80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

鴛鴦の契り(エンオウのチギリ)

2012-09-13 16:28:39 | 家族

はとは平和のシンボルだなんて言いますけれど、

以前、息子が飼っていた鳩たちは、本当によく

喧嘩をしていて、どこが平和のシンボルなんだ

ろうと思っていたのですが、ふと、仲のよい

ご夫婦のことをおしどり夫婦なんていいますが、

本当におしどりはご夫婦仲がいいのだろうか

なんて考えてしまいました。


鴛とはおしどりの雄のこと、鴦とは雌のことで

おしどりはいつも必ずご夫婦並んで飛び立つと

いうので、仲のよいご夫婦のことを称して鴛鴦

の契りというのだそうですが、実は今度の17日

に、都筑区のまんまる公園でお子さんたちや、

お父さんお母さん方に戦争体験をお話するのです

が、赤ちゃんから小学校高学年くらいまでと

ご両親ですから、年齢の幅がありすぎて、どの様

にお話したら、ちゃんと最後まで聞いていただけ

るのかしらと、毎日悩んでいるところなのですが、

あの手、この手を考えるうち、子供さん方にとっ

ては、より身近なお父さん、お母さんの間の争い

ごとの方も深刻だろうなあと思ってしまったのです。

テレビで、タレントさんが”性格の不一致”で離婚

とかおっしゃっていたりすることがありますが、私

は、どうも、あまり、知恵のある方々とは思えません。

いいところも悪いところもあるのが人間なのですから、

ご自分のことを棚にあげて、相手のことばかり悪くいう

のはどうも解せないのです。

ちょっと冷静に考え、お互いに楽しく暮らせるような

アイデアを模索してみたらどうなのでしょう。

それに子供さんは親を選べません。 

夫とわかれてもちゃんと子供を育てると頑張られる

お母さんもおられますが、それ自体不自然なこと

だと思うのです。年をとってから、可愛い孫たちの自慢

話ができる相手はご夫婦だけなのですから、おしどり

夫婦とまで行かなくても普通にお話しのできる関係を

保っていただきたいのです。

本当によけいなお世話ですが・・・。

企業子宝率

2012-07-15 15:52:16 | 家族
NHK テレビおはよう日本 よりの抜粋



企業子宝率でわかる子育てしやすい会社の話。

千葉県のある不動産管理会社に内閣府の研究会で

企業の子育て支援のあり方を提言している東レ経営

研究所研究部長、渥美由喜さんが男性を含む従業員

30人から子供の数を聞き取り、子宝率を計算した。

この会社の子宝率は2.02、日本の合計特殊出生率

1.39(平成22年)を大きく上回っていた。

実際に子供がたくさん産まれている職場には、どう

いう要因があるのかというところから、子育てのしや

すさとは何か、調べたのです。

入社10年目の石井俊晴さんは夕方、会社に子供達を連れ

てきます。

4歳から8歳までの三人の子供たちは仕事が終わるまで

オフィスで過す。

石井さんの話。

”はじめはちょっと抵抗があったんですが、預ける場所が

なくて、どうしようもないときに会社に連れてきて遊ばせ

ておけばいいので助かっています。

子育て中の従業員は、仕事が終わってなくても、子供達を

迎えに行かなければならないのが悩みでした。

この取り組みが始まってからは,従業員が安心して働ける

ようになり、会社の業績ものびたというのです。

  つづく
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日本は何故戦争に向かったか(13)

2011-10-06 12:07:10 | 家族
  NHK テレビ "日本は何故戦争に向かったか"よりの抜粋


泥沼化と言われた日中戦争に突入し、それから抜け出せなくなった

過程からも暗い組織が抱える問題点が浮き上がってきます。

1932年9月民衆の圧倒的な歓迎に迎えられて帰国した軍人達が

いました。満州事変を起こした関東軍の責任者達でした。

組織の統制を乱し処罰の対象であるべき彼等を陸軍はむしろ表彰。

世論も熱狂し、今さら事変は謀略だったとは表沙汰にできなくなって

いたのです。

この頃から現地軍では独自の中国政策を立案し、その成果を競い合う

ようになります。

例えば、中国人とのトラブルが多発した天津、その天津軍の参謀長

酒井隆は自らの企画で手柄を上げる機会をうかがっていました。

重光葵回想録によりますと、

 "酒井参謀長は北支工作を断固として自分の手でやることを決意して

いました。

同僚の中でただ一人、これまで勲章にありついていなかったのです。

 1935年、5月29日、30日、酒井天津軍は装甲車と機関銃

部隊を転じ中国政府を威嚇し、北京中央からの撤退を要求したのです。

陸軍中央は無断の独断行動である酒井が、この事件を機に帰国した

際、少将に昇進させました。

これは隣の関東軍を刺激し、やはり中央には無断で満州を越え華北

地域へ進出を繰り返していました。

この時の関東軍の首謀者は板垣征四郎。

満州国の安定と言う独自構想から北京近くに傀儡政府を樹立します。

中央はこれも追認、満州事変を不問に付しましたことで、その後の暴走

を認めざるを得なくなっていきました。

京都大学助教授森靖夫(政治史、日本陸軍の統制システムを研究)は言う。

 ”陸軍と言うのは今の官僚と全く同じことなんですが、一つの慣例が

 成立してしまうとそれが、前例となって同じ行動をとっても罰せられ

 ないし、許されてしまう。 そのきっかけが、満州事変であった。”

