80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

筍料理の冷凍

2010-04-30 09:55:43 | お料理
昨日は用事であちこち行って疲れて休んでいたら、前のお宅の奥様

からごく新鮮な筍のお裾分けをいただいた。急いで庭の山椒の葉を

摘んで前のお宅へお持ちした。

大好物の筍のお顔を拝んだら、急に元気が出てきて、すぐに筍を茹

で始めた。 筍は一分一秒を争うと言われているほど、新鮮さが勝

負だ。其の間にたっぷりの鰹節と昆布でおいしいお出しを用意。

お米をといで、水気を少なめにして少々お塩を入れておいた。

茹で上がった筍に砂糖、みりん、お酒、お醤油、おだしを入れて

煮込み、炊飯器が後1分のところで蓋を開けて煮た筍を入れてみ

た。 ふたを戻して、15分ほどそのままにしておいてからいただ

いたが絶品だった。やっぱり筍は新鮮でなければと思っていたが、

今朝、塵捨てに行ってたら、前の奥さんとお会いしたので、其の

お礼を言ったら、其の後の筍をお料理法を聞かれたが筍は大きい

ままでは冷凍してもふにゃふにゃになってしまうのに、小さく

切って茹でたり煮たリ、ご飯に入れて炊いたものはおいしく冷凍

が出来ると言う話になって、しばし盛り上がってしまった。

冷凍庫のお蔭で長い間おいしくいただけるのは本当に感謝、感謝

である。

普通の大人をつくるための教育(1)

2010-04-28 07:01:25 | 教育
昨日のNHK テレビで、"上海失われる親子の絆”を御覧になった方

も多かっただろうと思うが、今、上海ではお一人暮らしをされていた

お年寄りが息子がありながら2年間も孤独死に気ずかれる事がなかった

事実にショックを受けて、市の肝いりで"親孝行契約書"なるものを親子

で取り交わし、忙しくて電話もあまり出来ないと、監督官庁から、連絡

が入り、この頃、電話もしていないそうでと言うご指導が入ると言う事

であったが、なんとも侘しい話になったものだと思うが、わが国でも、

其れは他人事とも思えないことである。

年をとって何が一番幸福かと言えば、私は子供や孫たちの笑顔に囲まれ

ている瞬間ではなかろうかと思うのだが、いかがなものであろうか?

お若い方々の中には、環境の悪化を懸念して、産まれてくる子供たちが

かわいそうだからと言うおかしな考え方をして、子供を作らない方々が

あるが、そんな方々の親御さんたちは老人のお集まりに来られてもどこ

か淋しそうである。

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(そんなことを考えている暇があったら、人間の叡智を信じて環境問題を

もっと真剣に考え、其の方向で努力すればいいではないかと思う。)

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孫には目がないと仰って延々とお孫ちゃんの話をされる方もあるが、孫

のまの字も話せないのは、御当人も淋しいが、周りの方々も気を使って

話が出来ない事になってしまう。

  (つづく)


父の応召(1)

2010-04-27 19:41:04 | 戦争体験
 昭和20年の2月の初旬のある日の午後、学校から帰って

門から入ろうとした時に、後ろから声を掛けられた。
 
”安藤英雄さんのお宅はこちらでしょうか?”振り返ると、

国防色の服にゲートルを巻いて小さなかばんを肩から斜めに

かけた50がらみの痩せぎすの小父さんが立っていた。

 ”はい、そうですが?”と言うと、

 ”ご在宅でしょうか?”と重ねて聞かれたので、母を呼んだ。

 ”おめでとうございます。召集令状をお持ちしました。”

 と、彼は言って出てきた母に手渡した。

 母が日時を書いて印鑑を押して、彼に

 ”確かにお受け取りいたしました。”と言って、受領書を

 お渡しした。


 召集令状は通称赤紙と言われていたが、赤と言うよりは

 多少紫に近いくすんだ赤色で、往復ハガキ大ぐらいの大き

 さであった。

 わら半紙のような紙に黒いインクで印刷されていて、まこと

 に粗末なものであった。

 いよいよ父に召集令状が来たのだと思うと、会戦の日、父か

 ら言われた言葉が急に重くのしかかってきたように思った。



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 (1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦の日、父は

