80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

コンピュターも年(?)

2010-05-28 05:38:29 | 最近のできごと
すみません。このところ私のコンピュターは

持ち主並みにぼけ始めましたので、修理に出します。

暫くお休みさせていただきます。いつも御覧いただいて

心から感謝しております。この前書いた友達ともとって

もいい関係に戻りました。嬉しい限りです。

いろいろアドバイスありがとうございました。

今後ともよろしくお願いいたします。m(__)m

普通の大人をつくる教育(4)

2010-05-21 12:16:36 | 教育
このところ毎日のように離婚のことがテレビで問題になって放映されていますが、

私も近頃、他人事ながら一番心を痛めているのが其のことなのです。

例え、他人様のことでも小さな子供さんが関係することは本当に心が痛みます。

ご当人様方は勝手気ままに好きだ何だといって結婚され、急に嫌いになったとか

性格が合わないとか、何のかんのと御託を並べて、ご自分のことを棚にあげて

離婚される、後はどうなろうともご自分たちのお選びになった道ですから、

自業自得と言わざるを得ませんし、そんな不心得ものには明るい未来が来なく

たって、文句を言える筋合いではないでしょう。もちろん一部の方の中には

どうしてもそうした方がいい場合もあるとは思いますが・・・。

でもお子さんがある場合には、子供さんは親を選べないということを忘れないで

いただきたいのです。

例え、どんな親でも子供さんにとっては親である事に代わりはないのです。

もちろん例外的に、客観的に、どう見ても親として認められないような欠陥者は

別の話ですが。

基本的には父親の愛と母親の愛は違うものであると思いますが、其れが片親になると、ど

うしても考えが偏りがちになったり、ゆがみが生じてくることになりそうです。

又、其れをさせないためにとハッスルし、返って子供さんを追い込んでしまったりするこ

ともあると思います。
 

又、生活も苦しくなりがちですし、もし片親が病気になったり、亡くなったりすること

があればお子さんはどうなりますか?

まあ、そこまで行かなくても、例えば保育園のお迎えでも、ご両親が揃っていれば、ご都

合のつけられる方がお迎えに行くという事だって出来ますが、片親ではそうも行きませ

ん。

昔は結婚したら二度と実家の敷居を踏むなと言われたものでした。今や

”お金なら父さんが出してやるからいつでもうちにも帰っておいて”と、

"渡る世間は鬼ばかり"の中の台詞で毎度言われていた事を父親の方が

深くもお考えにならずに言ってしまうご時世です。

どうしても、目の前の事で楽な方をおとりになるでしょう。



  以前、仕事であった人でしたが、そろそろ60に手の届くような女性でしたが、

びっくりしたのは、本当に初めて会ったのに

"うちのだんなは家に帰ってきても何もしゃべらない。風呂、飯、寝る、だけしか言わな

い。離婚しようかと思っているのよ。あなたどう思う。?”と言われたのです。

初めてあった人に言う言葉かなとあきれましたが、

"あなたは何かしゃべられるの?”と、聞いたのですが、

"相手がしゃべらないのに何もいうわけないでしょ。”と言う答えでした。

そこで、私はお子さんはと聞いたのですが、息子さんが二人いるとの事でしたので、

もし年をとって、お孫ちゃんが出来たときに、手放しでかわいいを連発してもいい

のはだんな様だけよ。他人様にあまり言うと厭がられる時もありますよ。

だんな様なら安心して思いっきり可愛いを言い合えるではないの。

あなたの方から何かいうようにしたらいいかと思うわ。

もう一回考え直してみたらと言って置いたのですが、数年後には、いいおじいちゃんおば

あちゃん振りを発揮しておられましたっけ。


お互いおしゃべりして意思の疎通を図りたいと思っているのなら、相手が


何もしゃべらないときには"お疲れ様とか、今日は遠くまでご出張で大変でしたでしょうと

か何とか、少しでもこちらから話すしかないと私は思います。

私は若い頃夫が会社の同僚の方々と飲んだりマージャンをして遅く帰ったときには、必ず

冗談をひとつ言って中に招じ入れることを心がけていたものです。その後夫は定年の頃で

したか"俺は話が下手だから、お前がおしゃべりでよかったと言っておりました。

おなら 二話

2010-05-20 13:03:48 | 性格

昔、JRの茅ヶ崎駅のフォームで列車を待っていた時に近くに40代ぐらいのきらびや

かに着飾った奥さん方が4,5人でおしゃべりをしておられたのです。

あまりに声高にしゃべっていたので、聞こえてしまったのですが、

 "うちの嫁さんは、母の前でおならをしたのよ。あきれるでしょう。?