 国際日本文化研究センター教授戸部良一の話。

 "結果さえ良ければという話が非常に多くなる。結果的に陸軍のため

 になり自分の立身出世にもなると言う発想が非常に強くなる。”



 中央が現地軍にしっかりものが言えなくなる、それを裏付ける機密資料

 が見つかりました。陸軍が関東軍を抑えるために隣の天津軍を増強する

 と言う手迄使ったことが記されていました。


元陸軍中佐稲葉正夫の話

 "軍事工作をやめろと言ってもそれでも関東軍は聞かないわけですよ。

 北支進出や領域を犯すわけですよ。それを何とか抑えようとするのが

 この手なんですよ。北支(天津軍)を大きくすれば関東軍は次第に出

 なくなる。要するに関東軍の北支進出を抑えるため何ですよ。”

 天津軍を3倍増強し関東軍の進出は止まりました。

 しかし、これらが、誤算の連鎖を生みました。中国に説明なくして

 進む天津軍の状況に現地では反日運動が激化、全土に広がっていき

 ました。

 誤算は続きます。

 一夕会の強硬派として知られる歩兵第一連隊長牟田口廉也大佐が天津軍

 連隊長に就任、派閥人事で転出後、再起を狙っていました。

 天津軍は連日国民党の精鋭部隊のいる盧溝橋の近くで演習を繰り返しま

 す。

 1937年7月7日(昭和12年)発砲事件が発生。牟田口はこれを

 国民党軍からの脅迫だとして攻撃をします。これが日中戦争の始まり

 でした。(1937年から1945年)

成果を競い、暴走する出先に、曖昧な対応しかできない中央、その関係

が多大な犠牲者を出す戦争へと陸軍を引き込んでいきました。

(つづく)
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お葬式

2010-04-24 09:56:20 | 家族
 最近はお葬式と言ってもご親戚だけの間で執り行われる

こともだんだん増えてきているようであるが、この間、

長男の嫁さんのお母さんのお葬式は、そういうお式であっ

たのだが、本当に、其れまでのご本人さんとご家族の人間

関係の良さが出ていたようなものだった。

立派なご本堂で三人のお坊様方の読経から始まったが、

始まる前に息子が

 ”お母さん、お経が多分長いと思うけれど大丈夫?”と、

言って心配してくれていたが、本当に長いものだった。

私は貧乏人の悲しさ、多分お布施が随分と多かったに違い

ないと、お坊さんの懐勘定まで考えてしまった。

 それから、ご本人様とのお別れの儀があり、すぐ近くの

火葬場での一連のお別れの行事が続き、又、お寺に帰って

お食事をいただいたのだが、三人のお子様方のご家族と、

妹さんのご家族とのやり取りが、実に、温かみに溢れて

いて、見ていて心地よかった。

今まで、この年になるまで、随分といろいろのお葬式に出て

きたのだが、こんなお幸せな仏様ってあっただろうかと思う

ほどであった。

 どうも私なりに考えてみると、お亡くなりになる前に、

二、三年の準備期間があったらしい。其れがよかったのでは

なかろうか?