 裏の竹やぶの前で、軍用行李を取り出して中のものを取り出し

 て点検し、虫干しをしながら、学校から帰ってきたばかりの私

 を呼んで言った。

 ”お前も知っての通り戦争が始まった。お父さんはいつ陛下の

 お召しを受けるかわからない。おばあちゃんは年を取っている

 し、お母さんは体が弱い。お前だけが頼りだ。

 お母さんを助けて、小さい弟や妹たちの面倒をみてやってくれ。

 昔、フランスにジャンヌダルクと言う少女がいて剣を持って戦

 って国を勝利に導いた。お前もいざと言う時には千万人と言え

 ども吾行かんと言うぐらいの気概を持てと言われていたのだ。)

 
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 其の頃赤紙が来ると町内会事務所へ行って証明をもらい、お酒

 の特配(特別に出征を祝うためのお酒を買うことが出来るのだが、

 昭和20年の頃では確か一升だけだったと思う)をもらってきた

 が、父の友達は殆ど出征しておられて、内地にいたのは父を含め

 て三人だけだったが、3,4日しか出かけるまでに時間の余裕が

 なくて、お一人は、どうしても来ていただけず、Kさんという

 お友達と二人で飲んでいたが、其のお酒もあまりいいお酒では

 なかったようで、大して飲まないのに、父はトイレで吐いていた

 し、Kさんも悪酔いされたようであった。

 
 戦争が始まってすぐの頃には出征兵士が出かけると言うと、在郷

 軍人のおじさんたちや、真っ白い割烹着に愛国婦人会の襷を掛け

 たおばさんたちを含めた大勢の大人や子供たちが手に手に日の丸

 の小旗をもって神社に集まってきて、出陣式のようなことをする

 ”出征兵士の○○さん 万歳!万歳!万歳!”という万歳三唱が

 終わると、出征する兵士たちのご挨拶があって、

 ”ホワイトハウスに必ずや日章旗、を立てて参りますなどと、

 大きなことを言っていた兵士もいたのだが、だんだん出征兵士の

 数が多くなるにしたがってそういうことが出来なくなったようで、

 父の時には、もう、そういうことはなくなっていた。

 (つづく)

まとめ買い

2010-04-25 08:29:29 | お料理
 約7年前夫が亡くなってから、二階に住む次男の嫁さんが

 ”お母さん、今度からご飯つくりましょうか?”と言って

くれたのだが、孫二人と息子たちの帰る持間もまちまちだし

そこへ私が加わったら、ありがたいけれど、それでは大変だ

ろうから、できる間は私は自分で作ろうと思い、

 ”それでは、日曜日だけ一緒にお願い。毎日では大変だろ

 うから。 それで、いくらか食費を払うわ。”と言ったが、

 ”それくらいいいです。”と言ってくれたのだが、

 ”それでは、毎月一回だけみんなで食事に出ることにして、

  あなたたちの行きたいところを予約して頂戴。

  お支払いは私がするわ。”ということになった。

  
 
 嫁さんはお料理がとても上手で綺麗に飾ってくれる。

  お味噌汁なども、いろいろの食材を取り合わせたものを、

  作ってくれるし、てんぷらときたら超一流だと思えるもの

  が出てくるのだから、私は、日曜日の楽しみが増え、全く

  いいことを考えたものだと一人ご満悦であったのだ。

 

  それ以来、普段はお一人様のお食事作りだから、出来るだけ

  少量の食材を買うことばかりを考えていたのだが、近頃では

  発想の転換をすることにしたのである。

  食材を買う時には、その日の体調と、次の日のスケジュール

  を考えて、家に帰ってから、あれこれ作って冷凍する気力、

  体力共にありそうなときには、冷蔵庫や冷凍庫の中を思い浮

  かべながら、多めにパックされた肉類や、魚介類の冷凍品の

  大きい袋のものを買うことにしたのだが、そういう風に考え

  て見ると本当にお得な買い物が出来るようになったのである。

  