  母の前で緊張していないからおならが出るといって文句を言ってやったわ。”

  其れこそ、私はあきれてしまいました。



 毎日ご一緒にいておならが出るまで親しくなっていたのなら本当にほほえましい

 事ではないでしょうか? 

 又、もし、そういうことでなくても出物腫れ物、所嫌わずと言う言葉もあります
 
 が、おならは別にしたくないと思っても出てしまう事だってあるのです。

 いちいちそんな事で、小姑がものを言ってはいけないと思いました。

 四六時中、家の中で緊張していなければいけないとしたら、ストレスはたまり放

題です。お嫁さんに同情したくなりました。





以下は、昔、母から聞いた話ですが、或る時、お見合いの席で、若いお嬢さんが
おならをしてしまってお顔が真っ赤になったそうです。

そばにつきそっておられたおばあちゃまが、間髪をいれず両手を突いて、

 ”まことに不調法で申し訳ありません、年をとりますと、どうもいろいろ
 
  あちこち緩んでまいりまして。”と深々とお辞儀をされたそうです。



そんな器用な事、この80ばあちゃんにはとてもできそうもないと思っておりま
すが? (笑い)

おままごと

2010-05-18 02:45:23 | 戦争体験
夕べふとテレビをつけたら、幼稚園の男のお子さんが、好きなお嬢さんに

愛を告白し、結婚したらどうするかと言う話としていたので、用事を

しながら聞いていたら、


"老後はねえ。田舎に引っ越して、畑でもやってのんびり暮らしたいかな。”

と言ったので、思わずぷっと噴出してしまった。

このくらいのお子さんは周りのことを聞いていないようで、ちゃんと聞いていて

学習しているのだろうと思ったが、急に昔のことを思い出してしまった。



1943年頃の話である。


私のお友達の家の近くのお宅にお嫁さんがきた。当時は戦争中で、なかなか手に

入らないような立派な下駄箱を持ってきたと言うので、其れが井戸端会議の話題

になっていたそうだ。

ところが、其の嫁さんは盥を持ってこなかったので、お洗濯の度に、盥を借りな

ければならないので、誰かが、

 ”下駄箱なんてどうでもいいから、盥を持ってくればよかったのに。"と陰口

  
 を叩いたらしい。



 翌日のこと、井戸端会議が始まった。もちろん新入りのお嫁さんも

 一緒だったそうだが、其の隣で小さい男のお子さんと女のお子さん

 がおままごとをし始めたとか。


 "あたしはお嫁に行くときは下駄箱は要らないけど、盥を持って行くわ。”


 大人たちは絶句したそうである。


  其の頃は私たち小国民は(こどもたちはそう呼ばれていた。)道に

  落ちている古釘を集めて学校へ持っていって先生に渡したりするのが

 お国のためであったのだ。其れを集めて戦争に必要なものを作ると

 言うほど、物資がない国であって、もちろん一般家庭のための金盥など

 は全くなかった。それほど金物類は払底していた。木製の盥も作り手が出

 征していてなかなか作れなかったのだろう。
 
 それほど、国民は日用品にも不自由していたのである。

普通の大人をつくる教育(3)

2010-05-16 22:12:13 | 教育
数ヶ月前、NHKテレビが”5世代の暮らし”を放映されていましたが、私は途

中から拝見したので、ご事情はわかりませんでしたが、一番下の世代のお子さん

たちのお母さんが居られませんでしたが、小さいお子さんたちは各世代の方々に

よってすくすくと育ってられていました。

その一番上の百歳を過ぎておられたおばあちゃまのお元気なこと、そして各世代

のみなさんたちがそれぞれの分担をちゃんとこなして、お互いを思いやりながら

助け合って暮らしておられました。

其れが本当のあるべき家庭の姿ではないかと思いました。

みんなで知恵を出し合って、一緒に暮らしていけば、子供さんの育て方も受け継

がれていきますし、孤独死もなくなるわけです。

戦後都会では地価が上がり、大家族で住めるような大きな家を誰もが建てられな

くなってきてしまいました。

例え一緒に住めなくても、ご結婚されたら、縁あって親子になったわけですから

運命共同体と思って、できるだけ相手の立場を思いやり、助け合って行くしかな

いのではないかと思うのです。

お住まいは別々でも大家族でお暮らしのような考え方を持って、お互いを温かく

受け入れようとする心を、まず持つことが大事でしょう。

親御さんたちはお婿さんやお嫁さんをご自分の息子さんや娘さんとご家庭を築い

ていってくれる大事な人と思い、お若い方々は、ご自分の伴侶を育ててくれた大

先輩だと思ってお互いに敬意を持って接していくことが必要です。

今のお若い方々は一般的に大学出が多くなりましたけれど、昔の方たちには、学

歴のある人が少ないのですが、長年培った生活の知恵はあるのです。 

お互いに平等の立場に立って,つまり親だから、ああせい、こうせいではなくて

お互いの接点をいつかどこか見つけようくらいのゆとりのある心構えを持って

だんだん少しづつでも考え方を理解できたらいいなあくらいのおおらかな気持ち

で毎日を過ごされることが大事ではないでしょうか?

