災になるという。コードを床に這わせて踏みつけ

たり、またコードの上に何か載せたまま、電流を通すこ

とはとても危険で発火したりするので、たんすを載せて

しまったり、コタツなどは特におふとんをかぶせたりし

てわかりにくいので要注意。


最近出ているコンセントに電気器具のコードをいったん

捻って差し込むタイプのものは埃が溜まりにくいそうで

あると同時にきちんとはまるのでよいそうで、コンセント

にはめるときには、きちんとはめること。



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