  例えば、大きな丸のままのザーサイ8個入りが袋詰めになっ

  ているものが消費税込みで288円、一般に細切りになって

  小さな袋に入っているものとお値段はあまり変わらないで買

  えるのだが、丸のままの一ケを切って塩出しして使えば、

  1ケで小分けの物1袋分にはなるので、8分の一の値段に

  しかならない。 買うときには重たいが、後は本当に得した

  気分が味わえる。

  先日もバナナの大きい束が二種類置いてあった。片方は少し

  熟しているもので、もう一方は熟し始めていると言ったもの

  だった。目で何本あるか数えてみたら、16本の束だったの

  で、消費税込みで288円なら一本いくらかなと思って暗算

  してみたら、一本18円にしかならない。そばの3本セット

  になっている物は198円とか、どう考えたってお得だが、

  食べきれるかどうかと思ったが、あまり熟さない方を買って

  来て、最後に腐る寸前までいったら、冷凍しようと思って

  覚悟を決めて買ってきたのだが、仏様にお供えするのだって

  立派だし、毎日、一本、二本と下の方から切って来て、庭の

  西洋不断草や、にんじん、りんご、クエン酸、蜂蜜と少量

  の水を加えればおいしいジュースが出来、野菜をいただく量

  が増えて健康にもよさそうだと思えてきた。其のバナナも

  このところの寒さで少ししか熟しが進まないので、いつしか

  数本にまでなってしまった。本当にお得な気分を満喫してい

  る。

  
  

お葬式

2010-04-24 09:56:20 | 家族
 最近はお葬式と言ってもご親戚だけの間で執り行われる

こともだんだん増えてきているようであるが、この間、

長男の嫁さんのお母さんのお葬式は、そういうお式であっ

たのだが、本当に、其れまでのご本人さんとご家族の人間

関係の良さが出ていたようなものだった。

立派なご本堂で三人のお坊様方の読経から始まったが、

始まる前に息子が

 ”お母さん、お経が多分長いと思うけれど大丈夫?”と、

言って心配してくれていたが、本当に長いものだった。

私は貧乏人の悲しさ、多分お布施が随分と多かったに違い

ないと、お坊さんの懐勘定まで考えてしまった。

 それから、ご本人様とのお別れの儀があり、すぐ近くの

火葬場での一連のお別れの行事が続き、又、お寺に帰って

お食事をいただいたのだが、三人のお子様方のご家族と、

妹さんのご家族とのやり取りが、実に、温かみに溢れて

いて、見ていて心地よかった。

今まで、この年になるまで、随分といろいろのお葬式に出て

きたのだが、こんなお幸せな仏様ってあっただろうかと思う

ほどであった。

 どうも私なりに考えてみると、お亡くなりになる前に、

二、三年の準備期間があったらしい。其れがよかったのでは

なかろうか?

大腿骨を骨折されてご入院されたり、あちこちの病院へ入って

おられる間に家でのご看病もあったり、あちこちと温泉にお連

れしたりで、孫たちが交代で車椅子を担いだりと言うこともあ

ってお孫ちゃんたちの間によい連携が出来たのだと思った。

本音を明かすと、其の9年前にお父さんが亡くなられた時には、

お孫ちゃん達、つまり従兄妹間の連携があまり感じられなかっ

たのであったのに、今回は非常にいい関係になられたと思った

のである。

人間みんなで何かを一緒にすることが大事なのかもしれないと

つくづく思った。

おじいちゃまの時には、ほとんど急なことで、みなさんの

お心の準備期間がなかったのだとも考えた。

確か急に意識不明になられてから三ヶ月以上は入院されて

いたけれど、意識不明と言うことで、あまり皆さんで一緒に

お名残を惜しむことがなかったのだと思う。

おばあちゃまの場合には、皆さんで助け合い

ながら面倒を見られたと言うことが、いい関係を

作られたのだろうなあと推測した。

ご長男のご挨拶もなかなか皆さんを思いやられたいい

お言葉が続いていた。

私は今までぽっくりいきたいなんて思っていたけれど、

こういうのも悪くないかもしれないと思い始めてしまった。

お風呂

2010-04-23 15:20:20 | 健康
 この間NHKテレビでお風呂の温度は正確に設定温度になって

いないことがあると言うことを話しておられたけれども、私は、

多少熱いか温いかぐらいだろうかと思ってあまり気にも留

めていなかったのだが、今朝出かける前に朝風呂へ入ろう

とした時に、いつもよりお風呂の温度がとても熱く感じた

ので、ふと、半ボケバアチャンのお風呂は、オーナーに合

わせてお風呂の温度も半ボケになったかなあなんて、自分

自身、心の中で独り言のように言ってみて、思わず、くす

っと笑ってしまった。

 私一人ためのお風呂だから誰も温度を変えるわけはない

のにと思いながら、設定温度を見たら、いつものとおり

38度になっていた。


ところがである、温度は半端ではなかった。あまりにも

熱くてさんざん水を足して、其の上、いつもなら、追い

焚きにして湯船に入るのだが、とても追い焚きにしたい

気分になる温度ではなかったのである。


これは、笑って済ませる問題ではないのではなかろうか

と思った。

もしヤットお一人でお風呂に入れるようになったばかり

くらいの小さいお子さんだったらどうであろうか?