大先輩の話を聞きますと、だんだん嫁さんが自分の方に近づいてきてくれたなあ

と思っていると、又、離れて行く。其の繰り返しで、だんだん理解が深まればいい

と言われます。

長い間培われてきた家族制度というものを敬遠される方もありますが、そういう方はご

自分の未来のお姿を想像される事はないのでしょうか?

中には地球の環境が悪くなってきたから、ご自分のお子さんたちに辛い思いをさ

せたくないということでお子さんを作らないという方々もあるそうですが、其の

方たちの老後は、他の方たちが産んで一生懸命に育てられたお子さん方に看取っ

ておもらいになるわけでしょうか?

何かとってもご自分勝手ではないのかと思います。環境が悪くなるというのであ

れば必死でみんなで力をあわせて叡智を出して乗り越えるように努力をするべき

ではないかと思うのです。

     (つづく)

普通の大人をつくる教育(2)

2010-05-15 10:31:01 | 教育
戦争で、すべて灰燼に帰してしまった私たちの生活。

その後、日本では進駐軍の兵舎やそのご家族の宿舎が彼方此方に建ち、其処で

働く大勢の日本人の口から、また、進駐軍の兵士たちやご家族との関わりの中か

ら、豊かなアメリカの方々の日常生活が浮き彫りにされてきつつありました。

数年後にはアメリカ映画の輸入も多くなって、

 ”1ダースなら安くなる”とか

 "卵と私”などというコミカルなタッチの映画が続けて入ってきました。

 美しい素敵な若いご夫婦の日常生活が形を変えながら表現されていました。

私たちはどちらかというと、映画の内容よりもアメリカ人の方々の豊かな生活ぶ

りに憧れてしまったようです。

アメリカの個人主義的なことや生活のすべてが新しく素敵に見えて模倣して


きてしまった私たちの生活。

生活の様式もアメリカ風の物に少しでも近づけることが新しい生き方だとさえ思

うようになってきてしまいました。

そして、日本の家族制度の崩壊が始まったような気がしています。

核家族と言う言葉が素敵に思われた時代もありましたが、其の裏で、ご自分一人

で子供をどうしたら育てられるのかさえわからないでノローゼになるお若い母親

が出てきたりして、大家族の暮らしでは、とても有り得ないことが問題になった

りしています。

又、お年寄りの孤独死という悲しい問題も起きてきてしまいました。

 (つづく)

さくらんぼ

2010-05-13 21:25:38 | 最近のできごと


今日取れた我が庭産のさくらんぼです。

以前これを植えるときに2種類の木を植えなさいといわれて2本の木

を買ってきたのですが、どうしても花の時期がずれてしまうのです。

それで、もう一本の木はご近所の方が欲しいと言われたので、

差し上げてしまったのですが、それでも、この木は実をつけて

くれるのです。

でも、何故かとっても実が柔らかいのですが、そのような種類

なのかどうかと思っているところです。

実の大きさも小さくて甘みも少ないのですがどういう風にしたら

もっとしっかりとした実になるのでしょうか?

とてもジューシーなものではあるのですが、どなたかご存知の方

教えていただけませんか?

よろしくお願いいたします。

母の思い出(1)

2010-05-09 18:52:15 | 思い出
先日の小学校の最後のクラス会の時に、ある男性が

 "ちーちゃん。あなたの作った歌覚えているよ。

  初夏はよい風、ハイキング。♪~

  リュックサックを脹らめて♪~”と歌い出した。

 ”ちょっとやめて頂戴。其れ私が作ったのではないのよ。

  母が作ったもので、私は厭でたまらなかったのよ。”