大腿骨を骨折されてご入院されたり、あちこちの病院へ入って

おられる間に家でのご看病もあったり、あちこちと温泉にお連

れしたりで、孫たちが交代で車椅子を担いだりと言うこともあ

ってお孫ちゃんたちの間によい連携が出来たのだと思った。

本音を明かすと、其の9年前にお父さんが亡くなられた時には、

お孫ちゃん達、つまり従兄妹間の連携があまり感じられなかっ

たのであったのに、今回は非常にいい関係になられたと思った

のである。

人間みんなで何かを一緒にすることが大事なのかもしれないと

つくづく思った。

おじいちゃまの時には、ほとんど急なことで、みなさんの

お心の準備期間がなかったのだとも考えた。

確か急に意識不明になられてから三ヶ月以上は入院されて

いたけれど、意識不明と言うことで、あまり皆さんで一緒に

お名残を惜しむことがなかったのだと思う。

おばあちゃまの場合には、皆さんで助け合い

ながら面倒を見られたと言うことが、いい関係を

作られたのだろうなあと推測した。

ご長男のご挨拶もなかなか皆さんを思いやられたいい

お言葉が続いていた。

私は今までぽっくりいきたいなんて思っていたけれど、

こういうのも悪くないかもしれないと思い始めてしまった。

嫁を取るなら

2010-02-02 01:43:33 | 家族
 嫁を取るなら母親を見よと昔からいっているが、

なかなか穿った言葉だと思う。

親御さんが立派なら、娘さんもいずれそのようになると言うことかと

思うが、昔は,お見合いが多くて、親御さんがお見合いの席には

列席するから、必然的に親御さんと会うわけだが、近頃ではでき

ちゃった結婚とかもあって、親御さんをみてからでないから、結婚し

てしまったら両家の間がなかなか疎遠になってしまう家も少なくない

らしい。それどころか、お二人さんだけの生活に入って親御さんは

まったく抜きという関係もあるやに聞いている。

 その点わたしは息子たちに感謝していられる。長男も次男のお宅も

本当に楽しくお付き合いのできる方たちであるからだ。

最初に結婚した長男のお嫁さんのお母さんは10歳あちらの方が年上

でいらっしゃるのだが、全く電話などしても違和感がないし、いろいろ

教えられることも多く尊敬できる。電話で話が弾むのは嬉しいことで

ある。その上、嫁さんと、彼女のお姉さんと仲の良いことはいつも見て

いていい物だとつくづく思う。私は長女で姉がいないので、何時まで

も仲良くしていてもらいたいものだと思っている。

お兄さんは会社経営でいまどき大変だと思うが、なくなったお父様は

なかなかの豪傑タイプで息子たちの結婚前にお会いしたら、ちょうど

ボーナス時期だったのだが、

 ”そうか、私はボーナスは払うものだと思っていた。”といわれたが、

それがまったくいやみに聞こえない魅力的な人だった。

次男の嫁さんのお母様も私より3歳くらいお若いが本当に教えられるこ

との多い方である。お父様には一度囲碁を教えていただいたことがあるが、

私はまだ人間様と打ったことがないからとお断りをしたのだが、井目風鈴

を置かせていただいて、終わったあとには白は全部つながれていて、強い

人とはこういうものかと思った記憶がある。次男の嫁さんのお兄さんは夫

が北京に駐在のときにたずねてきてくれたととても喜んでいたし、弟さん

一家も楽しいご一家で、美人の家系で、すごく可愛い娘さんだから

”学校でもてるでしょう?”と聞いたら、”はい。”とうなずかれた。

弟さんの方はなかなかの元気いっぱいのようで頼もしいらしい。


塵が消えた?

2010-01-30 09:55:25 | 家族
  このところ塵が消えている。先週も今週もだ。

と言っても別にスリラーという訳ではない。

私は家の横に大きなポリペールを置き、その中に

いろいろな塵をポリ袋に入れて、次の収集の日迄

入れて置くのだ。

それを嫁さんが持って行ってくれるという話で

ある。

 何年も前に、彼女が

 ”お母さん。塵は私が持っていきますよ。”

と言ってくれたことがあった。夫が亡くなった

後の話だったような気がするが、人に甘えて

ばかりいては体力が衰えると思っていたし、

彼女も毎日ではないが、仕事に出かけるので、

私はできるだけ迷惑をかけたくない気持ちもあ

って、感謝しながら断ったが、それでも庭木の

枝や雑草塵など、よく気がつくと持っていって

くれていたのだが、今年は、わたしも、満年齢

で80才になるのだから大変だろうと思ってく

れているのだと思うのだが、有難い事である。

 彼女のコンセプトというのが、

 ”人知れず親切にするのが、本当の親切だ。”

というようであるが、私にはなかなかできる

芸当ではない。



 

天からの授かりもの(?)

2010-01-19 11:18:03 | 家族
 
実を申せば、昨日ご近所の素敵な方からいただいた

お菓子です。あまりにきれいにできていたので、

すぐいただくのはもったいないと思い、写真にとっ

てブログに載せようと思ったのです。

 勿論とってもおいしかったです。

本当に皆さんにおすそ分けしたかった(いや、本当に!)

私の祖父はそういう人でした。いつも仕事上で、外でおい

しい物をいただくことがあると、必ず家族にお土産として

それを包んでもらってきていたそうです。

私の母は次女でしたので、一緒に住んではいませんでした

が、時々夏休みなどにお泊りに行って、祖父が夕方両手に

一杯そう言う買い物をして帰ってくるのを目にしていました。



他人様のお話ですと、戦争中には私に家では早い者勝ちで大きい

子供がたくさん食べてしまい、小さい子にはなかなかわたりませ

んでしたので、大変でしたというようなことを聞くと本当にそう

いうお宅は大変だったろうと思いました。私の父はできるだけ

平等にという考えの持ち主だったので、みんな同じに分け合っ

ていただいていたのですが、私は体格のいい父には悪平等では

ないかと思って申し訳なく思っていたのです。私たちと同じで

あれば当然大きい父には足りないはずですのに、母にしても自分

よりは子供にと思ってくれていたのですが、本当に有難いことで

した。