80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

学徒動員時代の思い出(1)

2010-08-20 20:24:15 | 戦争体験
 私が工場へ動員されたのは二回で、第一回めは1944年の

森永の鶴見工場行きで、二年生だった。

この事は以前にもチラッと触れた事があったが、そのとき

のいろいろな事を少し詳しく書いてみたいと思う。

当時、私の女学校では一学年約300人が6クラスに分かれていたの

だが、学校の方針で、私たち生徒にできるだけ公平に動員の

作業をさせたいと言う事で、1組と4組を12月18日から翌年の1月31日

まで、2組と5組を2月一杯、3組と6組を3月一杯と言う風に順番に、

動員先へ送り出す事に決めたようであった。

私は1組だったので、最初に動員されたのだが、朝8時に工場へ出勤

すると、年のころは、50代後半かと思われる半分白髪の湯元主任

(男性)さんの朝礼での訓示があって、それからバケツに入ったお湯

が数箇所に置かれる。

暖房もない部屋のなかでの手作業なので、みんな手がかじかんで

作業がやりにくいので、最初にバケツの中のお湯で手を温めてから

作業が始まるのであった。

私たちの仕事は”元気食””航空耐寒食”の包装に関する仕事で、

下級生の私たちにはそれを入れる入れ物を作る仕事であって、

どんなものが”元気食”なのか、”航空耐寒食”なのか見たことも

なかった。

一日中立ってする作業だったので、なれていない私たちには大変な仕事

に思えたが、湯元主任は、女性は立っているのが一番健康によいと言わ

れたのである。


その頃すでにアッツ島の日本軍が玉砕した後で、サイパン島の兵隊

さんたちのために、一袋でも多くの食料を送らなければならないので、

頑張ってくださいと訓示された記憶がある。

(つづく)