  と、何十年ぶりかで私は本当のことを話すことが出来

 たのである。

 確か4年生になったばかりのある日、家族で遊園地へ遊び

 に行ったのだが、帰ってきたら、母が歌詩を書いて

 其の歌を御清書して 学校へ持って行きなさいと言った

 ので、自分で作ってもいないものを持っていかれないと

 いって駄々をこねたが、母はどうしても持っていけと言って

 聞かなかったのである。ところが、其の歌がとてもいいから

 と言うことで、音楽の先生が曲をつけて学校中の生徒で歌う

 ことになってしまったのである。

 母は勿論、とても喜んではいたのだが、私はとても厭で、厭で

 たまらなかった。

 母は才色兼備。何でもできる人だったが、だからこそ、子供の

 私が書くものなどは、歯がゆくてたまらなかったのだろう。

 学校で俳句や作文の宿題が出ると、

 ”あなたは外で遊んでいらっしゃい。”と、言われて、母が

 せっせと文をものしたり、俳句をひねったりするのであった。

 私なりに同学年のこどもたちぐらいの文章力はあったつもり

 だったが、だんだん自信をなくしてしまったのである。

 後年、妹に其の話しをしたら、妹も

 "あ~ら、お姉さんもそうだったの? 私だけかと思っていた

 わ。私も自信がないのよ。”と言っていたのである。

 こともあろうに、母の日に、年老いた娘にこんなことを書か

 れて、母は何処かで、今頃苦笑しているのかもしれない。




結婚記念日

2010-05-04 07:27:37 | 最近のできごと
5月3日。今日は私たちの結婚記念日だったので、夫のお仏壇に

大好物の鰹のお刺身をお供えしようと思って買いに行った。

本当にお刺身とお酒の大好きな人で、特に鰹は大好物。

亡くなる前々日に、病院での夕食に私が筍ご飯に鰹のお刺身、

甘い玉子焼き、ゆでた蚕豆など彼の好きなものばかりをいろ

いろ取り合わせてお弁当に入れて持って行ったら、

”お前、毎日お刺身を持ってこられても、酒がないとな”

と言っていたのである。



今日の午後NHKテレビでキッチンカーが走るという番組

で、房総の勝浦の方々は特に今頃の鰹は脂が少ないので、

お醤油にマヨネーズを入れて召し上がるということで

夫のお刺身にお醤油とマヨネーズを添えてあげようかと

思ったのだが、夫がよしてくれというのではないかと思っ

たら、なんとなくおかしくなって思わずくすりと笑って

しまった。




そういえば、この間、何時も友達とよく行くレストランから、

ご結婚記念日おめでとうございますという葉書が送られて来た。

どこで調べたものか解らないが、夫が亡くなっているのに

おめでとうはないと思ったらどうも私のおへそが曲がって

しまったらしい。

父の応召(2)

2010-05-02 11:50:40 | 戦争体験

父は甲府に入隊したが暫く音沙汰がなかった。

約二ヶ月後にひょっこり家に帰ってきて、家族はびっくりするやら、

安心するやらであった。

 其の頃の軍部での話しだが、横浜を守る部隊を置こうと言うこと

になり、部隊長はすぐ決まったらしいが副官となるべき将校が

なかなか見つからなかったらしい。

それでいろいろ手を尽くしているうちに父の名がリストにあって、

その隊長が下士官だった時代に、父が志願兵としてお世話になって

いたので、覚えていてくださって、それで父をすぐ選んでくださっ

そうであった。

それから父は、常置将校になって横浜に駐留し、一日おきに家に

帰ってきたが、警戒警報になるとに、そそくさと部隊へ出かけて

いった。




 
これは後で聞いた話だが、父は入隊後の約二ヶ月の間、甲府から

千葉へ移り、万が一アメリカ軍が九十九里浜から上陸作戦を展開

してきたときに備えて、毎日浜へ出て、其のときのために訓練を

受けていたらしい。


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匍匐(ほふく)前進という言葉をご存知だろうか? 匍匐前進とは、

兵士が土の上を這って進んで行くやり方で、片方の手を体の前下に

90度に曲げて、もう一方の手には銃や手榴弾を持ち、曲げた方の手

を少しづつ前に動かして、体を前進させて行くやり方で

白兵戦「刀剣,槍などを持って、双方入り乱れてする戦い(大辞林

調べ)になりそうな時に近寄っていくための手段である」

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毎日匍匐前進の練習をして、いざアメリカ軍の上陸用舟艇が波打ち

際から入ろうとしたときに匍匐前進をしていって手榴弾を其の上陸

用舟艇の下に投げつけるとう話であった。

 "手榴弾で、そんなに遠くへは飛ばせないのではないの?"と私が

質問したら、

 ”そうさ。そんなに飛ばせない、だから上陸用舟艇の下に手榴弾

をもって入って行く覚悟でと言う事だったのだ。"と父は言っていた。