じゃぼんと飛び込んでしまったら、熱くて、熱くて、

あわてて、お湯の中で溺れたりするようなことにはなら

ないのだろうかと考えてしまったのだが、年寄りの取り越

し苦労とお思いでしょうか?

保育科(24)

2010-04-22 16:26:57 | 学校
 ある日、学校の主事先生に階段の途中ですれ違ったら、

声を掛けられた。

 ”あなたに話があったので、来てもらおうと思ってい
 
  たところだが、ちょうどよかった。卒業式に答辞を読んで

  もらいたい。”

 私はすぐお断りした。

 ”先生。私はもうお嫁に行くわけでもありませんし、どなたか

 お若い方にやらせてあげてください。”

 その後、又呼ばれて、

 ”満場一致であなたに頼む方がいいと決まってしまったよ。”

 と、言われたので、私はがっかりした。とにもかくにも疲れ

 果てていたのだ。これ以上何もやらないでいいものはしたく

 なかったのが本音だった。

 卒業式の前日、仕方なく原稿を書き、墨をすって、奉書に書い

 ていったが、長い間の大変だったことが次から次へと思い出さ

 れて涙が止まらなかったのである。

 翌日の卒業式の後、ホテルで謝恩会が開かれたときに、心理学

 の先生が、

 ”僕はあなたは答辞を読みながらキット泣かれると思っていま

  したよ。”と、仰った。

 ”私も泣くと思って前の日に泣いておきました。”

 と思わず言ってしまった。(笑い)


保育科(23)

2010-04-21 08:47:42 | 学校
 1960年の安保闘争が終わってから学生運動もだんだん下火には

なっていたのだが、それでもあちこちでくすぶっていたらしい。

私の学校でも、夜学の人たちから学校への要求をしたいという動きが

出始めてきたようだという話を家で夫に話たら、

 ”お前はもうすぐ卒業だから、今そんなものに加わったら、せっか

 く頑張ってきたのに、卒業出来なくなるから、絶対加わるな。”

と言ってくれたのだが、其の翌日の午後、法学の先生から

 ”皆さんにお話したいことがあります。椅子を持って私の周りに

  輪になって坐ってください。”と、言われた。

 なんとなく厭な予感がしたのだが、私は結局、先生のすぐ右隣に

坐らされてしまった。

 夜間部は学生運動に立ちあがったので、あなたたちも一緒に加わ

ってくださいという話であった。

若い人たちは結局全部加わるということになってしまったのだが、

私は最後まで黙ったままであったのだが、こうなっては、仕方が

ないと考えていると、先生が、

 ”私は命がけで皆さんをお守りします。”と、何度も言われた

のである。

 ”荒武さん。あなたに入ってもらわないと困る。大丈夫ですよ。
 
  私がちゃんとお守りしますから。”

 それではと承諾して帰路に着いたのだったが、翌日例によって

 白楽の駅から学校までふーふー言いながら駆け上がって行ったら、

上から坂を駆け下りて来た友達が、

 ”荒武さん。大変よ。夕べ法学の先生が主事先生と大喧嘩して

  学校を辞められたそうよ。学校では、学生の話を聞いて善処

  すると言っているわ。”と言った。

 ”えっ! 昨日の午後、法学の先生は、命を掛けて皆さんを

  お守りすると仰っていたでしょう。それでお辞めになったの?

  ちょっと信じられない。”

 私は彼女に、

 ”では、二階の大きい部屋に一年生と二年生に全員集まってもら

 って。すぐ行くから。”と、頼んだ。

 私は、全員の前で

 ”夕べ、法学の先生が辞められたことと、学校側は、学生たちと

  ちゃんと向き合って話をしてくれると言ってくれているので、

  今はストライキをする時ではないと思います。まづ話し合って、

  それで納得がいかないときには、ストでも何でもやりましょう。

  今、ストをやればきっと怪我人が出るでしょう。せっかくみんな

  頑張ってきたのに、もったいないと思います。”

  其れでみんなの賛同を得られたので、解散した。

  それでも、先生の行動には腹が立って腹が立っておさまらないの

  で、家に帰ってから、法学の先生のお宅に電話した。

  先生がすぐ電話に出られたので、

  ”先生、昨日はあれだけ命を掛けて私が皆さんをお守りしますと

  強く仰っておられたのに、どうしてお辞めになられたのですか?”

  と、聞くと、

  ”もし辞めなければ、私の名誉が傷つきます。”

  ”お辞めになってどうやって私たちを守れるとお思いですか?”

  私は腹が立っていたので、強い口調で詰問した。

 ”それでは、中央大学のオルグを派遣しましょう。きっとあなた

  方の力になってくれますよ。”と仰ったが私はきっぱりと

  お断りした。

 ”結構でございます。私どもは私どもでしっかりと考えて行動い

  たしますので、オルグの派遣は要りません。”

  がちゃんと受話器を切ってしまった。

 その後聞こえてきたのは、其の先生はどこの学校へ行っても、

 そのようなことをしていたと言う事であった。

 


保育科(22)

2010-04-20 00:47:13 | 学校
 実習が始まって以来、私には気になるお嬢ちゃんがいた。

○子ちゃんだったが、お顔の表情が何時も全くないのだ。

彼女の表情の変わる時を見たいものだと思って実習に入って

以来いつも真っ先に彼女に声を掛けるように心がけていたが、

なかなか毎日毎日見守っていても表情が変わらなかった。

一週間目ぐらいにヤット少し小さな声で何か言ったようだっ

たのだが、聞き取れなかったので、聞き返してみたのだが、

二度と声を出してはいけないような顔をされてしまって、

取り付く島がなかった。

私たちの実習はたった二週間だったのだが、ようやく彼女が

私に近づいてくれたのはわずか三日前だった。

園庭で遊んでいたときにも、私は何時も其のお子さんを

そっとみんなの輪に入れるように後ろから背中を押して

あげたりしていたのだが、ヤット其の日、そっと私の手

を握ってくれたリ、折った鶴ををわたしにと言ってくれ

たのである。やっと少しづつみんなの輪に入れるように

なって、彼女の顔に微笑が見られるようになった。

ほっとしたのもつかの間、翌日、先生が

”荒武先生は明日で終わりだから、みんなで折り紙で鶴を

 折ってプレゼントしましょう。”と言ってくださった

とたんに彼女の表情がさっと硬くなってしまって、周りの

子供さんたちが、折り紙をいくつも私のところへ持ってきて

くれたのにもかかわらず彼女は折り紙を手に取ろうともしな

かったのである。

私は彼女の手を握って

”ごめんね。私は、来週から学校へ戻らなければいけないの。”

と言ったが、彼女はすっかり冷たい表情に戻ってしまっていた。

本当に辛い辛い思い出になってしまった。何十年たっても

彼女の表情が忘れられない。


保育科(21)

2010-04-19 15:45:51 | 学校
二年生になって増えた科目は第一期目には実習で役立つ

ようなお話の仕方だとか紙芝居や、包装紙などを使って

作る工作だとか、音楽でも、実際に幼稚園で朝やお帰りの

時に歌うものだったり、どんな歌でも即興で和音をつけた

りできるようにする授業があったり、リトミックなども

増えたのだが、心理学でも実際の幼稚園児に来てもらって、

いろいろ質問をしたりして、子供さんの心理を理解するよ

うなことが多くなり、第二期目になると、実際分散して方々

の幼稚園に行って実習させていただくことになった。

 私は学校側から実習させていただく幼稚園を決められる

前に、家の近くの幼稚園で実習がしたかったので、次男が

お世話になったキリスト教の幼稚園にお願いしようと思ったの

だが、小田原から来ていた同級生が自分も近くの幼稚園で実習

を受けたいから私の行くところへ一緒に頼んでくれというので、

勝手に話を進めてしまったのだが、学校側からお願いするのが

筋であるということで、ご迷惑をかけてしまった。

私はただ、ただ、できるだけ自分の子供たちの近くにいたかった

のだが・・・。